「芸妓」(げいぎ/げいこ)とは、舞踊や三味線などの伝統芸能に秀でた女性芸能者で、宴席で芸を披露する職業のことです。江戸時代中期から現代に至るまで花街文化の中心的存在で、地域によって「芸者」(げいしゃ)、「芸子」(げいこ)とも呼ばれています。日本文化の魅力として、国内だけでなく外国の人々にも有名です。
芸妓
芸妓とは、芸事で生計を立てる女性を指します。宴の場で舞踊や三味線、お囃子といった伝統芸を見せながら、酒を注ぎ、話を弾ませて雰囲気を華やかにするのが仕事です。
芸妓には、踊りを披露する「立方」(たちかた)と、三味線などの楽器演奏で歌や語りを行う「地方」(じかた)の2種類があります。
特に京都では、現代でも芸妓文化が残っており、上七軒(かみしちけん:京都市上京区)、祇園甲部(京都市東山区)、祇園東(京都市東山区)、先斗町(ぽんとちょう:京都市中京区)、宮川町(京都市東山区)の5つの花街(かがい)で伝統が守られてきました。東京では、新橋や神楽坂などの花街で芸妓が活躍。それぞれの花街には独自の流派や作法があり、地域ごとに特色があるのです。
舞妓の後ろ姿
一人前の芸妓の場合、島田髷(しまだまげ)に詰袖(つめそで)の着物をまとい、白粉(おしろい)による化粧を施すのが一般的です。
化粧においては、白粉を顔全体に薄く塗り、唇は小さく紅を差すのが基本。首筋に少し白粉を残してうなじを見せます。かつて、関西地方の芸妓は正式にはお歯黒を付けることもありましたが、現代では付けないのが一般的です。
髪型は島田髷や丸髷など、複雑で手の込んだ結い方をしているのが特徴。簡単には崩れないよう、油や飾り櫛、かんざしなどを用いて整えられます。
足元には、草履や「おこぼ」と呼ばれる高下駄を着用。江戸の深川で活躍した「辰巳芸者」(たつみげいしゃ)は、足袋を履かない素足に桐下駄という独特のいでたちで、羽織を身にまとう姿から「羽織芸者」や「羽織」と呼ばれていました。また、芸妓達が着物の褄(つま:すそのこと)を左手で持ち上げる仕草は、右手で褄を取る花魁や花嫁との違いを示し、この特徴から「左褄」(ひだりづま)という異名も生まれたのです。
芸妓は長期の修業によって、伝統芸能の技術を習得していきます。修業の仕方は土地によって異なり、京都では若い女性が最初に舞妓(まいこ)として何年か学んだのちに芸妓となるのです。一方、関東地方では半玉(はんぎょく)や雛妓(すうぎ)という見習い時代を経てから一人前の芸妓になるのが通例。花街ごとに流派が存在するため、流派ごとに異なる修業を行います。
修業中は舞踊や三味線、お囃子などの芸事のほか、茶道をはじめとした様々な作法を習得。芸妓となったあとも、一流の芸を維持するために日々の稽古が欠かせません。
なお、かつては芸妓には「旦那」(だんな)と呼ばれるパトロンが存在しましたが、現代ではその慣習はほぼなくなり、それぞれの芸妓は自立して活動しています。
芸妓という仕事は江戸時代に生まれました。遊郭の外で生活していた女性が、芸事を商売にし始めたことと、遊郭の遊女のうちで売春をせず芸事のみを専門的に提供する女性が現れたことが、芸妓の始まりとされます。
また、江戸時代には、芸者、芸妓と言えば男性の幇間(ほうかん:太鼓持ちとも言う)を指し、女性は芸子と呼ばれて区別されていた時期も存在するのです。
江戸時代後期になると、吉原など遊郭の近くにある茶屋で芸妓の活躍が目立つようになり、徐々に花柳界という独特の文化的空間が築かれていきました。この時期、芸妓は遊郭で本役の遊女が登場するまでの時間を埋める役割を担うことが一般的です。
その後、明治時代になると、芸妓は芸事の専門家としての地位を確立。もともとの前座的な立ち位置から、独立した芸能者として社会的地位を確立していったのです。とりわけ明治時代から大正時代にかけて、芸妓は多くの人々の憧れとなり、雑誌では人気ランキングが組まれ、芸妓を描いた絵はがきも大いに売れました。
また、明治時代・大正時代には、多くの財界人が芸妓を妻にしています。「伊藤博文」、「原敬」(はらたかし)、「板垣退助」、「山縣有朋」(やまがたありとも)などが、それぞれ芸妓を妻に迎えました。
かつて名だたる芸妓を輩出した地として有名なのは、現在の名古屋を中心とする愛知県・岐阜県・三重県一帯と、新潟県を含む北越地方。東京で「美妓」や「名妓」として名を馳せた芸妓達の多くは、これらの地域出身であり、洗練された技術や立ち振る舞いが高く評価されていました。
京都祇園
昭和時代初期までは日本橋、博多、名古屋、小樽など、全国各地に芸妓がいる花街がありました。しかし、「第二次世界大戦」ののちに法整備が進むと、子供の頃から芸妓を養成することが困難になったうえ、昭和40年代(1965~1974年)以降は、娯楽と接客業が多様化したことで花柳界が衰退し、芸妓の数は減少の一途をたどります。最盛期には全国に数万人いたとされる芸妓は、現代では数百人となりました。
現在は、京都の五花街をはじめ、東京の新橋、赤坂、神楽坂などで芸妓文化が継承され、新潟県の古町や金沢市の主計町など地方の花街でも、地域色の豊かな花柳界が存続。外国人観光客向けの取り組みも増え、伝統文化として世界的に認知度が高まっています。