「欲しい!」と思っても、大変高価であるため、手が届かないのが「日本刀」。それもそのはず、日本刀は元来身分が高い天皇・貴族・士族の持ち物です。なかでも「名刀」は、偉大な人物からのご褒美、あるいは家宝、贈答品として、大切に受け継がれてきました。しかし、1945年(昭和20年)に日本は第二次世界大戦で敗戦。GHQの方針により、多くの日本刀が処分されることになったのです。のちに「日本刀は武器ではなく美術品」だという主張が認められ、誰でも所有できるようになりました。日本刀は先人達の努力の賜物であり、それを受け継ぐことはとても光栄なことなのです。
戦国時代の勝利者である「織田信長」と「豊臣秀吉」は、戦利品で得た足利将軍家コレクションの名刀を、家臣への褒美として、こぞって与えたと言われています。
褒美として有名な日本刀は、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)でしょう。鬼丸国綱は、北条一族から始まり、順に足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍家、「明治天皇」にまで継承された日本刀で、現在は「御物」(ぎょぶつ)として皇室が所有している由緒正しい逸品です。
この刀には逸話があり、それは鎌倉時代の初代執権「北条時政」が病に倒れ、恐ろしい鬼の夢を見て苦しんだことから始まります。ひとりの老人が時政の枕元に立ち、「私はあなたの太刀、国綱です。錆と埃で剣を抜けなくなり、あなたを助けられません。」と言いました。時政は早速、太刀の手入れを命令。直した太刀を抜き身で柱に立てかけていたところ、太刀が倒れて、側にあった火鉢の装飾「小鬼の首」を切り落としました。なんと、このあとすぐに、時政は快復。太刀が助けてくれたのです。
この出来事をきっかけに、時政は太刀に鬼丸国綱の号を授けました。こんな縁起の良い逸話と共に、ご褒美として鬼丸国綱は偉大な人物へ受け継がれていったのです。
室町時代からの名刀「天下五剣」のひとつとしても有名な「大典太光世」(おおてんたみつよ)は、加賀百万石の藩主・前田家の家宝。元々は足利将軍家の家宝でしたが、15代将軍・義昭から豊臣秀吉に渡り、秀吉から前田利家に贈られました。
そのきっかけは、利家の娘・豪姫の病でした。原因不明の病に倒れた豪姫の枕元に、秀吉から借りた大典太光世を置くと、みるみるうちに回復しますが、この刀を返すと再発してしまいます。こうした貸し借りが3度も続いたことで、ついに秀吉は利家に大典太光世を譲ることになったのです。
大典太光世の作者は「三池光世」。平安時代に活躍しましたが、光世の銘があるのは、この大典太光世のみ。光世の最高傑作と言われ、病気平癒のパワーも持つ、家宝にふさわしいとても有難い日本刀です。現在も、前田家の歴史遺産を管理する「前田育徳会」が大切に管理・所蔵しています。
一文字の太刀
日本刀はその強さと美しさから、贈答品としても重宝されていました。贈答の日本刀として有名なのは、「一文字の太刀」(別名[塩留めの太刀])でしょう。
これは「武田信玄」(甲斐国大名/現在の山梨県)から「上杉謙信」(越後国大名/現在の新潟県)に贈られた日本刀。信玄は、「今川義元」(駿河国大名/現在の静岡県)と「北条氏康」(相模国大名/現在の神奈川県)と同盟を結んでいましたが、今川義元が織田信長により討死すると、同盟を破って徳川家康と駿河に進出。怒った「今川氏真」(うじざね:今川義元の息子)と北条氏康から「塩留め」をされることになったのです。
これは海のない土地の信玄にとって、相当の痛手。そのため、塩がないと生きていけないと家来達から不満が出ます。そこで、宿敵である上杉謙信に助けを求めたところ、謙信は快諾。「勝利は戦で決めるものであり、塩で決めるものではない」と塩を分けてくれたのです。
武田信玄は、塩のお礼にこの一文字の太刀を贈答。以来、上杉家で大切に継承されることになるのです。現在は、東京国立博物館に寄贈され保管されています。
刀狩令
実は、刀剣は今までに3度、所持の規制と押収が行なわれています。
最初は、1588年(天正16年)、年貢の滞納や一揆が起きることを防ぐために、豊臣秀吉が武士以外の者(農民、商人、及び職人)から日本刀を始めとする「武器」を押収した「刀狩令」。
次に、1876年(明治9年)、武士が武器を所持することを禁止し、実質的な権利を否定した「廃刀令」。最後に、1946年(昭和21年)、GHQが日本国民の非武装化を目的として、鉄砲・刀剣類・火薬類の所持を厳しく制限した「銃砲等所持禁止令」です。
現在も武器として日本刀を所持することはできません。多くの人が「日本刀は武器ではなく美術品」と訴えたことにより、所定の手続きを得て、許可を得ることで、「美術品」として日本刀の所持が可能となったのです。
皇室・公家に関連する刀剣の歴史などをご紹介します。
1958年(昭和33年)に発令された「銃砲刀剣類所持等取締法」により、2017年(平成29年)時点で日本刀を受け継ぐには、住所地を所轄する教育委員会の許可「銃砲刀剣類登録証」が必要となっています。
もし古い日本刀を発見したら、警察署に連絡し「刀剣類発見届出済証」を貰って下さい。その次に、当該銃砲刀剣類が登録されている都道府県の教育委員会で審査を受け許可されれば、「銃砲刀剣類登録証」が交付されます。
銃砲刀剣類登録証
新しく日本刀を購入する場合は、銃砲刀剣類登録証が付いてくるので、購入したその日から許可を得たということになり、自宅に持ち帰ることが可能。
ただし、購入から20日以内に、当該銃砲刀剣類が登録されている都道府県の教育委員会に「所有者変更届出書」を提出することが必要です。このように制度がきちんと整ったことも、日本刀が受け継がれる大きな理由と言えるでしょう。
日本刀が受け継がれてきたのには、「刀匠」の存在も欠かせません。刀匠の中には、帝室技芸員や人間国宝に選ばれた刀匠もいます。帝室技芸員とは、戦前の宮内庁によって選出・保護された、優秀な美術家・工芸家のことを言います。栄誉を与えることで、美術界・工芸界の奨励と発展を図ろうとしたのです。この制度は、1890年(明治23年)にできましたが、1947年(昭和22年)に廃止となっています。
また、人間国宝の正式名称は「重要無形文化財保持者」。芸能や工芸など、幅広い分野から高い技術が評価され、文部科学大臣に選ばれた技術者です。刀匠界の人間国宝は、高い技術を持ち、美術品としての価値が高い日本刀を作ることができる刀匠の中から選ばれていました。
2018年(平成30年)現在、刀匠界における帝室技芸員、及び人間国宝は他界されたため不在となっていますが、多くの刀匠によって、現代の日本刀は受け継がれてきたのです。ここでは、帝室技芸員、あるいは人間国宝となった歴代の刀匠をご紹介します。
約7年の修行を経て、「備前伝」を習得しました。「孝明天皇」の御剣や伊勢神宮式年祭の「宝刀」などを作刀。1906年(明治39年)に帝室技芸員となりました。
1906年(明治39年)、宮本包則と共に帝室技芸員となりました。
さらには、皇室に関連する刀剣を数多く制作。代表的な物として、皇太子明仁新王(当時)のご成婚時には、美智子様の「お守り刀」を制作しました。
のちの人間国宝となる隅谷正峯や大隅俊平などを弟子として育てるなど、多くの優れた弟子達を輩出しました。
1971年(昭和46年)に、人間国宝に認定されています。
悠仁親王のお守り短刀の制作などを行なっており、現時点で認定されていた最後の人間国宝である刀匠のひとりでした。
1967年(昭和42年)から6年連続で「新作名刀展特賞」を受賞したことに加え、「正宗賞」を3度受賞。1997年(平成9年)に、人間国宝に認定されました。
戦国時代や江戸時代など、はるか昔の刀の美しさが、現代においても損なわれずに鑑賞できるのは、長きに亘って日本刀の「刀身」が適切に保護されてきたためです。刀身の保護が目的である工程には「研磨」(けんま)がありますが、日本刀そのものにも、同様の役割を果たす「鞘」(さや)があります。
鞘は戦での使用などで付いてしまう雨露や疵(きず)、そして長期保管による錆や埃などから刀身を守るために必要な物。日本刀の重要な部位のひとつとも言える鞘について、詳しく解説します。
白鞘
鞘と聞くと、漆塗りになっている物、革や「鮫皮」(さめかわ)で覆われた物など、様々な装飾が施された、いわゆる「拵」(こしらえ:鞘や柄[つか]、鐔[つば]といった刀装の総称)の鞘を思い浮かべる方が多いかもしれません。
鞘は、「刀装具」としての機能美はもちろんのこと、「佩刀」(はいとう:刀を腰に付けること)や実際に戦で用いるための使い勝手の良さを追求しています。
それでは、刀の保管を目的とした鞘はどのような物なのでしょうか?それは、白木(無加工の木)で作られた「白鞘」(しらさや)です。白鞘に主に使用されるのは「朴の木」(ほおのき)。刀身を休めることから、「休め鞘」(やすめさや)と呼ばれることもあります。アニメ版「ルパン三世」に出てくる剣士「石川五ェ門」の斬鉄剣を納めている鞘と言えば、イメージしやすいかもしれません。
拵と白鞘は、「外出着」と「部屋着」のような関係。刀身を長期に亘って保存するためには、目的に応じてこれらの鞘を使い分ける必要があるのです。
日本刀の刀身は、1振1振において「反り」(そり)の付き方や深さが異なるため、ひとつとして同じ形をした鞘が作られることはありません。
木材は周囲の水分を吸い込み、そして放出することで、湿度を一定に保つ性質を持っています。収縮を繰り返すことにより、経年によって鞘の形状に狂いが生じることになり、中に刀身が上手く納められなくなる、または抜けなくなってしまう事態を招くこともあるのです。
このようなことから、鞘制作において何よりも大切なのは、十分に乾燥させた朴の木を材料として用いること。朴の木は短期間で強制乾燥させず、何年もかけて自然乾燥させることが重要です。ここからは鞘制作の基本とも言える、白鞘の制作工程をご紹介します。
材料となる朴の木を選んだら、まず、刀身の柾目や身幅、反りの具合を考慮しながら切り出す作業を行ないます。刀身を載せた板の上に、姿形に合わせた線を引き、ノコギリで切っていくのです。それを縦2つに割り、その表面をカンナで削って平らにします。
白鞘は、外から目に付く物です。木目が特に美しく、1枚の板の中から刀身数本分しか取れないと言われるほど、貴重な部分を使用しています。
2枚の板に刀身がきちんと納まるように、種類の異なるノミと小刀でくり抜く工程です。
刀身の輪郭を鉛筆で取り、角ノミで「棟」の線を取ったあと、丸ノミで角を決めて、平ノミで中を削っていきます。ノミで削るのは大まかな部分となり、その次に小刀で微調整を加えていくのです。掻き入れの最後には「鎺」(刀身が鞘から抜けないように、鍔元に装着する金具)が納まる場所となる「鎺袋」(はばきぶくろ)を作って仕上げます。
仕上げた2枚の板を紐で縛って約10日間放置。そのあと、油を塗った刀身を数回抜き差しすることで、木材に狂いが生じていないか調べます。鞘の中に当たりがある場合は、油が内側に付着。修正を繰り返すことで、ようやく次の工程に入ることができるのです。
2枚の板の糊付けには、「続飯」(そくい)という糊が使われます。水を加えた白米を練り上げて作られる物で、刀身に深刻な悪影響を与えないというメリットがあるのです。また、鞘の中に残っている古い錆などの掃除や、鞘が割れてしまった場合などの修理のために剥がすときにも容易に行なえるという利点も持っています。
糊付けが完了したら紐で縛って乾燥させ、掻き入れと同様に、鞘の内部に刀身の当たりがないか調べることも省いてはならない工程です。
削りを入れる前に、鞘に刀身を入れて実際の鞘の厚みなどを想定し、「肉置」(にくおき:刀身の「鎬地」以外にあるすべての曲面)を決めた上で、「鯉口」(こいくち:鞘の入口部分)の形状を整えます。このときに使われるのは小刀です。決められた鯉口を基準にしてカンナで荒削りを行ない、鞘外部の輪郭を8角形にします。その次に、仕上げ削りに移りますが、ここで用いられるのは小型のカンナ。丸い鞘に仕上げるための削りがかけられるのです。
そして「目釘穴」(めくぎあな:柄を茎に固定するための釘を通す穴)を開けたら、美しい光沢を出し、「鎬筋」(しのぎすじ)がはっきりと見えるようにするために、「トクサ」という植物で磨きます。トクサで磨くことは、かなりの修練と技術が必要。しかし、別の道具、例えば紙ヤスリなどでは細微な疵が付く原因となるため、やはりトクサでの磨きの作業が最適だと言えるのです。
高い技術によって鍛錬された日本刀は非常に美しく、古来より用いられた武器でありながら、美術品として鑑賞される対象でもありました。刀身が美しいのはもちろんですが、刀身を保護、装飾するための刀装具も高い技術を持って作られているため、刀身と同様に美術品として鑑賞することができます。
拵と同様に、長きに亘って受け継がれてきた刀装具。ここでは、刀装具にはどのような部分があり、それぞれどのような役割を持っているかについてご説明します。
鍔
柄から刀身に手が滑ることを防ぎ、相手の刀から手を守る役割を果たしているのが鍔(つば)。透彫(すかしぼり)をはじめとして、肉彫(にくぼり)、象嵌(ぞうがん)、線彫(せんぼり)など、様々な技法によって個性を出した装飾が見られます。
鍔には刀身を差すための穴に加えて、その左右にも穴がある場合がありますが、これはあとに述べる「笄」(こうがい)や「小柄」(こづか)といった器具を装備するために開けられているのです。
柄
柄(つか)は日本刀を構えるときに持つ部分であり、鮫皮と呼ばれるエイの皮が巻かれ、その上から柄巻(つかまき)という装飾が施されています。
柄巻があることで、実戦のときに柄が割れることを防ぎつつ、しっかりと握れるようになるのです。
目貫
「目貫通り」という言葉の語源にもなった「目貫」(めぬき)は、柄を華やかに彩る装飾品であり、2つで一対を成しています。これは刀が柄から抜けないようするために、「目釘」(めくぎ:茎の穴と柄の表面の穴に刺し通す釘)を打ったあと、柄の外に現れる部分を装飾。また、握ったときの感覚を良くする働きもあるのです。
ちなみに、目貫の装飾は向きについて決まりがあり、動物をかたどった目貫であれば、頭を剣先と反対の方向に向け、植物をかたどっていれば花や実を剣先方向に、根を剣先と反対の方向に向けます。
笄(こうがい)とは、かんざしの一種であり、髪の毛が乱れたときに整髪したり、耳かきをしたりするために用いられていました。一方、小柄(こづか)は雑用や細工に用いる小刀で、投げることによって、手裏剣のような役割を果たします。
また、笄・小柄・目貫を総称して「三所物」(みところもの)と呼びます。
笄
小柄