「与謝野鉄幹」(よさのてっかん)は、明治時代から昭和時代にかけての歌人・詩人で、妻は歌集「みだれ髪」等で知られる歌人「与謝野晶子」(よさのあきこ)です。月刊文芸誌「明星」(みょうじょう)の創刊を主宰するなど日本文学界に大きな功績を残す一方、女性関係においては奔放であり、与謝野晶子とは2番目の妻との離婚をへて結婚しています。歌人としての名声では妻・与謝野晶子に及ばなかったものの、与謝野晶子の才能を見抜いてそのプロデュースに尽力した他、多くの歌人・作家を育てました。
与謝野鉄幹
1873年(明治6年)2月26日、与謝野鉄幹は京都府岡崎町(現在の京都市左京区岡崎)の僧侶「与謝野礼厳」(よさのれいごん)の四男として生まれます。本名は「寛」(ひろし)。母「初枝」(はつえ)は京都の商家出身です。
1883年(明治16年)に「安養寺」(大阪市住吉区)の「安藤秀乗」の養子になります。
1889年(明治22年)には「西本願寺」(京都市下京区)で得度(とくど:僧侶になるための出家の儀式)をしたのち、現在の山口県周南市に住んでいた兄「赤松照幢」(あかまつしょうどう)のもとへおもむき、同寺が営む「徳山高等女学校」の教員となりました。
教員時代に寺の機関紙「山口県積善会雑誌」の編集に携わり、「鉄幹」の号をはじめて使用。また「与謝野」姓に戻っています。
徳山高等女学校では4年間国語の教師として勤めるも、教え子である「浅田信子」と関係を持ち教師を解雇。浅田信子と結婚後、上京して、歌人・国文学者の「落合直文」(おちあいなおぶみ)に師事します。
1896年(明治29年)には出版社「明治書院」の編集長となり、同時に「跡見女学校」で教鞭を執ることとなりました。与謝野鉄幹は、この女学校でも生徒である「林滝野」と関係を持ち、浅田信子と別れて林滝野と同棲。林滝野との間に子どもが生まれたため再婚します。
1900年(明治33年)、与謝野鉄幹は「明星」を創刊。「北原白秋」(きたはらはくしゅう)、「吉井勇」(よしいいさむ)、「石川啄木」(いしかわたくぼく)らを見出し、感情や個性、自由を尊重する文芸運動の「ロマン主義」において中心的役割を果たしたのです。
与謝野鉄幹は、当時まだ無名歌人であった与謝野晶子(旧姓は鳳[ほう])と出会い、その才能に惚れ込むとともに深い仲に。さらに、与謝野晶子初の歌集「みだれ髪」をプロデュースして人気歌人へと押し上げます。妻・林滝野と離婚した与謝野鉄幹は、1901年(明治34年)に与謝野晶子と再婚し、6男6女を儲けました。
与謝野晶子
1901年(明治34年)8月刊行の「みだれ髪」は好評を得て、「明星」が勢い付くきっかけにもなります。与謝野鉄幹は「明星」の主宰者として新進気鋭の歌人・詩人達を指導しながら、自身も詩歌集・歌論集を出版。その作風は「益荒男ぶり」(ますらおぶり:日本男児らしい様)と評されました。
好調に見えた「明星」でしたが、北原白秋、吉井勇といった新進詩人達が少しずつ脱退し、櫛の歯が欠けたようになると、1908年(明治41年)に100号をもって廃刊となります。
そののち、極度の不振に陥った与謝野鉄幹を見かねて、与謝野晶子は欧州への留学を手配。与謝野鉄幹はパリに滞在することになり、のちに与謝野晶子も旅費を工面し、子ども達を与謝野鉄幹の妹に預けるなどして合流しました。
与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻は、フランスでは「ルーブル美術館」などパリの名所を巡り、ロワール地方へもおもむきます。彫刻家の「オーギュスト・ロダン」ら芸術家とも交流し、ロンドン、ウィーン、ベルリンなどを歴訪。しかし、創作意欲を刺激され活動が盛んになったのは与謝野晶子だけで、与謝野鉄幹の不振は払拭できなかったのです。
渡欧から4ヵ月で与謝野晶子は先に帰国し、1913年(大正2年)には与謝野鉄幹も帰国。再起をかけて訳詞集「リラの花」を出版するものの失敗に終わり、人気歌人としての栄光に包まれる妻・与謝野晶子の陰で苦悩していたと言われています。
1915年(大正4年)、与謝野鉄幹は第12回衆議院議員選挙に京都の選挙区から無所属で出馬するも落選。与謝野鉄幹の不振は続き、家庭の生計は与謝野晶子が支えていたのです。
その後の1919年(大正8年)、与謝野鉄幹は「慶應義塾大学文学部」教授となり、13年間在籍すると、「水上滝太郎」(みなかみたきたろう)、「堀口大学」(ほりぐちだいがく)、「三木露風」(みきろふう)、「佐藤春夫」(さとうはるお)ら多くの文人を育てました。
1921年(大正10年)には、妻の与謝野晶子、建築家の「西村伊作」(にしむらいさく)、画家の「石井柏亭」(いしいはくてい)らとともに文化学院を創設。さらに第2次「明星」を創刊します。1927年(昭和2年)に第2次「明星」は廃刊となりますが、1930年(昭和5年)には雑誌「冬柏」(とうはく)を立ち上げ、また与謝野晶子らと一緒に「日本古典全集」の編纂(へんさん)にも力を尽くしました。
与謝野鉄幹は1935年(昭和10年)に気管支カタルがもとで死去。享年62でした。最愛の夫を亡くした与謝野晶子は打ちひしがれ、しばらく筆も止まってしまいます。与謝野晶子は与謝野鉄幹に、「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」との哀惜の歌を贈りました。歌の意味は、「子ども達は鉄幹が愛用した筆や硯[すずり]、煙草[たばこ]などを棺に納めていくけれど、あの人が一番愛したのはこの私」ということです。
落合直文の門下となった与謝野鉄幹は、入社した「二六新報」にて歌論「亡国の音」(ぼうこくのおん)を連載。亡国の音とは、国の滅亡を暗示するような音楽のことで、与謝野鉄幹はこの著作にて保守的な短歌を批判しました。
明治書院の編集長に就任した年には、詩歌集「東西南北」を発表。翌年には歌集「天地玄黄」(てんちげんこう)を世に送り出しています。
「明星」を創刊したのちの1901年(明治34年)、詩集「鉄幹子」(てっかんし)、「紫」(むらさき)を刊行。「明星」の廃刊後は不振に陥った与謝野鉄幹でしたが、1910年(明治43年)には歌集「相聞」(あいぎこえ)、詩歌集「檞之葉」(かしのは)を刊行しました。「檞之葉」の中には「小曲」と題した五行詩(ごぎょうし:題名を付けて五行で自由に書く詩)集も含まれています。欧州歴訪後の1914年(大正3年)には、与謝野晶子との共著「巴里より」(ぱりより)、訳詞集「リラの花」を発表しました。
1907年(明治40年)7月28日~8月27日の1ヵ月、与謝野鉄幹は「明星」の新進詩人である北原白秋、吉井勇、「木下杢太郎」(きのしたもくたろう)、「平野万里」(ひらのばんり)を連れ、5人で九州西北部を旅しています。5人の旅の主な目的は、地元の人々から「パアテルさん」と呼ばれ親しまれているフランス人の「ガルニエ神父」を訪ねることでした。
ガルニエ神父は暑い中でも訪ねてくれた5人を歓迎。従僕に対して「よか水をくんできなしゃれ」と天草言葉で冷たい水をくんでくるよう命じると、「上におあがりまっせ」と5人を招き入れたのです。この訪問で、畑の中から出土した隠れキリシタンのクルス(十字架)を見せてもらうと、木下杢太郎はさっそくスケッチ。このスケッチをもとにした挿絵が北原白秋の「邪宗門」(じゃしゅうもん)で使用されました。この九州の旅を綴った旅行記は、「五人づれ」という連名で「東京二六新聞」に連載。「五足の靴」として知られています。
与謝野鉄幹が若い詩人達を旅に連れ出した思惑は当たり、明治時代末期から大正時代にかけての文芸界に「南蛮趣味」の流行をもたらすとともに、同行した詩人達の作品に大きな刺激を与えることとなりました。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 与謝野鉄幹「近代日本人の肖像」
(URL:https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6247/)- 与謝野晶子「近代日本人の肖像」
(URL:https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/347/)