「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代に活躍した武将。桓武天皇より征夷大将軍に任命され、大和朝廷が異民族と見なしていた東北地方に住む「蝦夷」(えぞ)を平定した人物です。「毘沙門の化身」と恐れられた田村麻呂の人物像と、彼にまつわる名刀についてご紹介します。
坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は、758年(天平宝字2年)生まれ。馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする百済から来た一族を祖先に持ち、祖父の時代から大和朝廷に仕えた貴族です。
身長は175cm。当時としてはとても高く、胸の厚さも40cmという立派な体格。赤ら顔で目は鷹のように鋭く、黄金色の顎鬚を生やしていたという、目立つルックス。武術に優れ、とにかく強い様は、毘沙門の化身と恐れられました。
さらに伝説として、伊勢の鈴鹿山にいた鬼の美女「悪玉」と結婚し、その妖力も手に入れたとか。「怒って目をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬ程だが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と、ただ怖いだけでなく、慕われてもいたようです。
田村麻呂は30歳で近衛少将となり、36歳で副将軍として「蝦夷征討」という重要職を就任。当時、東北地方に住む人々は「異種な文化を持つ異民族」と大和朝廷に見なされ、「蝦夷」(えぞ)と呼ばれていました。
坂上田村麻呂は、その恐ろしい蝦夷をも倒す「スーパーヒーロー」として、大変注目されたのです。
桓武天皇の時代になると、朝廷は蝦夷を服従させようと、武力行使をするように。
789年(延暦8年)、まず征夷大使となった「紀古佐美」(きのこさみ)が向かいますが、蝦夷が抵抗して失敗。次に794年(延暦13年)には、「大伴弟麻呂」(おおとものおとまろ)が征夷大将軍となり、田村麻呂も副将軍として向かいますが、これも失敗。しかし、797年(延暦16年)に田村麻呂が征夷大将軍に任じられると、801年(延暦20年)、ついに蝦夷征討に成功するのです。
このとき、実は武力で制したのではなく、田村麻呂は蝦夷のリーダーの阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)に対して交渉を行ないました。それは、「蝦夷500余人を説得して降服せよ、そうすれば2人の命を助ける」というもの。蝦夷は降服し、田村麻呂は2人を京に連行し、助命を懇願しますが、京の貴族達は反対し、2人を処刑してしまいます。
しかし、「誠意を持って対応してくれた」と田村麻呂は蝦夷からの信頼を得ることに。田村麻呂は胆沢(いさわ)城、志波(しわ)城を築城。念願の蝦夷を平定したのです。
田村麻呂は、「私が死んだときは、体に鎧(よろい)と甲(かぶと)を付け、手には太刀を握らせ、立ったまま埋葬してほしい。そして、御所の見えるところに埋めてほしい。いつでも御所を守っていたいから…。」と遺言したと伝えられています。
田村麻呂がどこで眠っているかは、ずっと不明のままでした。しかし、1919年(大正8年)、京都地元住民が、上部と周囲が木炭で覆われた「木棺墓」を発見。京都大学の発掘調査により、文鏡や金装大刀など副葬品が発見されます。そして、2007年(平成19年)、京都大学大学院文学研究科の吉川真司教授が、太政官符表題の記述と、当時の地図(条里図)をもとにした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学蔵)とを照合することで、京都の西野山古墳(現在の京都市山科区)が坂上田村麻呂の墓であることを裏付けました。
享年54歳。死後、嵯峨天皇により従二位が贈られています。京都がずっと平和なのは、遺言の通り、田村麻呂がずっと御所を見守ってくれているからに違いありません。
1919年(大正8年)に発見。優雅な金細工の装飾が施されていることから、朝廷から厚く信頼されていた田村麻呂の持ち物としてふさわしいと特定されました。
金装太刀
銘 | ランク | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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不明 | 国宝 | 2尺2寸5分(68.2cm) | 京都大学 総合博物館 |
所蔵刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕