わかさのかみうじふさ
「若狭守氏房」は、1534年(天文3年) 美濃国(現在の岐阜県)生まれ。父は「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)が有名な名工「兼房」(かねふさ)で、三男として誕生しました。本名は、河村三郎(かわむらさぶろう)、のちに清左衛門(せいざえもん)です。
幼少の頃から父に鍛刀を習い、はじめは兼房の名前を継いでいましたが、駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の守護「今川氏真」(いまがわうじざね)に招かれて府中(現在の静岡県静岡市)で鍛刀し、今川氏真から氏の字を賜り「氏房」(うじふさ)と改名しました。
1570年(永禄13年)に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)、及び若狭守(わかさのかみ)に任命され、「若狭守藤原氏房」などと銘を切るようになります。
やがて「織田信長」のお抱え刀鍛冶となり、尾張国(現在の愛知県)の清洲城、近江国(現在の滋賀県)安土城に移住。1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が自害したあと、岐阜に帰省しましたが、晩年は清洲(現在の愛知県清須市)に移住して、武士から刀鍛冶に転向した長男「飛騨守氏房」(ひだのかみうじふさ)を指導しました。尾張鍛冶の中心的な存在となるほど繁栄し、1590年(天正18年)に57歳で死去したのです。
若狭守氏房の初期の作風は、美濃伝(現在の岐阜県の刀剣伝法)の伝法をよく守り、父・兼房の兼房乱れを多く作刀しましたが、後年は相州伝(現在の神奈川県の刀剣伝法)風の沸本位(にえほんい)で、大互の目乱れや大乱れを得意としました。
なお、若狭守氏房の代表刀としては、織田信長が1571年(元亀2年)の「比叡山焼き討ち」の際に差料(さしりょう)とした特別保存刀剣「刀 銘 若狭守氏房作 元亀二年八月日」が有名です。