「岡倉天心」(おかくらてんしん)は日本の思想家です。明治時代初期に横浜で生まれ、幼少期から英語を得意とし、エリート街道を進みました。官僚となってから日本美術の素晴らしさに目覚め、その語学力を活かして日本美術・日本文化の発信者として生きる道を選択。「東京美術学校」(とうきょうびじゅつがっこう:現在の東京藝術大学の前身)の設立に貢献し、のちに「日本美術院」(にほんびじゅついん:美術家の団体、現在も公募展・院展[いんてん]を主宰)を創設しました。また、近代日本における美術史学研究の開拓者でもあり、日本美術を世界に紹介する傍ら、若手作家の育成、美術の啓蒙活動などを行い、明治時代以降の日本美術成立に大いに寄与したのです。
岡倉天心
越前藩(えちぜんはん:現在の福井県福井市)藩士であった父の「岡倉勘右衛門」(おかくらかんえもん)は藩命で横浜へ赴き、貿易商を営んでいました。そして1863年(文久3年)、横浜の藩屋敷で誕生したのが岡倉天心です。9歳のときに母が他界して「長延寺」(ちょうえんじ:神奈川県横浜市)に預けられ、ここで宣教師「ジェームス・バラ」から英語を学んでいます。
1875年(明治8年)に「東京開成所」(とうきょうかいせいじょ:のちの東京開成学校、現在の東京大学の前身)に進むと、東洋美術史研究家「アーネスト・フェノロサ」の助手となり、アーネスト・フェノロサの美術品収集の手伝いをすることになりました。
アーネスト・フェノロサは日本美術に強い関心を抱き、日本美術史を研究するために来日。しかし日本語を話せなかったため、岡倉天心が通訳として雇われたのです。岡倉天心にとって、アーネスト・フェノロサとの出会いは運命的なものでした。
1880年(明治13年)、「東京帝国大学」(とうきょうていこくだいがく:東京開成所より改名)を卒業した岡倉天心は、文部省に就職。
1884年(明治17年)には全国の古社(こしゃ:古来よりある神社)に関する調査を命じられ、アーネスト・フェノロサとともに京阪地方(けいはんちほう:京都・大阪を中心とした地域)を訪ね歩きます。当時、文明開化という風潮の中、「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく:仏教を廃すること)の運動が盛んになり、古い日本の仏像、美術品の多くが破壊されたり海外に流出したりしていたのです。
岡倉天心は古社の調査を行う中で、日本には数多くの優れた美術品が存在することを再発見。特に「法隆寺」(ほうりゅうじ:奈良県斑鳩町)の「夢殿」(ゆめどの)に納められた秘仏「救世観音」(ぐぜかんのん)を見せてもらった感動を「生涯で最も素晴らしい出来事であった」と語っています。そして、この世界に誇る日本美術を自分の手で守ろうと決意。
1886年(明治19年)には、奈良の古社調査をまとめた報告書「美術保存ニ付意見」(びじゅつほぞんにつきいけん)を発表。これは、日本で初めて文化財の保護を訴えた提案書であり、1929年(昭和4年)の「国宝保存法」、1950年(昭和25年)の「文化財保護法」の基礎となっています。
1886年(明治19年)、岡倉天心はアーネスト・フェノロサとともに欧米各国の美術教育の視察に出掛けました。このとき、ヨーロッパで大流行していた美術様式「アール・ヌーヴォー」が、日本古来の美術に触発されたものであることを知ると、ますます日本画を世界に発信しなくてはいけないという使命を感じたとされます。帰国後は、東京美術学校の開設準備に奔走。
そして1890年(明治23年)、27歳の若さで岡倉天心が事実上の東京美術学校校長に、アーネスト・フェノロサが副校長に就任しました。岡倉天心は、古い日本画の常識にとらわれず、西洋画の技術を積極的に取り入れ、近代日本にふさわしい美術様式の模索を続けます。
しかし当時、日本美術界の主流は、平安時代から続く「大和絵」(やまとえ:中国の唐絵[からえ]が日本風に発達した絵画様式)でした。この風潮に逆らい、西洋画の技法を取り入れて、急進的に日本画の改革を進めようとする岡倉天心に対して、伝統絵画に固執する人々は激しく反発。
1898年(明治31年)には、岡倉天心自身の不倫騒動などもあり、岡倉天心は東京美術学校の校長を辞退せざるを得ませんでした。その後、岡倉天心は一緒に東京美術学校を去った日本画家「橋本雅邦」(はしもとがほう)ら26名の同志とともに「日本美術院」(にほんびじゅついん)を創設。美術作品の研究・創作、展覧会の開催などを通して新しい日本美術を模索しました。
このとき「横山大観」(よこやまたいかん)・「下村観山」(しもむらかんざん)・「菱田春草」(ひしだしゅんそう)ら青年画家立は、従来の大和絵に西洋画の技法を取り入れた新しい日本画を次々と発表。なかでも横山大観の作品「屈原」(くつげん)、下山観山の「闍維」(じゃい)などが、岡倉天心が目指していた新しい日本画の方向性を強く表現していました。
しかし、従来の日本美術界は、横山大観ら若手画家の作品を「朦朧体」(もうろうたい)、「化物絵」(ばけものえ)などと酷評し、受け入れようとしませんでした。失望した岡倉天心は、海外に目を向けるようになります。
1901年(明治34年)にインド各地を視察し、日本をはじめとする東洋文化の源流が、インドにあることを確信した岡倉天心は、旅の途中で著作「The Ideals of the East」(東洋の理想)を発表しました。翌1902年(明治35年)には、アメリカ人で日本美術研究家の「ウィリアム・ビゲロー」と知り合い、その紹介で「ボストン美術館」から招かれて1904年(明治37年)に渡米。
このとき、羽織・袴姿の一行を見たアメリカ人から「お前は何ニーズだ。チャイニーズか、ジャパニーズか」とからかわれた岡倉天心は、「我々は日本の紳士だ。お前こそ何キーだ。ヤンキー(アメリカ北部州の白人を指す)か、ドンキー(ロバ)か、それともモンキーか」と笑って言い返したと言われます。
渡米した岡倉天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理などを担当。同行した横山大観、菱田春草らもニューヨークなどアメリカの各地で展覧会を開き、好評を博しました。岡倉天心も講演・執筆を通して日本文化を欧米に紹介し続けます。
当時、「日露戦争」に勝利したアジアの小国・日本への関心が世界的に高まっていたこともあり、岡倉天心が日本の茶の湯文化について書いた著書「The Book of Tea」は、ドイツ・フランス・スペイン・スウェーデンなどで翻訳され、大いに話題となりました。
五浦海岸の岡倉天心邸
その後、岡倉天心は五浦海岸(いづらかいがん:現在の茨木県茨木市大津町)の景勝地に土地を購入し、日本の五浦海岸とアメリカのボストンを往復するという生活を送るようになります。
しかし岡倉天心だけでなく、横山大観ら新進気鋭の画家までが、永く日本美術院を留守にしたため、日本美術院は極度の経営難に陥ってしまいました。そこで1906年(明治39年)、岡倉天心は日本美術院の改革に着手。
まず日本美術院の絵画部を、自邸のある五浦海岸へ移転しました。この場所を、フランスの「バルビゾン村」(風景画家などが集まって一大派閥を形成した小さな村)にちなんで「東洋のバルビゾン」と称し、新しい日本絵画の創作拠点にしようとしたのです。
五浦海岸へ集った若手画家達も、酷評された自らの作風に改良を加えながら、創作活動を続けました。そして、日本の近代絵画史に残る数多くの名作が五浦海岸から生まれたのです。
その後も、岡倉天心はボストン美術館に勤務して日本・中国・インドの美術品収集を行う他、日本をはじめ東洋の美術を欧米に紹介する著作・講演などを精力的に続けました。1910年(明治43年)には、ボストン美術館の中国・日本美術部の部長に就任。
1912年(大正元年)、日本からアメリカに向かう途中、寄港地であるインド・カルカッタで9歳年下の女性と恋に落ちます。この女性は「プリヤンバダ・デーヴィー」と言い、アジア人として初めてノーベル文学賞を獲得したインドの詩人「ラビンドラナート・タゴール」の遠縁にあたる女流詩人。それから約1年間、2人は手紙を通して愛を育みました。
常に日本美術発展のために戦い続けてきた岡倉天心は、文通相手であるプリヤンバダ・デーヴィーにだけは精神的な弱さを含めて赤裸々に自分をさらけ出すことができたのです。しかしこの文通も、岡倉天心が体調を崩したことで終わりを迎えます。そして翌1913年(大正2年)、日本美術のために戦い続けた岡倉天心は、50年の生涯を閉じました。