美濃伝
美濃伝の流派
美濃伝
美濃伝の流派

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「美濃伝」(みのでん)とは、美濃国(現在の岐阜県)で南北朝時代に誕生し、戦国時代の戦乱期に急激に繁栄した五箇伝の中でもいちばん新しい流派。繁栄の理由は、ちょうど新東海道(現在の東海道線に近い、京都・美濃・尾張・東国ルート)が開発され、美濃国が重要な中継地点となったこと。美濃国には「斎藤道三」、「明智光秀」、近隣の尾張には「織田信長」、「豊臣秀吉」、三河には「徳川家康」など豪将が多く、戦時に日本刀(刀剣)の需要が多かったことが考えられます。ここでは、好条件が揃って繁栄した美濃伝の代表的な流派である「志津系」、「関物系」についてご紹介します。

美濃伝 関市美濃伝 関市
世界でも有数の刃物の産地である美濃伝の岐阜県関市についてご紹介します。

志津系

元々「美濃国」では、鎌倉時代に、大和国(現在の京都府)の番鍛冶を務めた「千手院重弘」(せんじゅいんしげひろ)が配流され、赤坂(現在の岐阜県大垣市)の土地で「赤坂鍛冶」を興していました。

しかし、後継者もない侘しい状態。そこへ南北朝時代に移住してきたのが、大和国出身で「相州伝」を学んだ「志津三郎兼氏」(しづざぶろうかねうじ)と越前国(現在の新潟県)出身の住職でやはり相州伝を学んだ「金重」(かねしげ/きんじゅう)です。この2人によって、「美濃伝」という新しい流派が勃興します。

「志津系」(しづけい)とは、志津三郎兼氏が率いる一派のこと。多芸庄志津村(現在の海津市南濃町志津)に移住して活躍したことから志津系と呼ばれました。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて繁栄し、「大和伝」と相州伝を加味した美濃伝の礎を築きます。

特に、斬れ味の良い実用性と相州伝仕込みの華やかさを追求。江戸時代中期には「名物」(歴史的価値が高い刀剣)にも多数選ばれ、「美濃物」として高く評価されました。

また、志津三郎兼氏の死後、志津系一派は、直江村(現在の養老郡直江)に移住し、「直江志津」と呼ばれ、さらに繁栄したのです。

系譜
志津系の祖は、志津三郎兼氏です。「兼氏」は、大和国手掻包永系(やまとこくてがいかねながけい)の出身で、大和伝を習得。その後、相州伝の「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)に弟子入りし、「正宗十哲」(まさむねじってつ:相州伝の影響を受けた代表的な刀工)のひとりにも挙げられます。

兼氏は、大和国では「包氏」(かねうじ)と名乗っていましたが、兼氏と改名。志津村の土地に移住して志津三郎兼氏と名乗り、志津系と呼ばれる一派を形成します。

兼氏の死後、その弟子たちが志津系を継承。隣接する直江村に移住し、一派の名称を直江志津と改め、大和伝と相州伝を加味した美濃伝を完成させました。

特徴
相州伝と大和伝の良さを加味しているのが特徴です。姿は相州伝のように豪壮で長寸。重ねも薄く鋭利。鍛えは相州伝の「板目肌」に大和伝の「柾目肌」が交わっています。刃文は二種類。荒沸本位の焼幅が広い物には、互の目乱が交じり、活気に満ちた物。やや狭い湾れ乱風の二様があります。

また、直江志津の特徴としては、太刀姿は兼氏とよく似ていて、地肌がよく詰み、板目鍛えですが流れて柾目風。刃文はやや小さい互の目乱が交じります。長寸で反りが浅く、身幅、重ね、覇気共にバランスが整っています。

代表的な刀工
「兼氏」、「兼友」、「兼俊」、「兼信」、「二代兼氏」

志津三郎兼氏:鎌倉時代末期から南北朝時代

人物
大和伝系でありながらも、大和伝に相州伝を加味して新しい美濃伝を創始。
作風
重ねが薄く、覇気がある相州伝上位の姿格好。地肌は板目鍛に柾目肌が交じり、沸本位の乱刃に尖った互の目乱が付いています。
帽子
焼詰が少し返る大和伝風。
初代銘は太刀銘で、太銘。兼の字が角ばった力強い書体。後代は刀銘(打刀銘)兼の字が魚の文字に見え、丸みを帯び、力感が欠けています。
作品
「分部志津」、「浮田志津」、「堺志津」、「稲葉志津」、「戸川志津」

分部志津

分部志津

評価
名物6振、御物1振、重要文化財3振など。

直江志津 :南北朝時代

人物
直江志津は個人名ではなく、志津三郎兼氏の弟子で構成されたグループのこと。
作風
兼氏によく似ており、鍛えは板目流れで柾がかかり、刃文は大きくのたれて互の目尖り刃が交わっています。
帽子
直ぐで中丸に返ります。
無銘または太銘。
作品
「太刀無銘伝直江志津」、「喜連川志津」など。

直江志津

直江志津

評価
重要文化財1振など。

関物系

数打物

数打物

「関物系」(せきものけい)とは、武儀郡鞍智郷関村(現在の関市)に在住した刀工たちによって作られた、刀剣の総称です。基本的には、関で鍛刀した刀剣のことを「関物」と言いますが、広義に美濃国全域に在住した刀工の作品を総称して呼ぶこともあります。

関物は、美術的品質よりも斬れ味を重視する「実用刀」であることが第一。備前国「備前長船鍛冶」に続いて、「数打物」(かずうちもの)と呼ばれる廉価な刀剣の大量生産にも成功します。

「新東海道」ができて交通の重要な中継地になったことで流通し、関鍛冶は急激に繁栄するのです。

系譜
関の土地で、はじめて刀鍛冶を行なったのは金重です。越前国(現在の福井県)出身で志津三郎兼氏と共に相州伝を学び、南北朝時代に関に移住して関鍛冶の礎を築きました。鍛え肌は鎬地に柾目。志津三郎兼氏のような派手さはなく、中直刃に小互の目が混ざる優しく穏やかな作風が特徴です。孫の婿として「大和国手掻包永」を迎え、子孫が「大和伝系美濃物」と呼ばれる伝系に発展したと言われています。

一方、「関鍛冶」の始祖は大和国から移住してきた「兼光」(または元重)だという説もあります。関鍛冶の本拠地として、奈良の春日大社から関の春日神社(南春日町)に刀祖神を分祀。子孫は「関七流」(せきしちりゅう)と呼ばれる、善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)で、七派を形成して互いに技を競い、七人の合議制によって完全に作刀の統制が行なっていたと言われているのです。

特徴
関物の特徴は、美術的な品格よりも、よく斬れる「実用」を重視していたところ。戦国時代になり戦が頻発すると刀剣需要が高まり、大量生産を開始します。これは「末関物」(すえせきもの:美的価値が低い実用的な数打物)と呼ばれましたが、全国一の品質と数量を誇る西の軍需工場備前長船鍛冶に次ぐ、大きな功績となりました。関物は東の軍需工場と呼ばれ、大繁盛を成し遂げたのです。

そんな中、同じく繁栄していた直江志津は、鍛刀していた直江村が、河川の氾濫による大水害に遭い衰退。関や赤坂の土地への移動を余儀なくされます。また備前長船鍛冶も、1590年(天正18年)8月に起こった大暴風で吉井川が氾濫し水没。何と消滅してしまうのです。こうして関の刀工数は500余人に達し、ついに全国一の鍛冶人口を誇ることになりました。

そんな関物系の中でも、特に優れていたのが、「兼定」と「兼元」です。

初代兼定は赤坂(現在の大垣市)出身。本来は直江志津の血筋で、室町時代から戦国時代にかけて関に移転して活躍します。特に、「二代兼定」は「のさだ」と呼ばれ人気に。実際にその斬れ味は、江戸時代に「山田浅右衛門」によって試し切りが行なわれ、「懐宝剣尺」に収載。最もよく切れた「最上大業物」の評価を取得しています。

また兼元(孫六)は、赤坂から関に移住し、室町時代後期から安土桃山時代に活躍。二代兼元が、「初代孫六兼元」で同一人物です。「関の孫六三本杉」と呼ばれるほど、刃文が秀逸。こちらも最上大業物の評価を取得したのです。

代表的な刀工
「金重」、「善定兼吉」、「室屋兼在」、「良賢兼行」、「奈良兼常」、「得永兼弘」、「三阿弥兼則」、「得印派」、「兼定」、「兼元」(孫六)

二代兼定:室町から戦国時代

人物
二代目兼定は、銘の「定」の文字が「ウカンムリに之」に見えることから、のさだの愛称で呼ばれる関鍛冶の第一人者です。「和泉守兼定」と「守」の位階を賜った最初の人物。百余歳まで生きたとされています。
作風
匂本位の三本杉の刃文を焼き、柾目で小板目肌がよく締まってさえています。
帽子
横手下から深く乱れ込んだ深帽子。地蔵風で堅く止まっています。
和泉守兼定作、和泉守藤原兼定作
作品
「歌仙兼定」、「兼定/武田左京大夫信 所持」など。
評価
重用美術品など。

兼元(孫六):室町から安土桃山時代

人物
関の孫六三本杉と称し、大業物の作者として名を馳せるのは二代兼元のこと。初代孫六兼元とも呼ばれます。
作風
匂本位で不揃いの三本杉(山形を3つ連ねた)の刃文を焼き、長寸で身幅が広くしっかりした姿。
帽子
刃文のまま乱込んでいて、地蔵風か尖り気味。返りは棟寄り。後代の作品は、乱込まず小丸風に浅く返ります。
兼元。力んで角が立っています。
作品
「真柄切兼元」、「青木兼元」、「二念仏兼元」

真柄切兼元

真柄切兼元

評価
重要文化財など。

美濃国の地図

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