明治天皇の愛刀紹介

明治天皇の刀剣コレクション

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「明治天皇」は、愛刀家としても知られていました。そのコレクションは、古刀、新刀を含めて約300振にも及び、いずれも「業物」(わざもの:名工が制作した切れ味の鋭い刀)揃い。そこで、日本屈指の刀剣収集家でもあった明治天皇が愛した刀剣から、選りすぐりの名刀をご紹介します。
ここでご紹介するのは、「岡田切」(おかだぎり)、「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)、「一期一振」(いちごひとふり)、「小竜景光」(こりゅうかげみつ)、「鶴丸国永」(つるまるくになが)、「獅子王」(ししおう)、「太刀:無銘 伝則宗」(たち:むめい でんのりむね)、「小烏丸」(こがらすまる)、「宗瑞正宗」(そうずいまさむね)、刀「会津正宗」(あいずまさむね)、「徳用守家」(とくようもりいえ)、太刀「鶯丸」(うぐいすまる)、太刀「銘 宗近」(めい むねちか)。
さらには明治天皇が常用刀として用いていた新刀の祖「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の作品、菊紋入りの太刀(和泉守国貞:いずみのかみくにさだ=井上真改作:いのうえしんかいさく)、国宝「太刀」(綾小路定利作:あやのこうじさだとしさく)の15振です。

目次

吉房の代表作「岡田切」~織田信長も愛したたくましく華麗な日本刀~

「岡田切」は、「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の刀工「吉房」(よしふさ)作の太刀で、刃長69.1cm、反り2.1cm。身幅が広く、猪首鋒(いくびきっさき:猪の首ように短い剣先)の雄大な姿でありながら、板目肌(いためはだ:木の板のような模様の地肌)に重花丁子(じゅうかちょうじ:花が咲き乱れているような刃文)の乱刃(みだれば)が華やかな刀身です。

吉房の作品の中でも特に出来が良いと言われている華麗な日本刀は、国宝に指定されています。

岡田切

岡田切

刀工「吉房」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

一文字派とは

鎌倉時代に多くの名工を輩出した備前物は、鎌倉中期を境に大きく2つの刀工集団に分かれました。鎌倉初期から中期にかけて隆盛を極めた刀工集団が「一文字派」(いちもんじは)で、鎌倉後期から室町時代にかけて隆盛を極めた刀工集団が「景光」らを輩出した「長船派」(おさふねは)です。

一文字派はさらに2つの流派に分かれ、鎌倉初期に福岡で活動し「菊一文字」(きくいちもんじ)で有名な「則宗」(のりむね)を始祖とする刀工一派を「福岡一文字派」と呼び、鎌倉後期から南北朝初期にかけて福岡の北に位置する吉岡を拠点に活動した刀工一派を「吉岡一文字派」(よしおかいちもんじは)と呼びます。

一文字派の銘

流派名の「一文字」は、作品の(めい)に「一」の字を切っていたことに由来。銘には一の下に刀工の名前を加えた物や、刀工の名前と一を表裏に分けて銘を切った物、さらには刀工の住所と名前を切っている物もあります。

一の字の書体で年代や流派を見分けることができると言われており、最も古い年代の物は、一が文字ではなく符号的に見える物。この中には、斜めに無造作に切り付けたような物も見られます。

また、流派によっても違いがあり、福岡一文字は一の最初の部分と最後の部分であるツケトメがなく角張らずに横に切っているのに対して、ツケトメが強調されている物が吉岡一文字。同じ一の文字でも、異なる特徴を有しているのです。

主君に斬られた岡田重孝

織田信長」(おだのぶなが)の家臣だった「岡田重孝」(おかだしげたか)は、「本能寺の変」で織田信長が死亡したあと、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)に仕えた織田家の重臣でした。

しかし、織田信雄が敵対していた「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)と親しくしていたことから内通を疑われ、織田信雄の居城であった「長島城」に呼び出されて斬り殺されてしまいます。このとき、岡田重孝を斬った刀が吉房作の太刀で、父・織田信長の愛刀を織田信雄が受け継いだ物。岡田切という号は、「岡田重孝を斬った刀」が由来となっていたのです。

ときは流れ、岡田切は明治時代に茶人「鈍翁」(どんおう)としても名を馳せた実業家・益田孝(ますだたかし)のもとへ渡りました。

1910年(明治43年)に皇太子(のちの大正天皇)が陸軍大将から公爵となった「山縣有朋」(やまがたありとも)の邸宅を訪れた際に、益田孝が献上。明治天皇の愛刀となったと言われています。現在は「東京国立博物館」所蔵となっています。

吉光の代表作「平野藤四郎」~大名を守っていた日本刀~

「吉光」(よしみつ)は、鎌倉時代中期に活躍した京都の「粟田口派」(あわたぐちは)を代表する刀工。同時代に活動し、日本一有名な刀工と言われている「正宗」(まさむね)、越中(現在の富山県)で作刀していた「郷義弘」(ごうのよしひろ)と共に、豊臣秀吉から「天下三作」(てんがさんさく)と称されていました。

吉光が制作する日本刀は、大名家から絶大な支持を得ており、江戸時代の大名にとって吉光はなくてはならない存在だったと言われています。

吉光の作品が大名家からの支持を得ていた裏には、2つの逸話が関係していました。ひとつは「畠山政長」(はたけやままさなが)が戦に敗れて自害を試み、吉光の短刀を腹に突き刺そうとしたところ、なぜか刀が刺さらず失敗してしまったという話。

そしてもうひとつが「徳川家康」が敗戦の折に自害を決意し、吉光の短刀で腹を切ろうとしたが切れず、そのうち敵軍が去って行き、生き延びた結果、のちに天下を獲ったという逸話です。このことから「吉光の刀は主君の身を守る名刀だ!」という噂が流布し、大名たちにとって吉光の短刀がお守り的存在となったと考えられています。

  • 日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

  • 刀工「吉光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

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享保名物帳の第一に選ばれた短刀

「平野藤四郎」は刃長約30cmと、吉光が制作した短刀の中で最も大振りで、吉光の二字銘が一段と力強く刻まれています。吉光の作品では、吉光の通称である「藤四郎」の頭に持ち主の名前を付けるのが慣例。これに習い、もともと所有していた摂津(現在の大阪府北部)の商人「平野道雪」(ひらのどうせつ)の平野を藤四郎に冠しました。

また、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が刀剣鑑定師「本阿弥家」(ほんあみけ)に命じて作らせた名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)の控えには、第一に平野藤四郎が掲載されていることから、吉光の代表作にして、時代を代表する短刀であったことが分かるのです。

平野藤四郎が明治天皇に献上されるまで

平野藤四郎は、摂津の商人平野道雪が所有していましたが、豊臣秀吉の家臣「木村重茲」(きむらしげこれ)が買い取り、豊臣秀吉に献上しました。これを豊臣秀吉が「前田利長」(まえだとしなが)へ譲ると、今度は2代目将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に献上されます。前田家に戻ったあとは、代々前田家の家宝として継承されるように。

そして1882年(明治15年)、前田家から明治天皇へと献上されたのです。現在も「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有物)として「宮内庁」が保管しています。

吉光唯一の太刀「一期一振」~吉光の最高傑作~

平野藤四郎でご紹介したように、吉光は鎌倉時代中期に短刀制作のスペシャリストとして名を馳せていました。しかし、吉光の最高傑作と言われているのは、意外にも太刀「一期一振」。その名の通り、吉光が生涯でただ1振だけ制作した太刀でした。鎌倉時代に京都で作刀された一期一振は、刃長68.8cm、反り2.8cm、元幅3.2cm、先幅2.4cm。身幅が広く、猪首鋒の堂々とした刀身で、吉光特有の大きな銘が一段と力強く見られるのです。

一期一振の来歴については諸説ありますが、1590年(天正18年)に「毛利輝元」(もうりてるもと)から豊臣秀吉に献上されたとする説が有力です。しかし、1615年(慶長20年)に江戸幕府と豊臣家が戦った「大坂夏の陣」で、「大坂城」と共に炎に包まれ焼身(やけみ:刀身が火に焼けること)に。その後、徳川家がこれを確保し、江戸幕府お抱えの刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)に再刃させました。

江戸時代には、尾張徳川家に代々家宝として伝えられ、幕末期に明治天皇の父である「孝明天皇」(こうめいてんのう)に献上され、明治天皇が相続。現在も御物として宮内庁で保管されています。

一期一振

一期一振

一期一振に学ぶ日本刀の数え方

1頭、1丁、1巻、1台…このように日本語には、「助数詞」と呼ばれる様々な数え方の単位があります。皆さんは、日本刀を数えるとき、どのように数えていますか?1本でしょうか、それとも1刀でしょうか。どちらも間違っていませんが、古くから使われている数え方としては「振」が上げられます。これはまさに一期一振の「一生に1振」という名にあるもので、刀を振り下ろすというところからきています。

この他にも1口、2口と「口」を使って数えられることもあり、これは日本刀が切り口を付けることに由来していて、読み方は「ふり」、「くち」、「こう」です。刀を腰に差すところから、「腰」(こし)が使われていたこともあります。もちろん「二刀流」という言葉があることから分かるように、「刀」(とう)と数えても、間違いではありません。

鎌倉期の名刀「小竜景光」~明治天皇が持ち歩いていた日本刀~

小竜景光の由来

「小竜景光」(こりゅうかげみつ)は、日本刀のに小さな竜の浮彫があることからその名が付けられました。鎺とは刀身の根元の金具部分のことで、刀身を(さや)のなかで安定させるための物。それぞれの刀身に合った形で作られるため、刀の個性が出る部分でもあり、小竜景光にとってこの鎺が最大の特徴です。

彫られている竜は「倶梨伽羅竜」(くりからりゅう)という「不動明王」(ふどうみょうおう)の化身とされる竜王。岩上で炎に包まれた竜が剣に巻き付いて、剣を飲み込もうとしている様子が彫られています。

また、小竜景光には「のぞき竜景光」という別名も。磨上げ(すりあげ:刀身を切って短くすること)を行なったことにより、竜の浮彫が(つか)の中に入ってしまったことで、鎺に残った竜の頭が覗いているように見えることから、こう名付けられたのでした。

小竜景光

小竜景光

刀工「景光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

楠木正成の佩刀

楠木正成

楠木正成

楠木正成」(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代に「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に仕えた武将で、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)と共に鎌倉幕府打倒に尽力した人物。

「大楠公」(だいなんこう)という称号でも知られており、現在、皇居外苑に銅像が建っています。そんな楠木正成の佩刀(はいとう)だったと伝えられている小竜景光ですが、江戸時代末期に河内国(現在の大阪府)の農家で発見されるまでの伝来は、不明。一体どのようにして楠木正成が所用した刀が伝わっていったのか、その来歴は謎に包まれているのです。

楠木正成のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

明治天皇のご佩刀になるまで

江戸時代末期に農家で発見された小竜景光は、当初の本阿弥家による鑑定では偽物だとされました。日本刀の試し切りを行なう「公儀御様御用」(こうぎおためしごよう)を務めていた「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)が刀剣商から買い取りましたが、大老「井伊直弼」(いいなおすけ)に取り上げられます。

しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で暗殺されたため、小竜景光は再び山田浅右衛門家に戻り、1873年(明治6年)に山田浅右衛門家から当時東京府知事を務めていた「大久保一翁」(おおくぼいちおう)を通じて「宮内省」に献上されたのです。明治天皇は小竜景光をとても気に入り、サーベルの柄を付け、腰に付ける「御佩刀」(みはかし)としていつも持ち歩いていました。

景光と長船派

小竜景光を作刀した「景光」(かげみつ)は、長船派を代表する3代目刀工。景光の作品は現存している物が多く、小竜景光を含む3振が国宝に指定されており、その他多数の作品が重要文化財となっています。

景光を育てた長船派は、鎌倉時代末期に備前邑久郡長船(びぜんおくぐんおさふね:現在の岡山県瀬戸内市)を拠点に活動していた刀工の流派。景光の他にも多くの名工を生み出すなど、長船派の刀工が作刀した物は「長船物」(おさふねもの)と言われ、高く評価されているのです。

また、拠点としていた備前は砂鉄、水、木炭などの日本刀を作る上で欠かせない原料が豊富な地域で、刀工数は他の地域に比べて圧倒的に多く、数々の名刀が作られてきました。

伊達家の名刀「鶴丸国永」~謎多き刀工 国永~

戦国武将の中でも屈指の人気と知名度を誇る「伊達政宗」(だてまさむね)。その伊達政宗の愛刀だったと言われている鶴丸国永は、平安時代の刀工「国永」(くになが)の作で、刃長78.6cm、反り2.7cm。腰反り(こしぞり)が高く、しなやかな刀身に、(にえ:刀身にきらきらと光って見える金属粒子)付きの刃文(はもん:焼き入れで現れる刀身の模様)の小乱(模様)が美しい「名物」(めいぶつ:特に姿形が優れている日本刀[刀剣])です。国永銘の作品は、数振しか現存していませんが、なかでも鶴丸国永は完成度が高く、保存状態も非常に良い希少な太刀です。

鶴丸の号については、享保名物帳にも「鶴丸と言(う)小細は不知」と書かれているように、由来は不明。鶴丸国永の失われた太刀拵(こしらえ)に、伝統的な吉祥(きちじょう)文様として日本で古くから使われてきた鶴の文様があったからではないかという説もあります。

鶴丸国永

鶴丸国永

  • 伊達政宗のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 刀工「国永」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

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ときを超えて明治天皇のもとへ

1285年(弘安8年)、鎌倉幕府内の政変により、御家人・安達家が滅びると、鶴丸国永は北条家へ。このとき、鎌倉幕府9代執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が、この太刀を手に入れるために安達家の墓を暴いたとも言われています。

その後、北条家から織田信長へと渡り、それを受け継いだ織田信長の家臣「三枝勘兵衛」(さえぐさかんべい)が没したあと、京都の「藤森神社」(ふじのもりじんじゃ)に納められました。これを刀剣鑑定師・本阿弥家11代当主である「本阿弥光温」(ほんあみこうおん)の弟が持ち出し、伊達家へ。伊達家で代々受け継がれたのち、1901年(明治34年)に行なわれた明治天皇の仙台巡幸の際に、陸奥国(むつのくに:現在の東北地方)仙台藩14代藩主「伊達宗基」(だてむねもと)から献上されました。現在も御物として宮内庁が保管しています。

刀工・国永のルーツとは

国永の出生には、2つの説があります。ひとつが1792年(寛政4年)に刊行された刀剣書「古刀銘尽大全」(ことうめいじんだいぜん)に記されている、京都の「三条派」(さんじょうは)の門人「兼永」(かねなが)の弟であるという説。

もうひとつが、1796年(寛政8年)に刀剣研究家「鎌田魚妙」(かまたなたえ)によって書かれた刀剣書「本朝鍛冶考」(ほんちょうかじこう)に記されている「後一条天皇」(ごいちじょうてんのう)の時代に存在していた「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の弟子「有国」(ありくに)の子であるという説です。

これらの説のうち、どちらが正しいかはいまだに解明されておらず、また現存している作品も非常に少ないことから、国永のルーツは現在も謎に包まれていると言えます。

鵺を仕留めた褒賞・「獅子王」

伝説の太刀

平安時代「源氏」と「平家」は、朝廷に仕える武家として天皇の警護を任されていました。なかでも信頼が厚かった「源頼政」(みなもとのよりまさ)に対し、深夜に不気味な鳴き声を響かせて「近衛天皇」(このえてんのう)を悩ませている妖怪を退治する旨の命令が下されます。

源頼政が鳴き声の主を探しに森へ入って行くと、黒雲が広がる中で蠢(うごめ)いている何かを発見。武家の神様に祈りながら矢を放つと、獲物に命中。妖怪退治の成功に感激した天皇は、源頼政に「獅子王」を授けたのです。

この説話は、平家の栄枯盛衰を描いた古典「平家物語」で描かれており、獅子王は伝説の太刀として語り継がれてきました。

妖怪・鵺とは?

鵺(ぬえ)

鵺(ぬえ)

天皇を悩ませた不気味な鳴き声の主は「鵺」(ぬえ)という妖怪だと言われています。

夜に鳴く鳥のような生き物であったことから、鵺という漢字で表されていますが、物語で描かれている鵺の正体は鳥ではありません。狸の胴体に猿の頭と虎の手足と蛇の尻尾が付いた妖怪でした。

物語によっては、胴体が虎という描写がされている物もあり、干支の生物を合成した獣と言われることも。江戸時代末期の代表的な浮世絵師「歌川国芳」(うたがわくによし)が、その姿を描いたことでも知られています。

獅子王と源頼政

平安時代末期になると、「平清盛」(たいらのきよもり)を中心とした政権が発足し、日本で初めて武家が政権を掌握。平氏に権力が集中したことで、源氏や朝廷内部では次第に不満を抱える者が増加しました。

源頼政は当時の皇族「以仁王」(もちひとおう)と平氏打倒を企みます。1180年(治承4年)に以仁王が挙兵し、当時77歳だった源頼政も戦陣に立って獅子王を手に奮戦しましたが、「橋合戦」で平氏に追い詰められ、自害。獅子王は、源頼政と最期まで一緒に戦い抜いた刀として、歴史に刻まれました。

獅子王が明治天皇に献上されるまで

獅子王の作者については諸説ありますが、その特徴が平安時代末期に「大和」(やまと:現在の奈良県)の刀工が作刀していた太刀に似ていることから、高い技術を持った「大和伝」(やまとでん)の刀工の手による物だと考えられてきました。

刀身は、「日本三名匠」(にほんさんめいしょう)として名前が挙がる古備前派の祖「備前友成」(びぜんともなり)を意識したような形状で、(こしらえ)は鎌倉時代末期に作り替えられたと推測されています。

関ヶ原の戦い」後に徳川家康のもとに渡り、徳川家康から源頼政をルーツに持つ土岐家に与えられ、同家の家宝に。明治時代に入り明治天皇に献上されたあと、現在は国指定の重要文化財として東京国立博物館が所蔵しています。伝説の太刀は、現代に伝承されていたのです。

後鳥羽上皇が認めた「菊一文字」こと則宗の太刀

後鳥羽上皇の鍛冶・御番鍛冶

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

室町幕府の初代将軍・足利尊氏の佩刀として知られている「笹丸」(ささまる)を作刀したのが、「菊一文字」こと則宗。その作刀技術を高く評価していた「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、則宗と共に刀工の新時代を築き上げます。その背景には、鎌倉幕府への対抗心がありました。

1183年(寿永2年)に天皇に即位し、1192年(建久3年)に上皇となってから23年間院政を行なっていた後鳥羽上皇は、現在の大阪府三島郡にあった水に恵まれた「水無瀬離宮」(みなせりきゅう)に鍛冶場を設けて作刀させることを思い付きます。上皇の武家に対する対抗心と日本刀を愛する気持ちが、上皇直属の「御番鍛冶」(ごばんかじ)を誕生させたのでした。

菊紋のルーツ菊御作

後鳥羽上皇は、名高い刀工に上洛命令を出して水無瀬離宮の鍛冶場に呼び集め、月ごとの交代制で日本刀を鍛えさせました。十三人御番鍛冶では、1年12ヵ月に閏月(うるうづき)を加えた13の月番を分担する計13人の刀工が奉仕し、約13年間続いたと言われています。

また、多才な人物であった後鳥羽上皇は、鍛冶場ができると、京都から呼んだ「粟田口久国」(あわたぐちひさくに)に師事し、自らも作刀に励みました。後鳥羽上皇が作刀した(なかご)には、銘の代わりに菊花紋が刻まれたことから「菊御作」(きくごさく)と呼ばれました。16弁の菊花紋は、のちの天皇にも受け継がれ、天皇家の紋章として扱われるようになり、皇室の紋章として菊花紋が定着。皇室の象徴とも言える菊花紋には、日本刀が関係していたのです。

菊御作は「菊作」や「御所焼」とも呼ばれるなど、特別な刀だと認識され、主に御所警護に就いていた武士達に下賜。御所の警護役を担っていた武士達は、後鳥羽上皇自らが鍛えた日本刀を携えて護衛をしていました。

御番鍛冶屈指の名工・菊一文字の則宗

福岡一文字派の則宗は、御番鍛冶の中でもトップクラスの技量を持っていた刀工で、1220年(承久2年)の十三人御番鍛冶では、正月番を務めていました。則宗は、後鳥羽上皇が鍛えた菊御作と同様に、茎に菊花紋の銘を刻むことが許されていたことから、菊一文字を称したことでも知られています。

明治天皇は、1902年(明治35年)の九州陸軍特別大演習行幸の際に、則宗の銘が刻まれた太刀の献上を受けました。これは、黒田家が室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)から受け継いだ物。もっとも、この太刀の拵については、家紋が入っていたため献上することができず、刀身のみが明治天皇のコレクションに加えられたのです。現在も御物として、宮内庁が保管しています。

刀工「則宗」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

平氏の重宝「小烏丸」

小烏丸の作者 天国

「小烏丸」(こがらすまる)の作者とされている「天国」(あまくに)は、奈良時代後期から平安時代初期に大和(現在の奈良県)で活動していた刀工と伝えられていますが、その存在を示す歴史的証拠は見つかっていません。実在した人物なのか否かが明確でないため、複数の刀工が集団でその名を用いていたという見解もあるなど、謎に包まれた刀工です。

それまでの真っ直ぐな刀(直刀:ちょくとう)から、日本刀の特徴のひとつである反りのある形状の物が作られるようになったのも、天国が活動していたと言われている時代。そのため、天国は「日本刀の祖」と位置付けられることもあります。

小烏丸の由来

八咫鴉

八咫鴉

小烏丸という名前は、「桓武天皇」(かんむてんのう)が体験した逸話に由来すると言われています。すなわち、ある朝、桓武天皇が正殿で朝拝をしていると、1羽の「八咫鴉」(やたがらす)が空から舞い降り、大神宮(伊勢神宮のこと)からの使いである旨を告げ、1振の太刀を落として飛び立ちました。

烏の羽根から太刀が出てきたとされる一連の出来事から、この太刀には小烏丸という名前が付けられたのです。

特異な形状

平安時代に制作された刀剣の特徴のひとつとして挙げられることは、剣先が両刃になっている造込みである「切先両刃造」(きっさきもろはづくり)。この時代の作であると考えられている小烏丸も切先両刃造の刀ですが、剣先だけでなく、刀身の半分以上が両刃という刀剣としては異質の造りが見られます。この点において、直刃、両刃が主流だったとされる古墳時代の名残を色濃く残していると言えました。

小烏丸は、刀身に緩やかな反りがあるように、日本刀の特徴も併せ持つ物。すなわち、古墳時代の直刀から日本刀の特徴的な形状へと移り変わる、先駆け的な存在だと考えることができるのです。

平氏の家宝が明治天皇に献上されるまで

935年(承平5年)「平将門」(たいらのまさかど)が関東に独立国家を建てる宣言をしたことに端を発した「平将門の乱」が勃発。朝廷は「平貞盛」(たいらのさだもり)に鎮圧を命じて1振の太刀を授けます。この太刀が小烏丸でした。以後、小烏丸は平氏の家宝になったのです。

平氏は栄華を極めましたが、1185年(寿永4年)に「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で源氏に敗北。平氏の滅亡と共に、小烏丸の行方も分からなくなってしまいました。

ときは流れ、江戸時代中期、壇ノ浦の戦いにおいて平氏と共に海に沈んだと思われていた小烏丸が、平氏一門の流れを汲む伊勢家で保管されていたことが判明。その後、平氏の末裔でかつて「対馬」(現在の九州)を支配していた宗氏のもとへ渡り、1882年(明治15年)3月明治天皇に献上されたと言われています。もっとも小烏丸については謎が多く、伝来についても諸説入り乱れているのが現状です。

日本刀剣界を代表する刀工 正宗の刀剣

日本一有名な刀工 正宗

日本刀は、山城国(現在の京都府)、大和国(現在の奈良県)、備前国(現在の岡山県)、美濃国(現在の岐阜県)、相模国(現在の神奈川県)で生み出された5流派を源にして伝承されてきた物で、これらを「五箇伝」(ごかでん)と呼びます。

鎌倉時代中期までは、刀工数が圧倒的に多かった「備前伝」が中心的な存在でしたが、「相州伝」における正宗(まさむね)の台頭によって、その流れは大きく変化。正宗が制作した大胆さと美しさをかね備えた刀は、日本の刀工に大きな影響を与えました。

城和泉守正宗

城和泉守正宗

  • 刀剣に関する基礎知識をご紹介します。

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相州伝の確立

相模国の刀工「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)は、鎌倉に新たな鍛錬法の確立を目指して「山城伝」と備前伝を習得。少しずつスタイルを確立しつつありました。このことから「国光」は鎌倉鍛冶の祖と言われており、のちにこのスタイルを相州伝として確立させたのが正宗です。

その作品は、強く鍛えた鉄に激しく沸が特徴的。大きな波がうねっているような「湾れ」(のたれ)は、武士の間で新しい流行を作りました。正宗の名は一気に拡大し、日本において最も有名な刀工だと言われています。

宗瑞正宗

「宗瑞」とは毛利輝元が、関ヶ原の戦い後に称した「幻庵宗瑞」に由来しています。「宗瑞正宗」(そうずいまさむね)は、毛利輝元が臣従していた豊臣秀吉から与えられたあと、徳川将軍家へ。正宗の特徴である丸みのある茎(なかご:刀身の柄に被われている部分)と動きのある湾れが美しい短刀です。

1895年(明治28年)に徳川宗家から明治天皇に献上され、「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん:宮内省から優れた美術家などに送られる栄誉称号)の彫金家「香川勝広」(かがわかつひろ)の技巧を凝らした「花唐草透彫水晶入短刀拵」(はなからくさすかしぼりすいしょういりたんとうこしらえ)が添えられました。

会津正宗

「会津正宗」(あいづまさむね)は、織田信長に臣従していた「蒲生氏郷」(がもううじさと)の領地である「会津」(現在の福島県)の地名にちなんで、こう呼ばれました。

8代将軍・徳川吉宗の命で作られた名刀リスト享保名物帳によると、この刀は蒲生家から徳川家康へ献上されたあと、徳川家に受け継がれたのでした。明治維新後に徳川家から皇族「有栖川宮熾仁」親王に渡り、1885年(明治18年)に明治天皇に献上され、現在に至っています。

宗瑞正宗と会津正宗は共に、現在は御物として宮内庁で保管されています。

徳川家康が上杉謙信に贈った「徳用守家」

上杉家の名刀リスト

上杉謙信

上杉謙信

戦国最強の武将とも名高い「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は、愛刀家としても知られ、数々の名刀を収集していました。

上杉謙信の養子となり家督を継いだ初代米沢藩主「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)もまた、高い鑑定眼も持ち合わせており、上杉家の膨大なコレクションから特に希少な刀剣を選抜して「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)という名刀リストを作成。

この中には、のちに明治天皇のコレクションとなった「徳用守家」(とくようもりいえ)の名もありました。

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  • 上杉謙信のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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徳川家からの返却要求をやりすごす

徳用守家が上杉謙信の手に渡ったきっかけは、「武田信玄」と徳川家康が争った「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)でした。劣勢に立たされた徳川家康は、上杉謙信に援軍を要請します。このとき、徳川家康から上杉謙信に贈られたのが徳用守家。

備前の刀工「畠田守家」(はたけだもりいえ)によって作られたこの刀は、健全無比の存在だったことから、号に「徳用」と付けられていました。刃長73.3cm。大丁子乱(おおちょうじみだれ:丁子の花のような刃文)が華やかなこの名刀を贈ったことから、徳川家康が切迫した状況に追い詰められていたことが伝わってくるのです。

もっとも、上杉謙信は徳川家康の要請に応じることができず、徳川家康は武田軍に大敗。そのため三方ヶ原の戦い後、徳川家康は徳用守家を返却してもらうべく、上杉家に対して申し入れましたが、回答は「刀が見当たらない」の一点張り。

愛刀家であった上杉謙信は、一度手に入れた名刀を手放したくなかったとも考えられます。その後も上杉家は、江戸幕府側からの徳用守家返却要求に応じることはなく、徳用守家は、上杉家秘蔵の名刀として代々受け継がれていきました。

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明治天皇が魅入った上杉家秘蔵の名刀

1881年(明治14年)、東北巡幸の際に、明治天皇は代々米沢藩主を務めてきた上杉家に立ち寄り、重代の日本刀や武器類を見学していました。

天皇は、上杉謙信の代から集められた希少な刀剣を前に上機嫌で目を輝かせ、熱心に鑑賞したと言われています。それは、もともと1日の宿泊だったところを2日に延ばし、また食事中も玉座の左右に短剣を陳列させて鑑賞したほど。このような経緯もあり、徳用守家が明治天皇に献上されました。

戦国を代表する愛刀家の上杉謙信から明治を代表する愛刀家明治天皇のもとへ。約300年間上杉家で眠っていた徳用守家は、時代を超えて、愛刀家を虜にする力を持った名刀だったと言えるのです。

備前の巨匠・友成作「鶯丸」

歴史と品格が漂う古名刀

平安時代の刀匠「友成」(ともなり)によって作られた「鶯丸」(うぐいすまる)は、古名刀の中でも品格と華やかさを持つ1振で、刃長81.8cm、反り2.7cm。友成の作品では、最古の物のひとつであると言われています。

金筋(きんすじ:沸が細い線状になって輝いている文様)と砂流し(すながし:沸が線状に連なる文様)が目立つ乱刃(みだれば)で、よく詰まれた板目肌(いためはだ:木の板のような模様の地肌)。

刀身の上半部分には、刃文の働き(模様)と言われる(よう)も見られます。鶯丸という号の由来については明らかではありませんが、室町時代にはすでにこの呼び名があったと言われているのです。

刀工「友成」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

褒賞として渡された鶯丸

関東地方で豪族が室町幕府を相手に反乱を起こした「結城合戦」(ゆうきかっせん)。1439年(永享11年)に勃発したこの戦いの際に、手柄を立てた武将「小笠原政康」(おがさわらまさやす)に対して、6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)から褒美として与えられたのが鶯丸でした。主君による戦での功績を讃えた文書である「感状」(かんじょう)が添えられており、現在も鶯丸と共に保管されています。

その後、鶯丸は感状と共に小笠原家に代々受け継がれました。そして、1908年(明治41年)に茨城県陸軍特別大演習が行なわれた際、鶯丸を買い取っていた宮内大臣「田中光顕」(たなかみつあき)から明治天皇へ献上されたのです。

多数の人に使われていた?銘・友成

鶯丸の作者友成は、備前(現在の岡山県)の生まれで、刀工「実成」(さねなり)の子だと言われています。ある刀剣書には、989年(永延3年)に父と共に「一条天皇」(いちじょうてんのう)の命によって日本刀を鍛えた旨の記述があり、「源義経」(みなもとのよしつね)や「平教経」(たいらののりつね)らの名将は、揃って友成作の刀を佩用(はいよう)していたと言われているのです。

友成と切られた銘は2種類で、鶯丸に見られる「備前国友成」という物と「友成作」という物が存在。友成作と銘が切られた物には「厳島神社」(いつくしまじんじゃ)が所蔵している国宝の太刀友成や、埼玉県川越市の寺院「喜多院」が所蔵している太刀などがあります。

2つの銘の関係性については「ひとりの」友成が2種類の銘を切った物だとする見解もありますが、刀身の作風に時代差が感じられることから「複数の」友成によって作刀された物であるとする見解も存在。「平安時代の」友成と「鎌倉時代の」友成がいたという説や、同じ銘を切る刀工が複数人いたという説など諸説が唱えられてきました。

三条小鍛冶宗近の太刀

「三条小鍛冶」の由来と、三条小鍛冶宗近が生きた時代

明治天皇のコレクションのひとつである三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)の太刀は、刃長78.5cm、反り2.8cm。1909年(明治42年)の北陸巡行の際、若狭小浜藩(現在の福井県小浜市)の「酒井忠道」から東宮(のちの大正天皇)に献上され、さらに東宮から天皇に献上され、御物となりました。三条小鍛冶宗近の作品には「三条」と「宗近」の2つの銘の物がありますが、この太刀には宗近の銘が切られています。

三条小鍛冶宗近は、平安時代中期の代表的な刀工。山城国三条通粟田口付近(現在の京都府)に住んでいたことから「三条小鍛冶」(さんじょうこかじ)の名が付きました。小鍛冶とは、たたら製鉄法で精錬された鉄を用いて様々な鉄製品を作る者のことで、刀鍛冶も含まれています。

三条小鍛冶宗近が活動していた時代は、一条天皇(いちじょうてんのう)の治世で、平安時代でも特に平穏無事な世。「清少納言」(せいしょうなごん)や「紫式部」(むらさきしきぶ)らによって平安女流文化が花開いた時代が、まさにこの頃でした。三条小鍛冶宗近作の太刀姿(太刀の形状)は、当時の世相を映すかのように優美さが際立っているのが特徴です。

宗近

宗近

刀工「宗近」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

伏見稲荷大神の使者を相棒に

三条小鍛冶宗近と狐の縁を示す話として、よく知られている物に「相槌稲荷」(あいづちいなり)の故事があります。それは、一条天皇の守り刀を打っていた三条小鍛冶宗近が、満足のいく物ができず頭を悩ませていたところ、三条小鍛冶宗近の氏神「伏見稲荷大社」の使者である狐の化身である男が出現し、相槌を務めて完成させることができたという物。このときに完成した刀は「小狐丸」(こぎつねまる)と命名され、「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」という銘が切られ、無事に献上されました。謡曲「小鍛冶」は、この故事をもとにした物です。

川中島の戦いと三条小鍛冶宗近と狐

三条小鍛冶宗近と狐との縁は、これだけに留まりません。戦国最強の両雄とも言われる武田信玄と上杉謙信が、足掛け12年に亘って衝突を繰り返した「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)でのこと。この戦いで、武田信玄側の武将「小笠原若狭守長詮」(おがさわらわかさのかみながのり)が携えていたのが宗近作の太刀「狐丸」(きつねまる)だとされ、小笠原長詮の危機に際し、家臣「桑山茂見」(くわやましげみ)が主君の甲冑(鎧兜)を身に付けて狐丸を振りかざして敵陣に攻め入り、身代わりに討ち死にしたと伝わります。

このとき、狐丸も所在不明となってしまいますが、戦(いくさ)のあと、不思議なことが起こりました。亡骸や武具などを埋めた数多の塚の中で、ひとつにだけ狐が集まり、騒がしくしているという噂が流布。家臣が身代わりを務めたことで生き延びた小笠原長詮が、その塚を掘らせたところ、亡骸の間から狐丸が見付かったのです。以来、この塚は「狐丸塚」と呼ばれるようになったと言われています。

明治天皇の常用刀「堀川国広」

波乱万丈の人生を歩んだ刀工

明治天皇の常用刀であったとして知られているのが「堀川国広」(ほりかわくにひろ)です。

「国広」は1531年(享禄4年)に、現在の宮崎県東諸県郡(ひがしもろかたぐん)綾町古屋で刀工「国昌」(くにまさ)の子として出生。

この土地は、現在「日本で最も美しい村連合」に加盟していることからも分かるように、自然豊かな町として知られています。緑に囲まれた山間でのどかに暮らしていた国広ですが、8歳のときに国昌が他界したことをきっかけとして、波乱万丈の人生を送ることとなりました。

国広

国広

刀工「堀川国広」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

武士、修験者の顔を持つ刀工

父を亡くした国広は、幼いうちから毎日拾い集めた薪をお金に換えて、年老いた母親と共に貧困生活を送っていました。そんな日々の中で、国広は父と同じく「日本刀を鍛えてみたい」という思いから、時間の合間を縫って父の形見が残っていた鍛冶場で、夢中で「鞴」(ふいご:金属加工で使用する送風機)を使っていたのです。そんな国広の姿を見ていた母親は、何とかして息子を人並みの刀工に育てたいと思い、陰日向に国広を支えたと言われています。

その後、国広は「飫肥」(おび:現在の宮崎県日南市)藩主である伊東家に家臣として仕えながら修業。しかし、島津氏の侵攻により伊東家が没落してしまったことで、流浪の生活を余儀なくされました。この間国広は、山に籠って修験者となったり、諸国を放浪しながら日本刀を打ったりするなど、様々な経験をしていたのです。

1590年(天正18年)には、日本で最も古い学校として有名な下野(しもつけ:現在の栃木県)の「足利学校」(あしかががっこう)で鍛刀し、当主「長尾顕長」(ながおあきなが)のために、長船派の刀工「長義」(ちょうぎ)の刀「山姥切」(やまんばきり)の写しである「山姥切国広」を作刀。のちにこの刀は、国広の代表作となりました。その後、国広は武士として長尾氏の軍に従軍。「小田原征伐」(おだわらせいばつ)の際には、「小田原城」に籠城して鍛刀していたとも言われています。

堀川派が切り開いた新刀時代

放浪生活を経て、京都一条堀川(現在の京都市上京区堀川付近)に定住することを決めた国広は、堀川国広を名乗るようになりました。作刀を始めてからおよそ40年間、相州伝と山城伝を学び続け、独自の鍛錬法を編み出した国広の作品は、鋭い切れ味と豪壮な姿で知られています。

国広の作品で最も特徴的なのが彫物。他に類を見ない装飾彫りの種類と、むらがなくのびやかな彫物はまさに名人技で、当時、多くの知識人たちを感動させ垂涎の的となっていたのです。この技術は国広の弟子たちにも継承され、堀川派の価値を大いに高めました。

こうして新刀の祖となった国広は、古刀の「相州正宗」、新々刀の「水心子正秀」(すいしんしまさひで)と並んで「中興の三傑」と呼ばれ、「熊本城」(くまもとじょう)を築いた「加藤清正」(かとうきよまさ)や、新撰組副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)などの名だたる武士から愛される刀匠に。

流浪の身となりつつも、刀工としての修業を怠らず日々精進し続けた結果、国広は、新刀期において「井上真改」(いのうえしんかい)など数々の名工を輩出する一大流派を築き上げたのです。多くの弟子たちに囲まれながら、1614年(慶長19年)に84歳で波瀾万丈な生涯に幕を下ろしました。

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大阪の名工・井上真改の「菊紋」

菊紋を切ることを許された新刀界のエース

明治天皇の常用刀として伝わっているのが、井上真改の切った菊紋入りの日本刀です。井上真改は、1600年(慶長5年)から始まった新刀時代を代表する刀工。同時代に活動していた「津田助広」(つだすけひろ)と並んで大坂新刀の最上作と評される名工です。

戦後を代表する歴史小説家「池波正太郎」(いけなみしょうたろう)の代表作「鬼平犯科帳」(おにへいはんかちょう)の主人公「長谷川平蔵」(はせがわへいぞう)の愛刀としても知られています。

井上真改は、1630年(寛永7年)に日向国(現在の宮崎県)で刀工「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)の次男として生まれ、少年期に京都で活動していた父のもとで修業を始めました。20歳になると「国貞」の代作を打つようになり、国貞が亡くなると2代目和泉守国貞として作刀を開始。井上真改の初期銘は父と同銘だったことから、区別するため、この頃の作品は「真改国貞」と呼ばれるようになったのでした。

1661年(万治4年)に朝廷に献上した刀が高く評価され、井上真改は天皇家の紋章「十六葉菊花紋」を刀身に切ることを許可されます。これがきっかけとなって、井上真改は名工であると評価されるようになりました。

その後、井上真改は親交のあった陽明学者「熊沢蕃山」(くまざわばんざん)からの、「和泉守という名は国守を意味する物であって、刀鍛冶が名乗るのは分不相応だ」という助言を受け、本名の井上に加え「真にこれを改める」の意味を込めて「真改」と改銘。井上真改の銘を切るようになります。1682年(天和2年)、53歳で亡くなった井上真改は、現在の東大阪市にある「重願寺」に埋葬されました。

井上真改の「菊紋」

井上真改の「菊紋」

井上真改の原点・初代和泉守国貞

真改の原点は、父である初代和泉守国貞にありました。初代国貞は、1590年(天正18年)に現在の宮崎県宮崎市にある「西教寺」(さいきょうじ)で生まれました。本名は井上良慶。住職の息子として寺を継ぐ身でしたが、辞退して京都へ移住し、同郷の名工堀川国広を祖とする堀川派の門を叩きました。堀川国広の没後は、堀川派の「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)に師事したと言われています。

その後、同門の「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に大坂へ渡り、大坂新刀の黎明期を支えました。大坂移住後の1623年(元和9年)に34歳で「和泉守」を受領して和泉守国貞となり、1652年(慶安5年)に63歳でこの世を去るまで鍛刀を続けたのです。

初代国貞は晩年、生誕地である西教寺で出家し、道和法師となったため「道和国貞」と称されることもあります。初代国貞の作品は身幅が広く、反りが浅い鋒/切先(きっさき)にかけてやや細くなる気品を感じられる形状の物が多いのが特徴。

また、時代的に町人からの注文が多かったことから、小刀である脇差(わきざし)も多数制作。初代国貞が築いた大坂新刀の基礎が子・井上真改に受け継がれ、大坂新刀は大きな発展を遂げ、名刀を生み出していったのでした。

刀工「井上真改」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

国宝・綾小路定利の太刀

三条派の流れをくむ綾小路定利

国宝「綾小路定利」(あやのこうじさだとし)の太刀は明治天皇の愛刀で、現在は「東京国立博物館」が所蔵。刃長78.7cm、反り3.03cmで、「定利」(さだとし)の銘が切られています。

5代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)が日光参詣の折、武蔵国岩槻(現在の埼玉県)の岩槻城主「阿部正春」(あべまさはる)に与え、1895年(明治28年)に「阿部正桓」(あべまさたけ)から明治天皇に献上されました。

国宝・綾小路定利の太刀

国宝・綾小路定利の太刀

綾小路の由来と定利が生きた時代

日本刀においては、安土桃山時代くらいまでに作られた物を「古刀」(ことう)と呼びますが、古刀期に著名な刀工を輩出した地域としては五箇伝と呼ばれる大和、山城、備前、相州、美濃が知られており、定利は山城で活動していた刀工です。鎌倉中期の文永年間(1264~1275年)に活躍したと言われており、京の綾小路に住んでいたことから「綾小路」の名が付いたとされています。

山城伝では、平安後期に活動していた三条小鍛冶宗近の三条派、鎌倉中期の吉光の粟田口派、そして鎌倉後期の「来国俊」(らいくにとし)の「来派」(らいは)などがよく知られていますが、作品の特徴などから、綾小路定利は三条派の流れをくむ者であろうと考えられています。

綾小路定利の作風の特徴

綾小路定利については、来国俊の父「来国行」(らいくにゆき)とは隣人同士で、忙しい折には日本刀を融通し合い、自分の銘を切って出荷していたとの逸話が残されています。綾小路定利の作品は「国行」などの、いわゆる鎌倉中期の刀工の作と比べると、一段と古風で優美な味わいを持っており、鎌倉初期に活動していたと考えられていることが、その理由です。

明治天皇のコレクションのひとつであった、綾小路定利作の国宝「太刀」はまさにそうで庵棟(いおりむね)や鋒/切先も小さめの小鋒(こぎっさき)。加えて腰反り(こしぞり)が高く踏ん張りのある太刀姿には、鎌倉初期の特徴がよく現れています。

また、他の綾小路定利の作品に比べ、地肌(じはだ:地の模様)は木の板の模様に似ている小板目が冴え、小丁子刃(こちょうじば)と呼ばれる沈丁花(じんちょうげ)のつぼみが重なり合った形のような刃文が小さく整っているのが魅力です。

明治天皇の刀剣コレクション

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