鎌倉9代将軍

2代将軍/源頼家
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2代将軍/源頼家 2代将軍/源頼家
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鎌倉幕府における9人の将軍の中で、「源頼家」(みなもとのよりいえ)はある意味で最も悲運な将軍です。父「源頼朝」(みなもとのよりとも)が急死したとき、源頼家はまだ18歳の若者。18歳は立派な大人とは言え、苦節の時代を乗り越えた父と違い、苦労知らずで育ってきた源頼家にいきなり東国武士団のトップの重責を任せるのは無理がありました。しかも源頼朝亡き今は、有力御家人(ごけにん:幕府から土地の所有を保証され、その代わりに幕府への忠誠を誓った武士)にとっては勢力を拡大するまたとないチャンス。こうして源頼家は、自分の意志とは関係なく御家人達の権力闘争の渦に巻き込まれていったのです。

偉大な父と、老獪な御家人衆の間で

就任3ヵ月で権力を奪われる

源頼家

源頼家

1199年(正治元年)に偉大な父である源頼朝が急死すると、征夷大将軍の権威と権力はすべて源頼家が継承することになりました。

しかしそれからわずか3ヵ月後、源頼家はその権力を奪われ、すべての重要事項は「大江広元」(おおえひろもと)や「北条時政」(ほうじょうときまさ)、「北条義時」(ほうじょうよしとき:北条時政の子)ら13人の御家人による合議制で決するという体制になってしまいました。

2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、これがテーマとなっています。名目上は若い源頼家を補佐するためでしたが、実際には源頼家から政権を取り上げることが目的。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

独裁者はもう要らない

御家人達は、源頼朝がいなくても幕府という組織が機能することに気付いていたのです。鎌倉幕府は、江戸幕府のように絶対的な権力者である将軍がいたわけではなく、将軍は朝廷に対する武士団の代表という位置付けに過ぎませんでした。その地位を担保していたのが「御恩と奉公」という契約です。

御恩とは将軍が御家人に土地を与え、所有を保証することであり、御家人はその代価として、いざというときに自分の武力を提供して奉公する。このギブアンドテイクの関係によって成り立っていたのが鎌倉幕府だったのです。

平安時代末期に平氏と激しい戦いを繰り広げた頃は、源頼朝のようなシンボル的な人物が武士団を強引に率いていくことが不可欠でした。しかし朝廷から政治の実権を奪取した今となっては、将軍は実権を持たずとも、将軍を補佐する御家人に政治を任せていればよかったのです。

北条氏と比企氏の対立

比企能員

比企能員

しかも、そこに御家人同士の勢力争いがからんでいました。以前、源頼朝は源頼家の乳母父(めのとぶ:教育係)として数名の武士を選任しています。そのひとりが源平合戦の頃から源頼朝を支えた家臣、「比企能員」(ひきよしかず)です。

当時は御家人同士の勢力の差はほとんどありませんでしたが、比企能員の娘「若狭局」(わかさのつぼね)が源頼家に嫁ぎ、「一幡」(いちまん)という男児が生まれたことで、比企能員が圧倒的に有利になりました。そのまま一幡が次の将軍になれば、比企能員は将軍の外祖父(がいそふ:天皇または将軍における母方の父のこと)として政治に対する発言力が強まるからです。

一方、源頼家には「千幡」(せんまん:のちの3代将軍源実朝[みなもとのさねとも])という歳の離れた弟がおり、こちらは北条時政が後見人となっていました。これにより、幕府内は源頼家・比企能員グループと、千幡・北条時政グループに分かれて対立状態にあったのです。13人の合議制になったのは、どちらか一方に権力を集中させないという目的もありました。

若き将軍の憂鬱な日々

比企能員の変

将軍でありながら権力を取り上げられた源頼家は政治への情熱を失い、毎日自宅で蹴鞠(けまり)に興じました。しかし1203年(建仁3年)のある日、源頼家は急な病に倒れ、一時的に危篤状態になります。こうなるとさっそく浮上したのが、次の将軍を誰にするかという問題。

これによって比企能員(一幡の外祖父)と、北条時政(千幡の外祖父)の対立が一気に表面化します。北条時政は千幡が全国を支配することを発表し、朝廷に対して千幡を将軍にする働きかけを開始。これに怒った比企能員は、重体を脱した源頼家に報告。

2人で北条時政の暗殺を企てます。しかし、これが北条氏に漏れ、比企氏は一族全員、女・子供にいたるまで全員が殺されてしまいました。このとき、若狭局と一幡も捕らえられて殺されています。これを「比企能員の変」と呼びます。

すべてを失った将軍

病床で妻子まで殺されたという知らせを聞いた源頼家は激怒し、周囲の御家人に北条時政の討伐を命じますが、命に応じて立ち上がる者はいませんでした。それどころか北条時政によって将軍職を解かれた源頼家は、無理やり出家(しゅっけ:仏僧となること)させられ、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉させられてしまいます。

後日、源頼家は「北条政子」(ほうじょうまさこ:源頼家の母)に「1人でいるのは寂しいので、私に仕えていた近習[きんじゅ:そばに仕える部下]をよこしてほしい」とお願いしますが、北条政子は拒否。しかもその近習達まで流罪にしてしまいました。その翌年、北条氏が送り込んだ刺客によって源頼家は暗殺され、23年という短い命を終えました。

吾妻鏡が語る源頼家の奇行

部下の美人妻を拉致する

吾妻鏡」(鎌倉時代後期に成立した鎌倉時代の歴史書)には、源頼家の奇行について記されています。これによると、権力を奪われた反発から、源頼家は自分に年齢の近い「小笠原長経」(おがさわらながつね)、「比企宗員」(ひきむねかず:比企能員の子)ら5名の近習を指名し、この者どもを通さない連絡は受けないと発表。

またその5人に対して、有力御家人の「安達景盛」(あだちかげもり)の留守に、美人として名高かったその妻を連れて来させ、我がものにしてしまいました。当然、安達景盛は激怒しますが、源頼家は逆にそれを謀反とみなして安達景盛の討伐を命じます。

このときは北条政子が「ならば私を先に殺しなさい」と割って入ったために事件は収まりました。他にも幕府を支えてきた有力御家人から領地を取り上げ、領地を持っていない自分の近習に分け与えようとしたこともありました。

こうした源頼家の奇妙な行動が御家人に不安を抱かせ、権力を制限されることにつながったのだと吾妻鏡には書かれています。

源頼家の奇行は北条氏の言い訳

吾妻鏡の作者は分かっていませんが、歴史書として完成に近づいた鎌倉時代後期は、北条家が最高権力者の地位をほしいままにしていた時期。そのため、北条氏に不都合なことは書かれていません。

そう考えると、源頼家の数々の奇行も「こんな人物だから権力を奪われても仕方ない」という、吾妻鏡を書かせた北条氏の言い訳とも考えられます。将軍になっても思うように手腕を振るえず、源頼家が悩んでいたことは想像に難くありません。

自分に年齢の近い近習を必要以上にかわいがったことや、部下の妻を強奪したことは、源頼家の私設軍団の力を御家人達にアピールするという目的があったとも解釈できます。

偉大な父の幻影と、老獪な有力御家人達の間にはさまれ、若き大将が命を落としたとしたら哀れでなりません。

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初代将軍/源頼朝

初代将軍/源頼朝
日本で初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、もともと「源」姓は天皇の子供達が皇族を離れるときに下賜(かし:天皇からいただくこと)された姓でした。「平」姓も同じで、どちらもルーツをたどれば皇族です。源頼朝も最初から武士だったわけではなく、少年時代は宮中に仕え、第78代「二条天皇」(にじょうてんのう)の「蔵人」(くろうど:秘書)をしていました。これは朝廷における出世コースで、このままいけば源頼朝は朝廷の役人になっていたと思われます。しかし、父である「源義朝」(みなもとのよしとも)が平氏と戦って負けたため罪人として捕らえられ、子供だった源頼朝は、殺される代わりに伊豆に流されることに。ここから、武人としての源頼朝の物語が始まります。

初代将軍/源頼朝

3代将軍/源実朝

3代将軍/源実朝
「源実朝」(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の子で、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)の弟。兄である源頼家は父に倣って政治にかかわろうとして北条氏に殺されました。兄の殺害現場にいた源実朝は、決して政治にかかわろうとはしませんでした。その代わり朝廷文化に憧れ、特に和歌には尋常ではないほど傾倒しています。自分の和歌を都の「藤原定家」(ふじわらのさだいえ:平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。日本の歌道を代表する歌人のひとり)に送って品評をお願いしたり、自分の和歌集を編纂したり、さらには謀反の罪で捕らえられた家来の和歌に感じ入り、罪を許したという話もあるほど。また源実朝は、貴族の官位を渇望していました。そして待望の「右大臣」(うだいじん)の官位授与を祝う儀式の最中、親族によって暗殺されてしまいます。

3代将軍/源実朝

4代将軍/藤原頼経

4代将軍/藤原頼経
「藤原頼経」(ふじわらよりつね)は、3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が暗殺されたあとに朝廷から「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府における最大の権威者)として迎えられました。しかし当時はまだ2歳で、政治を行う能力はゼロ。つまりお飾りに過ぎなかったのです。一方、御家人の内部では激しい権力争いが続いていました。やがて藤原頼経が元服(げんぷく:成人になる儀式)して正式に将軍職につくと、その権威を利用して政治の実権を握ろうとする御家人が次々と登場します。こうして藤原頼経はその権力闘争の渦に巻き込まれていきました。

4代将軍/藤原頼経

5代将軍/藤原頼嗣

5代将軍/藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)は、先代の「藤原頼経」(ふじわらよりつね)の子。先代が都で生まれたのに対し、藤原頼嗣は純粋に鎌倉生まれの鎌倉育ち。6歳で元服(げんぷく:成人になったことを示す儀式)し、5代将軍となります。年齢が幼く、また将軍在任期間も8年と短かったため、将軍としての藤原頼嗣の活動はほとんど記録が残っていません。その代わり、藤原頼嗣の将軍在任期間は、父である藤原頼経と北条氏が激しく権力争いを繰り広げた時期でもありました。その2つの勢力の間で、何も知らない藤原頼嗣はただ翻弄されるしかなかったのです。

5代将軍/藤原頼嗣

6代将軍/宗尊親王

6代将軍/宗尊親王
鎌倉幕府の6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)は88代「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の子。朝廷から皇族を将軍として迎えることは、鎌倉幕府誕生の立役者である「北条時政」(ほうじょうときまさ:源頼朝[みなもとのよりとも]の義父)の時代からの念願でした。源氏の将軍が3代続き、「摂家」(せっけ:藤原氏の中でも摂政を出してきた格式の高い家柄)将軍が2代続いたあと、いよいよ念願の「宮将軍」(みやしょうぐん:皇族から迎えた将軍)の登場となります。宗尊親王は将軍となっても政治に介入しようとはせず、和歌に親しみながら穏やかな日々を送りました。しかし他の将軍と同様に、最終的には北条氏の都合で将軍職を解かれ、都に送り返されるという運命をたどります。

6代将軍/宗尊親王

7代将軍/惟康親王

7代将軍/惟康親王
鎌倉幕府の「惟康親王」(これやすしんのう)は6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)の子。将軍就任時はわずか3歳ですから政治能力はありません。これは当時の幕府で政権を握っていた北条氏の戦略で、自らは将軍にならず、「執権」(しっけん:将軍をサポートする役割。実質上の幕府の最高権力者)として幕政を自由にコントロールしていたのです。将軍が成人して万が一にも北条氏と敵対する勢力と手を組んでしまわないよう、将軍が成人するたびに都へ戻し、新たに幼い将軍を「お飾り」として立てていました。惟康親王も、そんな北条氏の思惑に翻弄され続けたひとりだったのです。

7代将軍/惟康親王

8代将軍/久明親王

8代将軍/久明親王
「久明親王」(ひさあきしんのう)は、初代将軍「源頼朝」亡きあとに鎌倉幕府を支配した北条氏によって擁立された8代目の鎌倉将軍です。北条氏は、自らは将軍にならず、幼い将軍を擁立し、自分達は「執権」(しっけん:将軍を補佐する役職)として幕府を思い通りに動かし続けてきました。しかし時代が進むうちに、「得宗」(とくそう:北条氏の中でも執権を世襲した、最も有力な一族)とそれ以外の北条氏や御家人との間で権力をめぐって激しい対立が起こり始めます。また当時、朝廷の内部でも2つの勢力が天皇の座をめぐって対立していました。そんな混とんとした状況の中で、押し出されるように鎌倉幕府8代将軍になったのが久明親王だったのです。

8代将軍/久明親王

9代将軍/守邦親王

9代将軍/守邦親王
9代鎌倉将軍「守邦親王」(もりくにしんのう)は8代「久明親王」(ひさあきしんのう)の子。守邦親王が在位した期間は、鎌倉幕府が滅亡に向かって突き進んでいた時期でした。鎌倉の幕府内では北条氏の力が衰えるにしたがって「御家人」(ごけにん:幕府から領地の所有を保証される代わりに、幕府への忠誠を誓った武士団)が力を持ち始めます。また都の朝廷でも2つの派閥が激しく競い合っていました。地方には「悪党」(あくとう)と呼ばれる勢力が登場し、世の中は大混乱。こうした状況の中で将軍となった守邦親王は、歴史的な実績はほとんど残していません。1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の滅亡の日に将軍職を辞して出家(しゅっけ:仏僧となること)し、3ヵ月後に亡くなったことだけが記録に残されています。

9代将軍/守邦親王

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