南北朝時代
湊川の戦い
南北朝時代
湊川の戦い

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1336年(建武3年)、摂津国湊川(せっつのくにみなとがわ:現在の兵庫県神戸市)で「足利尊氏」(あしかがたかうじ)率いる尊氏軍と「新田義貞」(にったよしさだ)、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を中心とする朝廷軍(官軍)が対峙しました。約50万人の尊氏軍に対して朝廷軍は約5万人。約10倍という圧倒的な兵力で朝廷軍を破った尊氏は征夷大将軍となり、京に室町幕府を開府。しかし、朝廷が南北の2つに割れてしまったため、時代が落ち着くにはしばらく時間が必要でした。

湊川の戦い前夜

足利尊氏・新田義貞

足利尊氏・新田義貞

1333年(元弘3年/正慶2年)、流刑先の隠岐島(おきのしま)を脱出した「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は、足利尊氏新田義貞らを味方に付けて鎌倉幕府を倒しました。翌年、元号を「建武」(けんむ)に改め、天皇を中心とした新しい政治が始まります(建武の新政)。

しかし、この新政は、後醍醐天皇の独断専行によるもので、朝令暮改(ちょうれいぼかい)は日常茶飯事。また、公家に比べて武家が冷遇される傾向にあり、鎌倉幕府打倒の実働部隊でもあった武家の間の不満は日に日に大きくなっていったのです。

そんな状況で、武家のリーダーとして武士の人気を集めたのが尊氏でした。尊氏は北条氏の残党の反乱「中先代の乱」(なかせんだいのらん)を平定するために京から鎌倉に向かい、弟である「足利直義」(あしかがただよし)とともに、「相模川の戦い」(さがみがわのたたかい)で残党を一掃。鎌倉を奪回すると、そのまま鎌倉に残留。度重なる上洛命令を無視して独自に褒賞を与え始めたのです。新政権との対立色を濃くしていった尊氏は「箱根・竹の下の戦い」で義貞を中心とした天皇方を破り、京へと進軍していきました。

1336年(建武3年)の正月、尊氏軍はついに入京。しかし「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)・正成・義貞の連合軍に敗れ、京から退却しました。さらに「摂津・豊島河原の戦い」(せっつ・てしまがわらのたたかい)でも天皇方の義貞軍に敗退。一旦、九州に下ったのでした。

そんな尊氏の転機は「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)で天皇方の「菊池武敏」(きくちたけとし)軍を破ったこと。これにより息を吹き返した尊氏軍は、京に上る途中で「光厳上皇」(こうごんじょうこう)の院宣を得ます。これにより、尊氏の下には西国武士がさらに集結。その数は約50万人にも上ったのです。

尊氏軍の圧勝

「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)における、尊氏軍と朝廷軍の戦力差は明白でした。兵士の数は、尊氏軍が約50万人に対して朝廷軍は約5万人、加えて水軍も編成していた尊氏軍に対して朝廷軍は陸軍のみ。尊氏軍は朝廷軍を質量ともに圧倒していました。

海上を尊氏本隊、陸上を尊氏の弟・足利直義隊が進むという進路を採った尊氏軍は、このような状況でも、丁寧に戦いを展開していきます。すなわち、直義率いる陸上部隊は西国街道を進行。尊氏率いる海上部隊は、細川水軍が東側から上陸するように見せかけることで和田岬に布陣した義貞軍を引き付け、その隙(すき)を突いて尊氏本隊が、ほぼ無人となっていた和田岬から上陸したのです。

この奇襲作戦の成功で、朝廷軍は、主力部隊の正成軍と義貞軍が分断される結果に。退路を断たれることを恐れた義貞が東へ向かったことで、正成軍は孤立し、最後は正成らが自害。尊氏軍と朝廷軍との決戦は、尊氏軍の圧勝に終わりました。

最後まで忠義を尽くした「悪党」

楠木正成

楠木正成

湊川の戦いにおけるもう一方の主役が楠木正成です。朝廷軍として戦った正成は「悪党」として知られていますが、当時の悪党は現在とは意味合いが異なり、鎌倉幕府の影響力が比較的弱かった近畿地方を中心に、荘園領主らに反抗した武士の集団を指します。

尊氏軍との戦いで、劣勢となってもなお後醍醐天皇への忠義を尽くした正成の最期は、わずか約700の手勢を引き連れて、足利直義の大軍に突撃を繰り返した末に、自害して果てるという壮絶なものでした。

破天荒な天才軍師

正成の名を一躍有名にしたのは、鎌倉幕府軍との一連の戦いでした。河内・赤坂城で幕府軍と対峙した正成軍の兵力は約500人。数十万人とも言われた幕府軍とは大きな差があり、常識で考えれば、かなうはずがありません。

苦肉の策として、籠城戦に持ち込んだものの、幕府軍の兵糧攻めによって窮地に陥った正成は、赤坂城から撤退・脱出を決意します。しかし、城の周りは幕府軍が取り囲んでいました。そこで、正成は城に放火。幕府軍の注意が燃え盛る城に向けられている隙に、難なく城を脱出したのです。このときの幕府軍の認識は、正成が放火の上で自刃したというもの。幕府軍をまんまと出し抜くことに成功しました。

その後、赤坂城を奪回した正成は、天王寺を占拠して京に迫ります。これに対し「六波羅探題」(ろくはらたんだい)からの命を受けた「宇都宮公綱」(うつのみやきんつな)が天王寺へ。兵力は正成軍の約2,000人に対して公綱軍は約500人と有利な状況。ここで正成は驚きの作戦に出ました。なんと、一旦、天王寺から退却したのです。これによって、公綱軍は難なく天王寺の奪回に成功。しかし、これこそが策士・正成のワナでした。

夜になると、正成は周辺地域の数千に及ぶ民衆を味方に付け、天王寺を囲む山で数万もの松明に火を点けさせ、大軍が公綱軍を取り囲んだように「演出」。これを3日3晩続けたことで、精神的に疲弊し切った公綱軍が天王寺から退散し、正成はやすやすと天王寺を取り戻しました。

そして、正成と幕府軍の戦いは、いよいよ最終局面を迎えます。幕府は正成討伐に10万人を超える兵を送り込みました。対する正成軍は約1,000人。千早城での籠城戦を選択した正成は、ここでも幕府を翻弄(ほんろう)したのです。大軍を引き付けての投石や落石などでダメージを負わせたかと思えば、兵糧攻めに出た幕府軍に対しては、自軍の食料調達ルートを確保した上で、周辺住民との連携プレーで幕府軍への食料調達ルートを封鎖。このように知略をめぐらすことで、幕府軍を退却へと追い込んだのでした。

この退却が引き金となり、各地で幕府に反旗を翻す者が続出。幕府内の内乱なども重なり、鎌倉幕府が倒れ、新しい時代の幕が開きました。

天皇・公家による仕打ち

天才的な軍師・正成をもってしても、最終的に尊氏軍を打ち破ることはできませんでした。その裏には、後醍醐天皇やその取り巻きの公家による正成を軽視する姿勢がありました。

入京後の一連の戦いで敗れた尊氏は一旦、九州に下ることに。しかし、このときの正成の前には驚きの光景が広がりました。なんと、勝った朝廷軍からの離脱者が敗れた尊氏軍に合流し、行動をともにする者が続出していたのです。

この光景に危機感を覚えた正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しましたが、あっさりと却下。それどころか、朝廷からの不審を買う結果になってしまいました。

九州で体勢を立て直した尊氏軍の攻勢を受けた義貞軍が退却を余儀なくされると、正成に尊氏軍追討の勅命が下ります。この時点では兵力(数)・勢いともに尊氏軍が圧倒的に有利な状況。まともに戦っては勝ち目がありません。そこで正成は後醍醐天皇に対して天皇が一旦、比叡山(ひえいざん)に避難し、その間に正成軍と義貞軍が挟み撃ちして尊氏軍を兵糧攻めにするという作戦を提案。しかし、この提案も公家衆などの反発にあって却下されました。

正成は、残された道が正面突破のみという絶望的な状況で、決戦へ向かうことになったのです。朝廷軍は、天皇・公家の「メンツ」によって正成という最大の切り札を使いこなすことができなかったと言えます。

桜井の別れ

尊氏軍撃破のための知略が受け入れられなかった正成は、死を覚悟して決戦の地・湊川へと向かいました。

その途中、摂津国桜井の駅(宿駅)にさしかかったところで、正成は息子の「楠木正行」(まさつら)に向かってこう告げます。「お前を河内に帰す」。嫌がる正行に対して、正成はこう諭したのです。「お前を帰すのは、自分が討ち死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党のひとりでも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」。

そして、後醍醐天皇から下賜された菊紋入りの短刀を形見として手渡し、今生の別れを告げたと言われています。

16度に亘る突撃

正成が予想していた通り、尊氏軍との戦いは厳しいものになりました。

特に、尊氏本隊の奇襲によって正成軍と義貞軍が分断されたあとは、正成軍の選択肢は尊氏軍の陸上部隊・直義隊への突撃以外に残されていませんでした。その時点の兵力は、直義隊の約1万人に対して正成軍は約700人。数の上での圧倒的不利は否めません。

しかし、正成軍は勇敢でした。正成は、弟である「楠木正季」(くすのきまさすえ)らとともに直義隊に突撃。大将・直義の近くまで迫ったのです。これにより、直義隊は須磨(すま)まで退却。あまりの光景に、総大将・尊氏からは直義が討たれることを阻止するために、軍を増強する旨の指示がなされたと言われています。

その後も正成軍の突撃は続きましたが、多勢に無勢は明らか。6時間に亘り、計16度の突撃を繰り返した正成軍の数は73騎にまで減っていました。大軍を相手に特攻し、心身ともに疲れ果てていた正成軍の兵士は、湊川の東にある集落の民家へ。そこで正成は正季と刺し違える形で自害。最後まで天皇への忠誠を尽くして、この世を去ったのでした。

室町幕府の開府と南北朝動乱

湊川の戦いで圧勝した尊氏は京に入り、光厳上皇の意向を受け、上皇の弟「豊仁親王」(ゆたひとしんのう)を「光明天皇」(こうみょうてんのう)として即位させました。これが約60年に亘る新たな動乱の時代の始まりでした。

その後、1338年(延元3年/暦応元年)に尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府が正式に成立してもなお、収束する気配はありませんでした。

後醍醐天皇による「抵抗」

京を制圧した尊氏をはじめとする足利方は、比叡山に籠もっていた後醍醐天皇の顔を立てる形で、和議を申込みました。これに応じた天皇は、皇位承継の証である「三種の神器」を豊仁親王に渡したのです。これにより光明天皇が皇位を承継しました。

そして1336年(建武3年)には、室町幕府の施政方針を示した17条の式目(しきもく:箇条書形式の制定法)である「建武式目」(けんむしきもく)の制定によって、新たな武家政権の成立を宣言。この時点で室町幕府が実質的に成立したと言われています。その後、尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府の初代将軍となったことで、新たな時代の幕が開いたはずでした。

しかし、コトはそんなに簡単には進みません。1336年(建武3年)末、幽閉されていた京の「花山院」(かざんいん)から吉野山中に逃れた後醍醐天皇は、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが吉野に持ってきた物こそが本物だと称し、本物を所持している自分がいまだ天皇の座にあるとして正統性を主張します。そして、京の朝廷(北朝)に対抗する形で、独自の朝廷(南朝)を樹立することを宣言したのです。

さらには新田義貞や北畠顕家らに尊氏征伐を命令。畿内において、幕府軍との間で戦が繰り返され、地方も騒乱状態に。朝廷が真っ二つに割れ、天皇も2人存在するという前代未聞の混乱状態に突入していきました。

動乱の終焉

足利義満

足利義満

約60年に亘る動乱に終止符を打ったのは、室町幕府3代将軍の「足利義満」(あしかがよしみつ)でした。義満は「明和の乱」により有力守護大名の山名氏の弱体化に成功。実質的に武家勢力を統率すると「大内義弘」(おおうちよしひろ)の仲介で南朝との話し合いに着手します。

和議成立を受け、1392年(明徳3年/元中9年)、南朝の「後亀山天皇」(ごかめやまてんのう)が吉野から帰京し、北朝の「後小松天皇」(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲ることで退位。1336年(建武3年)以来の朝廷の分裂状態が解消したのです。

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