弥生時代の重要用語

登呂遺跡 
/ホームメイト

今から約2,000年前の弥生時代後期に、静岡県の安倍川河口近くに誕生した集落の痕跡を今日に伝えるのが「登呂遺跡」(とろいせき:静岡県静岡市駿河区)。広い水田はあぜ道や水路によって区画整理され、土木技術と稲作技術の高さが分かります。「弥生時代と言えば稲作」というイメージを定着させたのがこの登呂遺跡でした。集落自体は古墳時代(1~5世紀)まで続きましたが、その間に大きな洪水が2回発生し、壊滅的な被害を受けています。現在、遺跡周辺は歴史公園として整備され、1回目の洪水が起こる前の最も栄えた頃の様子が再現されています。

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今から約2,000年前の弥生時代後期に、静岡県の安倍川河口近くに誕生した集落の痕跡を今日に伝えるのが「登呂遺跡」(とろいせき:静岡県静岡市駿河区)。広い水田はあぜ道や水路によって区画整理され、土木技術と稲作技術の高さが分かります。「弥生時代と言えば稲作」というイメージを定着させたのがこの登呂遺跡でした。集落自体は古墳時代(1~5世紀)まで続きましたが、その間に大きな洪水が2回発生し、壊滅的な被害を受けています。現在、遺跡周辺は歴史公園として整備され、1回目の洪水が起こる前の最も栄えた頃の様子が再現されています。

登呂遺跡の発掘調査

歴史考古学研究の礎

登呂遺跡

登呂遺跡

登呂遺跡は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に発見され、本格的な発掘調査が始まったのは1947年(昭和22年)のことでした。敗戦から間もない時期で、戦前の「神話に基づく歴史」に代わる「科学的な歴史学」が求められた時期でもあり、考古学をはじめ、人類学・地質学・土木学・動植物学など様々な分野の専門家が集結。

発掘作業を担う市民ボランティアも参加し、日本で初めての総合的な大規模学術調査が始まりました。この手法は、のちの歴史考古学研究の基本となり、遺伝学や放射線学、医学まで含めた現在の総合的な学問へと発展する礎が築かれたのです。

このとき発掘された水田跡は当時の東アジアで最も古い時代のもの。他に農具などの木製品や土器、用水路やあぜ道の跡、住居や高床倉庫の跡なども次々と出土されたのです。遺跡としての歴史的価値が認められ、1952年(昭和27年)、弥生時代の遺跡としては初めて「特別史跡」に指定されました。

登呂の稲作文化

水田

登呂遺跡の水田は集落の東南にある低く軟弱な土地に位置し、1,000~2,000㎡の広さに区画整備された水田が約40枚確認されています。全体の広さとしては約80,000㎡に及び、用水路やあぜ道は、「矢板」(やいた)と呼ばれる先のとがったスギの板で補強。

この矢板は長さ2m・幅30~40cm・厚さ5cmほどの大きさで、水田の広さを物語るように数万枚というおびただしい数が発掘されています。

また水田の中央には水路が走り、水田に引き込む水量を調整するための堰(せき)なども設置されていました。このことから、すでにイネの成長に合わせて水位を調節する農法が行われていたことが分かります。

農具と農作業

出土品のなかには数多くの農具もあり、当時の農作業の一端が想像できます。イネを育てる際、水田に直接種子をまく「直播栽培」(ちょくはんさいばい)と、苗代で苗を育てて田植えをする「移植栽培」(いしょくさいばい)の2つの方法があります。

登呂遺跡からは、苗代に肥料となる青草を敷き込むために使う「おおあし」と呼ばれる大きな「田下駄」(たげた)が見つかっており、これは「移植栽培」が行われていた証拠です。

また、秋になって稲穂が実ると、穂先だけ石包丁で刈り取っていました。最初に収穫した稲穂は神様に捧げ、次の年の種籾(たねもみ)にしたと考えられます。これが毎年繰り返されることにより、自然にイネの品種改良につながったという説もあるのです。

この頃の収穫量は10,000㎡当たり80~100kgほどで、現代の6分の1に相当。その他の農具としては、鍬(すき)や鋤(くわ)が出土しています。これらは丈夫なカシノキで作られた木製で、興味深いことに、その形状は現在の物とほとんど差異がありません。

登呂の人々の暮らし

建築物

安倍川の扇状地にある登呂遺跡周辺は、水はけが悪く、地面を掘ると水が染み出してくるため「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ:地面を掘り下げ、そのなかに複数の柱を立てて骨組みとする住居)には適していません。

そこで穴を掘る代わりに盛土で円形の壁を作り、周囲を排水溝で囲み水の侵入を防ぐ「平地住居」(へいちじゅうきょ)が建てられました。こうした住居跡は、数度にわたる発掘調査を通じて19棟以上発見。

登呂遺跡の高床式倉庫

登呂遺跡の高床式倉庫

また、食料などを保管する「高床倉庫」(たかゆかそうこ)も9棟確認されました。高床式の建築は、弥生時代中期に東南アジアから伝わったもの。湿気を防ぐ効果が高く、全国に広がりました。

登呂遺跡の高床倉庫は高さ4.3mほどの8本柱で、地上から約1.3mの位置に床面があります。床と柱の間には「ネズミ返し」と呼ばれる板を設置し、ネズミなどの小動物が侵入するのを防いでいました。

また、1999年(平成11年)からの再発掘調査で、7.2m×4mと高床倉庫の倍ほどもある大きな建物の跡を発見。登呂遺跡では最大の建物で、周辺から祭祀に使われる「卜骨」(ぼっこつ)が出土していることから、祭殿として豊作祈願や、その年の吉凶を占ったりする場として使われたと考えられています。

食生活と洪水

稲作技術の発達で主食となったコメを、当時の人々は甕(かめ)で煮て食べていたと考えられています。発掘された甕のなかに、コメが焦げ付いて残っていたのがその証拠。同時に、森で狩りや木の実を採集したり、海や川で魚や貝を捕ったりもしました。

そのための道具も遺跡から発見されています。また、子どものイノシシの肉も食べていましたが、大人のイノシシの骨がほとんど見つかっていないことから、イノシシを食用として飼育繁殖させていた可能性もあります。こうした登呂の人々の暮らしは古墳時代まで続きましたが、2度目の大きな洪水のあと、集落は姿を消してしまいました。

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