「日本刀」に「太刀」(たち)や「打刀」(うちがたな)、「腰刀」(こしがたな)といった違いがあるように、日本刀の外装である「拵」(こしらえ)にも違いがあるのです。ここでは、それぞれの代表的な拵と特徴について、ご紹介します。
太刀拵
実用のために開発・改良された「打刀拵」(うちがたなこしらえ)に対し、儀仗用に作られており、長い歴史があるのが「太刀拵」(たちこしらえ)。古墳時代から、すでに神社のご神体として祭られていた物もありました。馬上から敵を切り付ける戦が盛んだった頃は、太刀も兵仗用の日本刀として重宝されましたが、そこから歩兵戦へ戦闘様式が移行すると、メインは打刀に取って代わられていき、刀装具も時代に合わせて変化。やがて江戸時代になると、太刀は完全に儀仗用の品になりました。
実用重視の打刀拵とは違い、身分標識の道具として特化していった太刀拵には、華美な装飾を施した高級品や、神社などで古くから大切に保管されていた歴史ある作品も多いです。では、「国宝」や「重要文化財」に指定されている太刀の太刀拵には、どのような物があるのでしょうか。
山金造波文蛭巻太刀拵
拵の制作年代 | 室町時代 | 拵全長 | 337cm |
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刀身の制作年代 | 室町時代 | 所蔵 | 日光二荒山神社 |
刀身 | 重要文化財「(号)袮々切丸/ねねきりまる」 |
「袮々切丸」(ねねきりまる)は、刃の長さだけでも2mを越え、拵は3mを越えるといい、日本に現存する「大太刀」の中でも無類の大きさを誇ります。所蔵されている「日光二荒山神社」(にっこうふたらさんじんじゃ)は、他にも170振り近い日本刀を所蔵する日本刀の神社。毎年行なわれる例大祭「弥生祭」(やよいさい)では、「瀬登太刀」(せのぼりのたち)や「柏太刀」(かしわだち)と並んで、袮々切丸は古来より神事に用いられてきました。
袮々切丸には、妖怪を切った伝説があります。そのあらすじは、「袮々」(ねね)という妖怪が日光山中に住み、民を驚かせて楽しんでいたところ、日光二荒山神社の拝殿に安置されていた大太刀がひとりでに鞘から抜け、袮々を追い払ったという物です。
この太刀の作者は、「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)であるとも「来国俊」(らいくにとし)とも言われますが、はっきりしたことは分かっていません。
拵に使われている金具はすべて「山金」。山金とは、山から出たそのままの粗銅のことで、色味や質感が均一でないことから、様々な表情を見せます。
黒漆太刀拵
拵の制作年代 | 鎌倉時代 | 拵全長 | 102.5cm |
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刀身の制作年代 | 平安時代 | 所蔵 | 東京国立博物館 |
刀身 | 重要文化財:「(号)獅子王/ししおう」 |
「源 頼政」(みなもとのよりまさ)が「鵺」(ぬえ)という物の怪を退治した褒美に、「近衛天皇」(このえてんのう)から賜った日本刀と伝えられているのが「獅子王」。鵺退治から約30年後、平家打倒の挙兵を企て、獅子王を手に自ら先陣に立ちますが、このとき頼政は70歳を過ぎていました。
この計画は準備不足のため露見。頼政は早期に鎮圧され、討死しました。獅子王は、鞘などの付属品と一緒に、源氏の血筋である土岐家に伝えられ、最終的には明治天皇へ献上されたということです。無銘ながらも、平安末期の大和物の特色がよく出ている名刀。
柄・鞘・鐔・金具などすべて黒漆で塗られ、このような黒漆太刀は武家の常用の太刀として絵巻などにも多く描かれています。柄巻は欠失していますが、紺の組緒で補強した「渡巻」(わたりまき)は残っており、「糸巻太刀拵」(いとまきたちこしらえ)の最も古い作品でもあります。
糸巻太刀拵は、鎌倉時代から室町時代に一般化し、江戸時代には、大名などの高級武士が正装する際の必需品になりました。
群鳥文兵庫鎖太刀拵
拵の制作年代 | 鎌倉時代 | 拵全長 | 105.4cm |
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刀身の制作年代 | 鎌倉時代 | 所蔵 | 東京国立博物館 |
刀身 | 国宝:「(号)上杉太刀/うえすぎたち」 |
刀身と拵がほぼ同時期に作られた珍しい例で、茎(なかご)には備前国の「福岡一文字」を表す「一」という銘が切られています。上杉家が江戸時代になって三嶋大社に奉納。
「兵庫鎖太刀」(ひょうごくさりたち)とは、帯と鞘をつなぐ緒が、編んだ鎖でできている拵のこと。兵庫鎖太刀は、平安・鎌倉時代には公家や武家の実用の太刀として好んで用いられていました。のちには、社寺に奉納するときのスタンダードなスタイルになったということです。
鞘は漆塗りの表面に金粉をまき込めた壮麗な作りで、さらにその上には美しい蒔絵(まきえ)。柄や鞘の金具には群鳥をあしらった意匠がなされ、銀地に金メッキが施された鐔にも群鳥文を透かし彫りしています。
打刀拵
打刀には、もともと打刀として作られた物だけでなく、太刀として作られたあと、磨り上げて短くなった物も多く存在。特に戦国時代においては、前時代に作られた名刀を名のある武将たちが、自分好みの長さに磨り上げたり、拵を作り変えたりすることが多くありました。
身分の高い人たちが、厳格な決まりにも縛られることなく刀装を飾ることができた安土桃山時代は、刀装史上の中でも黄金期であり、現存している打刀拵は大変貴重な文化遺産であると言えます。では、我が国で国宝や重要文化財に指定されている日本刀の打刀拵には、どのような物があるのでしょうか。
金霰鮫青漆打刀拵
拵の制作年代 | 江戸時代後期 | 拵全長 | 92.2cm |
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刀身の制作年代 | 南北朝時代 | 所蔵 | 福岡市博物館 |
刀身 | 国宝「(名物)へし切/へしきり」 |
もとは約90cmの大太刀でしたが、大磨り上げによって刃長はその後64.8cmほどに変化。無銘となっていたところに、「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)の極めで、南北朝時代の山城鍛冶「長谷部国重」(はせべくにしげ:長谷部派の祖)が打ったとする金象嵌(きんぞうがん)の銘が切られました。黒田筑前守の銘もあるので、「黒田官兵衛」の持ち物だったと分かります。黒田家の記録にあるように、「織田信長」が無礼を働いた茶坊主を手打ちにしようとしたところ、台所のお膳を入れておく棚の下に隠れたので、この「へし切」を差し込んだら、簡単に切れてしまったというエピソードはあまりにも有名。
また、「金霰鮫青漆打刀拵」(へし切)は、同じ黒田家所蔵の「安宅切」(あたきぎり)の写しであることでも知られています。鞘の3分の2を占める金色の部分は、「鮫皮」(さめがわ)ではなく、鮫を模した金薄板を加工して制作。「金打ち出し鮫」とも言われ、江戸時代の柳川派という一派が制作したと伝えられています。金・銀・茶・青・黒など、これほど多彩な色を用いた拵は少なく、大変貴重です。
黒漆打刀拵
拵の制作年代 | 安土桃山時代 | 拵全長 | 97.3cm |
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刀身の制作年代 | 鎌倉時代 | 所蔵 | 日光東照宮 |
刀身 | 国宝「(号)日光助真/にっこうすけざね」 |
「助真」は、鎌倉幕府に招かれて相州鍛冶の基礎を築いたひとりであり、備前一文字派の刀工です。
助真の名が付いた「日光助真」は、「加藤清正」(かとうきよまさ)が所持していましたが、清正の長女「八十姫」(やそひめ:瑤林院)を「徳川家康」の十男「頼宣」(よりのぶ)に嫁がせる際に、婿引出として頼宣に贈ったと伝えられています。清正が所持していた頃は、太刀の拵が付いていましたが、家康が打刀拵に作り直させました。
鐔は四葉文透の鉄鐔。一面黒漆塗りの鞘に、黒漆塗りの鮫皮で包み込んだ柄、赤銅目貫(しゃくどうめぬき:銅と金の合金で作られた目貫)を据えた仕上がりで、「助真拵」と呼ばれる、室町後期から桃山時代に流行した様式です。
革柄蝋色打刀拵
拵の制作年代 | 安土桃山時代 | 拵全長 | 94.3cm |
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刀身の制作年代 | 鎌倉時代 | 所蔵 | 久能山東照宮 |
刀身 | 重要文化財「(銘)妙純伝持 ソハヤノツルキ/ウツスナリ」 |
茎の佩表(はきおもて:腰に付けた太刀の外側表面)に「妙純傳持ソハヤノツルギ」、佩裏(はきうら:腰に付けた太刀の腰側表面)には「ウツスナリ」と刻まれており、これは初代征夷大将軍「坂上田村麻呂」が所持していた「楚葉矢の剣」(そはやのつるぎ)の写しであるという意味です。無銘ながら、一説には「三池典太光世」(みいけでんたみつよ)の作ではないかと言われています。柄は黒塗りの鮫着せ、鞘は黒蝋色塗り。また、鐔は赤銅無地の円鐔金具がすべて金無垢(きんむく:純金)で作られています。
所持していたのは家康でした。晩年の家康は、いつ反旗を翻すか分からない西国の動きを危惧して、この「ソハヤノツルギ」を手に、鋒/切先(きっさき)を西に向けて置くようにと遺言して世を去ったと伝えられています。
家康は、黒塗りのシンプルな拵を好みました。その嗜好は徳川幕府へ受け継がれ、江戸時代の武士が帯刀する拵の原型になっていったのです。江戸時代に武士が登城する際の大小拵は、この「蝋色塗」と定められていました。
腰刀拵
腰刀は、太刀の差し添えとして用いられた短寸の日本刀のこと。主に接近戦や自害のために用いられました。短寸の日本刀には様々な名称が付いており、現代の法律では、長さによって「脇差」(わきざし:30~60cm)・「短刀」(たんとう:30cm以下)・「懐刀」(ふところがたな:20cm以下)などと呼んでいます。
また、「小さ刀」と呼ばれる日本刀も腰刀の一種で、鐔がない「合口拵」(あいくちこしらえ)というタイプが鎌倉時代頃から登場し始めますが、江戸時代に大小帯刀する際には、鐔付きが義務付けられるようになりました。
名だたる戦国武将が所持し、その家に代々伝わった、国宝・重要文化財である短刀の腰刀拵をご紹介します。
菊造腰刀拵
拵の制作年代 | 室町初期 | 拵全長 | 30.8cm |
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刀身の制作年代 | 鎌倉時代末期 | 所蔵 | 毛利博物館 |
刀身 | 国宝「無銘 伝当麻」 |
鎌倉時代末期の典型的な大和物(大和国の刀工による作品)で、無銘ながら「当麻」(たいま)の作と伝えられています。反りのない短刀で、鎬地(しのぎじ:刀の棟と同じ厚さの部分)の先の厚みを落とした「鵜首造り」(うのくびづくり)です。拵も刀身と同時代に制作されたとの見方もありますが、室町初期の可能性が高いと言われています。
合口拵の腰刀で、柄・鞘ともに、塗りは「金梨子地」(きんなしじ)。柄・鞘の合わせ目に、留め具として「筒金」(どうがね)という輪状の金具がはめられています。赤銅魚子地(しゃくどうななこじ:鏨[たがね]を用いて魚卵状の微細な突起を全面に打ち施した物)に、枝菊を高肉彫り(文様の肉厚が普通より高く、盛り上がったように見える彫り)にあしらい、同じ彫り文様の小柄(こづか)と笄(こうがい)が付属。菊のデザインを主体とした飾りが付いていることから、「菊作り」と呼ばれています。小柄と笄は後補(こうほ:後世に補修された物)ですが、豪華で精巧な作柄です。
朱漆雲龍蒔絵大小拵
拵の制作年代 | 安土桃山時代 | 拵全長 | 116.1cm |
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刀身の制作年代 | 安土桃山時代 | 所蔵 | 尾山神社 |
刀身 | 「(大)光忠上ル/(小)備前秀景作という添え書きあり」 |
若い頃は血気盛んなかぶき者だったという「前田利家」が所持。戦国武将らしい華麗なデザインです。利家の幼名である「犬千代」から取って「犬千代拵」(いぬちよこしらえ)という異名も持ち、「桶狭間の戦い」では、この犬千代拵を差していたと言われています。利家没後も前田家に代々受け継がれ、尾山神社創設の際に寄進されました。
鞘全体が、それまでに見られなかった朱漆塗であり、表裏に金の平蒔絵で雲龍が大胆に描かれています。萌黄色の下緒(さげお)を通す栗形(くりがた)や、鞘が抜け出さないように引っ掛ける返角(かえりづの)も朱漆塗にした豪華な拵。まったくの「生ぶ拵」(その刀身に合わせて作られ、後代に手を加えられていない物)であるという意味でも価値の高い1振りです。
また、柄は、巻下地に金無垢の打ち出し鮫を着せ、布に黒漆を塗って菱巻にしてあります。縁金具は山銅(やまがね)を用い、目貫は大の方が流水文、小の方が赤銅の瓜文。頭は朱漆で雲の模様、鐔は大小とも丸形の鉄地で、大の方は龍と雷を高彫りや平象嵌(ひらぞうがん:素地となる材料に異なる材料をはめ、凹凸なく仕上げる技術)で表し、小の方は紅葉や秋草文を車透かし(くるますかし:車輪のような形に透かしが施されている)や平象嵌で表しています。