明治の代表的な刀工

明治の金工

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日本刀と言えば、とかく刀身に目が行きがちですが、「拵」(こしらえ:日本刀の外装の総称)にも技巧が尽くされています。例えば、日本刀の「柄」(つか)と刀身の間に挟まれている金具である「鍔」(つば)は、柄を握る手を保護するための物ですが、時代を経るにしたがって様々な意匠が凝らされました。鍔は、日本の金属工芸の原点とも言えるのです。今回は、「明治天皇」が「水龍剣」(すいりゅうけん)と命名した日本刀の拵を制作した彫金家「加納夏雄」(かのうなつお)、幕末から明治期にかけて刀装金工界を牽引した「後藤一乗」(ごとういちじょう)と、明治期に加納夏雄と共に活躍した「香川勝廣」(かがわかつひろ)をご紹介します。

明治を代表する金工職人「加納夏雄」の刀装具

世界が驚いた日本の金工技術

金工技術

金工技術

江戸時代に刀装金工が大きく発展を遂げた背景には「黒船来航」まで大きな戦(いくさ)のない時代だったことがありました。

日本刀をはじめとする武具や甲冑は、本来的な目的を離れ、美術品として扱われるように。将軍家や、大名家はこぞって金工職人に拵などの刀装具を作らせたのでした。そのため、日本の工芸品の特徴でもある精密で美しい技巧の数々は、幕末にはすでに形となっていたと考えられているのです。

明治に入ると、西洋文化の刺激を受け、日本の金工職人はさらに腕を磨いていきます。

しかし、1870年(明治3年)に平民の帯刀が禁止され、1871年(明治4年)には華族、士族の帯刀・断髪を自由とする「散発脱刀令」(さんぱつだっとうれい)が発令されると、刀装需要は縮小の一途をたどり、ついには1876年(明治9年)の「廃刀令」によって需要は消滅。刀装金工職人たちは廃業に追い込まれ、新たな道を模索する必要に直面します。

そんな職人たちを救済したのが、明治政府による殖産興業政策でした。

「万国博覧会」、「内国勧業博覧会」へ出品

水龍剣と命名した刀剣の拵

水龍剣と命名した刀剣の拵

1873年(明治6年)にウィーンで開催された「万国博覧会」に明治政府が初出品し、職を失いつつあった刀装金工たちに金工技術を活かした花瓶や置物などを作らせるなど、救済策を講じます。

博覧会で日本の工芸品を初めて見た欧米人は、その技術の高さに驚愕。それらの工芸品を制作した職人のひとりが加納夏雄(かのうなつお)でした。

また、国内で開かれていた「内国勧業博覧会」(ないこくかんぎょうはくらんかい)に出品した夏雄の作品は「妙技一等賞」を受賞。その後も数々の賞を獲得し、瞬く間に有名な金工職人となっていったのです。

「加納夏雄」の類い稀なる才能

加納夏雄

加納夏雄

夏雄は、1828年(文政2年)に京都で生まれ、6歳のときに刀剣商「加納助治」の養子に。12歳で彫金師「奥村庄八」から金工を学び、翌年には大月派「池田孝寿」の門人となります。6年間かけて、絵画のような美しさが特徴的な大月派の技法を修得し、江戸で勝負すると決心した夏雄は27歳で江戸へ。移住後も研究を重ね、頭角を現していきました。

そんな夏雄は、明治天皇から一大プロジェクトを任されることとなります。その任務とは、新貨幣鋳造計画。夏雄は金貨の意匠を考案し、雛形制作、試験打、刻印の製造など、極めて重要な役割を担うこととなったのです。

さらに宮内省から明治天皇のご剣彫刻の依頼を受けるなど、刀装需要がほぼ消滅したことによって、金工界が苦戦を強いられているのを尻目に、夏雄は抜きん出た活躍を見せたのでした。

その後、夏雄は指導者としての道を進みます。1890年(明治23年)に63歳で「東京美術学校」(現在の東京芸術大学)彫金科の初代教授に。さらに、この年に発足した「帝室技芸員制度」(ていしつぎげいいんせいど)で初代「帝室技芸員」に選出されました。

夏雄の作品は「鏨」(たがね:金属などを加工する鋼鉄製の工具)を斜めに打ち込んで描く独特な片切り彫りが特徴的で、余白を意識した気品漂う美しい作風は他の彫金家には真似できない技術だと言われています。明治天皇にその才能を見出され、国内外の多くのファンから愛された夏雄は、1898年(明治31年)71歳で永眠しました。

明治の刀装金工「後藤一乗」と「香川勝廣」

刀装金工の大御所・後藤家の変革者「後藤一乗」

刀装金工の大御所「後藤家」の作品

刀装金工の大御所「後藤家」の作品

日本の刀装金工を語るうえで欠かせない存在である後藤家の原点は、室町時代に初代祐乗(ゆうじょう)が8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)のお抱え金工家となったこと。以後、17代続く刀装金工の一大組織を築き上げました。

しかし、後藤家はその格式の高さゆえに形式主義へと陥ってしまい、江戸時代中期以降の新しい金工界の流れに飲み込まれ、次第にその勢力は衰えてしまいます。そんな中、幕末に後藤家の救世主として現れたのが後藤一乗(ごとういちじょう)でした。

1791年(寛政3年)、京都の後藤家分家(通称・京後藤)に生まれた一乗は、幼い頃から彫金の世界で修業を重ね、1824年(文政7年)に第119代「光格天皇」(こうかくてんのう)の常用刀である「正宗」の刀装具制作を任され、京都から江戸へ移住。その後も江戸で将軍家のお抱えとして作品を制作しています。1862年(文久2年)には、京都へ戻り明治天皇の父である「孝明天皇」(こうめいてんのう)の刀装具制作も担当しました。

一乗の作風は、それまでの後藤家とは異なり、型にはまらない物でした。その理由として、一乗が和歌や俳諧、絵画などにおいても秀でていた文化人だったことが挙げられます。一乗が作り出す豪華で格調の高い作品は高く評価され、後藤家本家を圧倒する勢いで金工界の名工へと上りつめました。この他にも一乗は「伯応」や「凹凸山人」という銘で後藤家では厳禁とされていた鉄製の鍔の制作を行なうなど、後藤家にとって異端児的な存在。

しかし、一乗は衰退していた後藤家に新たな息吹を吹き込み、再興した変革者であったと言うことができるのです。

「加納夏雄」の弟子「香川勝廣」

香川勝廣(かがわかつひろ)が江戸で産声を上げた1853年(嘉永6年)は、アメリカ海軍「ペリー」の来航に続き、ロシア海軍「プチャーチン」も来航した、いわゆる黒船来航の年。

勝廣は、江戸時代から明治時代にかけて活躍した漆工家・画家「柴田是真」(しばたぜしん)に絵画を学び、能面師「有吉吉長」(ありよしよしなが)には木彫りの指導を受け、その後は「野村勝守」(のむらかつもり)、加納夏雄の弟子として彫金の技術を習得、金工作家として成功を手にしました。

彫金技術の師匠である夏雄の作品に代表される技法である片切り彫りを習得した勝廣は、1893年(明治26年)に夏雄と2人で明治天皇のご剣の外装制作を行なうという名誉ある任務を与えられたのです。

その後、1898年(明治31年)には師匠でもあった夏雄が初代彫金家教授を務めた東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任、1906年(明治39年)に帝室技芸員となり、皇室に多くの工芸品を献上。

偉大な師匠と共に明治天皇から高い評価を受けた勝廣は、生涯東京を拠点に活動し、1917年(大正6年)63歳でこの世を去りました。

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