「須恵器」(すえき)とは、古墳時代中頃から平安時代にかけて作られた「陶質土器」(とうしつどき)のこと。陶質土器とは、土器と陶器の中間的な特徴を持つ土器です。須恵器の語源についてははっきりとしていませんが、須恵器のルーツである朝鮮半島では、朝鮮語で鉄を「スエ」と発音し、硬質の須恵器は表面を叩くと鉄のような甲高い音が響いたためにこの名が付けられたと言われています。
須恵器
古墳時代に作られた土器には、大きく分けて2つの種類があります。ひとつが弥生土器の流れをくむ「土師器」(はじき)、そしてもうひとつが須恵器です。
まず土師器は、成形後に地面に掘った浅い穴を使って野焼き(のやき:野外で焼かれること)を行った土器を指します。
野焼きのために焼成温度は800℃前後と低く、粘土が酸化して錆びた鉄のような茶褐色の色合いになりました。
仕上がりはやや軟質で、土器らしい素朴な趣があります。一方、須恵器は、5世紀初頭に朝鮮半島から伝来した最先端の技術を用いて作られました。
ろくろを使って成形し、野焼きではなく山の斜面に掘られたトンネル状の「穴窯」(あながま)を登り窯にして、1,000℃以上の高温で焼成。
最後に薪を燃やす焚き口と煙突口を密閉する「還元焼成」(かんげんしょうせい)によって窯内を酸欠状態とするため、土器は茶色く酸化せず青みがかった灰色になります。しかも厚みは薄く均一になり、表面は滑らかで硬質な手触りとなるのが特徴です。
土師器は、主に煮炊きや食器などの実用品として使用されました。一方の須恵器は高度な技術に加え高温で焼くため膨大な燃料が必要となり、大量生産には適していません。そのため主に高級品や保存容器として用いられることになります。
例えば、祭祀の道具や古墳の石室(いしむろ・せきしつ:石で囲んで造られた墓室)の副産物として使われました。事実、古墳時代の集落跡や古墳からは多くの須恵器が出土しています。
また、福岡県宗像(むなかた)市には「須恵」という地名が存在し、ここで須恵器を焼いた登り窯の跡が発掘され、6世紀頃から須恵器が焼かれていた形跡も見つかりました。
供膳具(ぐぜんぐ)とは、霊前に供える食器を意味します。現在のお茶碗のような使い方をしていたのが「坏」(つき)。お皿とお椀の中間くらいのサイズで、おかずや汁物などを入れるために使われました。
「埦」(わん)は坏と同じような使われ方ですが、坏よりも一回り大きく深さがあります。さらに中身が冷めないよう、坏や埦とセットで使われる須恵器の「蓋」(ふた)もありました。他にも長い脚が付いた「高盤」(こうばん)や、脚が付かない「盤」(ばん)などがあります。
貯蔵具としての須恵器は、水や酒、穀物などを貯蔵するための容器として用いられました。水や酒を入れる首の長い「長頸壺」(ちょうけいこ)、奈良時代の墓でよく使われた「短頸壺」(たんけいこ)など「壺」(つぼ)の働きを持ちます。
他にも酒を入れる卵型の「横瓶」(よこべ)という特殊な容器もありました。また屋内に据え付けて水などを大量に貯めておく「甕」(かめ)も出土しています。
調理器具としての須恵器は、今日のすり鉢やボウルのような、口が大きく開き底の浅い「鉢」(はち)として使われていたと考えられています。
また容器の底に穴を開け、甕の上に重ねてご飯を蒸すために用いた「甑」(こしき)もあり、須恵器の用途が実に多様であったことを物語っています。