平安時代
平将門の乱
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平将門の乱

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「平将門」(たいらのまさかど)は、武士ながら、桓武天皇(かんむてんのう)の血筋を引く高貴な人物。939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱」では、自らを「新皇」(しんのう)と称して天皇になることを宣言します。これは、古代以来の支配体制を揺るがす、画期的な大事件。貴族の時代を終わらせ、武士の時代を作ろうとしたのです。

平将門はどんな人物?

平将門

平将門

平将門は、平安時代中期の903年(延喜3年)生まれ。桓武天皇の血筋を引く5世です。桓武天皇のひ孫にあたる「高望王」(たかもちおう)が「平」姓を賜って臣籍に入り、「上総国」(かずさのくに:現在の千葉県中部)の国司を務めました。

この高望王の子供は全部で5人。「良文」(よしふみ)・「良正」(よしまさ)・「良将」(よしまさ)・「良兼」(よしかね)・「国香」(くにか)です。良将が将門の父で、「下総国佐倉」(しもうさのくにさくら:現在の千葉県北部)を所領していました。

そんな良将を父に持つ将門は、15歳で京に上ります。藤原北家・「忠平」(ただひら)の従者となり、京内外の犯罪を取り締まる「検非違使」(けびいし)を志願しますが叶わず、官位も低く、天皇の護衛をする「滝口の武士」に留まっていました。

決して実力不足と言う訳ではなく、この時代には「律令制」(りつりょうせい)が崩れ始め、天皇をとりまく貴族の中でも、朝廷の要職は藤原氏が独占。地方の政治は国司が横暴してやりたい放題。要職に就けない貴族は武士になるしかないという背景があったのです。

そんな中、父・良将が早世。将門は、不遇にも夢を諦め、家(関東)に帰るハメになりました。

激しい親族間争い

将門が家に戻ると、父の所領(下総国佐倉)が、叔父・良正(下野介:しもつけのすけ)、良兼(上総介:かずさのすけ)、国香(陸奥大掾:みちのくのだいじょう)に横領されていることが発覚。

また、将門が妻に望んだ「源衛」(みなもとのまもる)の3人の娘の3人ともが、叔父・良正、良兼、国香に嫁いでしまい、将門はかなり憤慨。さらに、将門が妻とした女性に、源衛の3人の息子が横恋慕したとも言われています。

そして、935年(承平5年)、将門は源衛の3人の息子と、叔父の国香を殺害してしまうのです。これに怒ったのが、源衛、良正、良兼。もはや将門を許せません。

まずは、源衛が良正に泣きつき将門打倒を企てますが、将門に大敗。次に良正は、良兼と国香の子「貞盛」(さだもり)と連合軍を作って将門を攻撃しますが、総崩れ。打つ手がなくなった源衛は、朝廷に将門の非を訴えることに。これにより将門は、検非違使で尋問を受け、捕らえられてしまいます。しかし、937年(承平7年)4月、朱雀天皇(すざくてんのう)が元服する際に「恩赦」(おんしゃ:犯罪者の罪を全免する制度)が行なわれ、自由の身となるのです。

まだ許せない良兼は、8月に軍を起こし、また将門を攻撃。しかし、将門はかつての主人の藤原忠平に良兼、貞盛の暴状を訴え、これが功を奏して12月に朝廷から良兼、貞盛追捕の官符が発せられるのです。これにより、良兼軍の勢力は衰え、さらに、939年(天慶2年)6月、良兼は病死してしまいます。一方、貞盛は、将門が捜索しても行方が分からないままでした。将門の連戦連勝ぶりは関東で大きく広まり、名声を高めました。

「将門記」(しょうもんき)
「将門記」(しょうもんき)は、日本で最初の軍記物語。原本はなく、写本が2冊現存。平将門は939年に、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)よりの神託を受けて新皇を自称したと記載されています。

なぜ平将門の乱が起きたのか?

平将門の乱が起きたのは、939年(天慶2年)11月。「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)が、税金の不払い問題等で常陸国司(ひたちこくし)と対立し、将門に助けを求めます。常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求しますが、将門は応じず、それが高じて合戦になったのです。

将門は1,000の兵で、常陸国府軍3,000の兵に大勝。そして、常陸国府を焼き払い「印綬」(いんじゅ)という朝廷が国司に与えた証明書を略奪します。これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味しました。これにより、将門は完全に「朝敵」(朝廷の敵)となったのです。

朝廷は、これに驚きます。それまで、将門がらみの戦いを「領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと認識していましたが、違うということにようやく気が付きました。

実は将門は、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、かなり憤慨していました。

将門が助けた藤原玄明は、強い意志を持って税金を払わず、朝廷が管理する蔵を襲って、米を民衆に分け与えていた人物。つまり、将門が闘っていたのは単なる叔父ではなく、叔父の職務「国司」に対して、それ以上に「朝廷」に対してだったのです。

将門はさらに勢いを増し、国司から次々と印綬を奪って追放。上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東8か国を占領し、朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付け、自ら新皇と名乗ります。

平将門の討死

平将門の討死

将門の謀反は、即刻京に知らされ、朝廷は大激怒。将門討伐を決意します。まずは将門を呪い殺すための祈禱(きとう)をしますが、全く効果はなし。追い詰められた朝廷は、その存亡をかけて「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」と、全国に通達を出すのです。これを知った、以前から将門に恨みを持つ平貞盛と、貴族に強い憧れがあった「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと:別名・俵藤太[たわらのとうた])は、連合して出陣。この戦いで、額に矢が命中し、将門は討死。将門の野望は未完に終わりました。

同時期に瀬戸内で、藤原姓でありながら、出世の道を絶たれた藤原純友(ふじわらのすみとも)が海賊を率いて「藤原純友の乱」を起こし、鎮圧されました。朝廷を震撼させたこの2つの乱を、合わせて「承平・天慶の乱」と呼ぶのです。

日本三大怨霊のひとりに

無念の死となった将門は、崇徳天皇(すとくてんのう)、菅原道真(すがわらのみちざね)と並んで「日本三大怨霊」(にほんさんだいおんりょう)と呼ばれています。

将門の死後、その首は平安京の七条河原に運ばれ、さらし首の刑に。何か月経っても、生きているかのように目を見開いて腐らず、夜な夜な「斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けていたそうです。

それを歌人の「藤六左近」(とうろくさこん)が見て歌を詠むと、将門の首はケタケタと笑い出し、関東目掛けて高く飛んでいったとのこと。途中で力尽きて落ち、そこに将門の首塚(東京都千代田区大手町)が建てられたと言われています。

成田山建立の理由

「成田山新勝寺」(なりたさんしんしょうじ)が建てられた理由は、何と平将門の乱鎮圧のため。

東国の混乱を恐れた朱雀天皇が、真言宗の開祖「弘法大師・空海」(こうぼうたいし・くうかい)に願い、空海自らが彫刻して魂を入れた「不動明王像」(ふどうみょうおうぞう)をご本尊として開山しました。このため、将門の子孫・家来・ファンは決して、成田山にはお参りに行かないそうです。

平貞盛の子孫は平清盛

将門を討伐したのが、国香の子・貞盛でした。この貞盛の子孫が、178年後に現れる「平清盛」(たいらのきよもり)です。

平清盛は、1159年(平治元年)の「平治の乱」で勝利し、武家の棟梁(とうりょう)となります。同時に貴族の頂点の「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命され、朝廷の要職を独占していた藤原氏をしのぎ、政治の実権を握るのです。将門を倒した敵の子孫でありながら、偶然にも清盛は、将門が理想とした「武士が中心となって政治を行なう」世の中を実現するのです。

平将門の乱

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