西洋 剣・刀剣・甲冑(鎧兜)編
古代ヨーロッパの甲冑(鎧兜)
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古代ヨーロッパの甲冑(鎧兜)

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古代ヨーロッパのアテネは、周辺諸国から商人や技術者を受け入れ、そして、ローマは打ち負かした敵国の貴族や市民を受け入れることによって、国力を増した都市国家です。どちらも多種多様な価値観を持つ市民の集まりであるため、統治は一筋縄ではいかず、政治体制は王政・貴族政・民主政と次々に変遷。しかし、それゆえに国家のあり方に鋭く切り込む偉大な哲学者も誕生し、文化的に大きく発展したとも言えます。隣国からの侵攻に対抗するだけでなく、内紛も抑えなければならないこの時代、ローマの権力者が建設したのが、あのコロッセオでした。市民を娯楽に没頭させることで反乱を抑える狙いがあったのですが、古代ヨーロッパの人々が好戦的だったことが窺えます。使われていた武具も、より強い部隊を作るために改良されていきますが、武具の進化は、平民階級の発言力を大きくさせることにもなっていくのです。では、この時代の武具とは、どのような物だったのでしょうか。

古代ギリシャにおける重装歩兵の防具

地中海北部に位置するエーゲ海沿岸で起こった民族移動によって、青銅器文明をはじめとする西洋の数々の文明が発展しました。紀元前1450年頃になると、これまでの地中海交易の影響を受けてミケーネ文明が生まれ、古代ギリシャがひとつの国家として確立されていくようになります。古代ギリシャ人達は他民族との戦いを経て、ミケーネ文明から継承した武器や防具をさらに進化させ、強大な軍隊を作っていったのです。

古代ギリシャが誇る「ホプリテス」の装備とは?

重装備歩兵ホプリテス

重装備歩兵ホプリテス

古代ギリシャ軍は「ホプリテス」と呼ばれる重装歩兵を中心に形成され、非常に優れた装備で戦闘に臨んでいました。これは、ギリシャの都市国家アルゴリスでミケーネ文明が繁栄したことで高性能な武器や甲冑(鎧兜)が作られていったからだと考えられます。

その恩恵により、古代ギリシャ軍のホプリテスは、紀元前8世紀の時点ですでにひと通りの装備を所有していました。これらのホプリテスの甲冑(鎧兜)を総称して、ギリシャ語で「鎧」を意味する「パノプリア」と呼んでいたのです。

ギリシャのセンスが感じられる甲冑(鎧兜)

筋肉を模した銅鎧

筋肉を模した銅鎧

初期のホプリテスの甲冑(鎧兜)は、主に青銅製で胴鎧、兜、盾、臑当の4つで構成されています。まず、防御の要となる胴鎧は、芸術的な作りの物が多く、前面の胸当て部分に男性兵士達の胸部から腹部にかけての筋肉を象った物や、筋肉を模様化して装飾を施し、股間部分に蝶番で保護板を取り付けた物もありました。

兜は、古代ギリシャでは最も一般的に使用されていた「コリント式」の物を装着しており、顔面を含む頭部をくまなく保護する仮面のような物で、非常に重いのが難点。このコリント式兜は、アテナイ(現在のアテネ)の軍司令官・ミルティアディスが紀元前5~6世紀に使用していたと思われる物がギリシャのオリンピア考古学博物館に所蔵されています。

そして、大型の円形盾は「アスピス」という物で、木で作られていましたが、外側は青銅で覆われており、内側には革が張られている物が主流でした。外側は金属で装飾が施された物もあり、なんと、ギリシャ神話に登場する女怪物・ゴルゴンが描かれているアスピスもあったとか。また、金属製の臑当はホプリテスにとって重要な防具で、大型盾アスピスでも護りきれない、足の甲から膝までを保護していました。

進化するパノプリア

コリント式兜

コリント式兜

ギリシャ軍のホプリテスは、当時の他民族に比べて完成された装備品を持っていましたが、彼らの防具は紀元前6世紀までにさらなる進化を遂げ、新しい甲冑(鎧兜)が加わることとなります。

重さが課題だったコリント式兜は、デザインを変更せずに軽量化に成功し、上腕部を護るカバーや、さらに、臑当には装飾が施され、腿当てや「サバトン」と呼ばれる青銅製の足用防具も開発されました。防具が重装備になった分、これらの装備を加えたホプリテスの甲冑(鎧兜)は、総重量が30~35kgにも及んでいたと言います。

こうして古代ギリシャ軍は戦いから得た知恵を装備にすぐさま反映し、あらゆる攻撃から兵士を護るための防具を制作して、どこよりも強い兵士を作り上げていったのです。

古代ローマ軍の兜「カッシウス」

古代ローマは、何世紀にも亘って数々の戦いを繰り広げ、勝利をつかみとり、西洋を支配する国家へと成長していきました。そんな侵略の歴史の中で、ローマ軍は数多くの民族達と戦い、様々な武器と対峙してきましたが、その経験の中で「戦いを勝利へ導くために最良な物を作り出す技術」を磨いていったのです。

様々な文化の影響を受け変化してきた兜

カッシウス

カッシウス

イタリアでは、古代ローマが建国した紀元前8世紀頃の出土品の中に、頭のてっぺんに兜飾りを付けた高さのある青銅製の兜がいくつか発掘されており、このことからローマでは古くから兜を防具として取り入れていたと考えられています。ローマの兜は、どの時代も高さのある物ばかりで、これらの兜を総称して「カッシウス」と呼んでいました。

カッシウスは、作られた時代によって形状や装飾が異なり、初期のローマ軍は古代ギリシャの「コリュス」と呼ばれる兜を原型にした物が主流。このコリュス風カッシウスは、ヘルメットから鼻当てと頬当てが伸びているような形状で、顔面を含む頭部をしっかりガードするタイプの兜でした。そのため、重い、音が聞こえないなどの問題を抱えており、改良が必要とされていたこのカッシウスは、徐々にヘルメットに可動式の頬当てを取り付けるような形状へと変化していくのです。

また、カッシウスは頭のてっぺんに大きな房飾りが付けられている物が多く、一般の軍団兵は縦、軍団長には横といった房飾りの向きで階級が示されていたと考えられています。

ガリアを起源とした「カッシウス」

紀元前4世紀頃、北イタリアに位置するガリア地方にケルト系民族のガリア人が定着すると、頻繁にガリア人との争いが起こるようになり、ローマ軍の兜にまたもや変化が見られるようになっていきます。

ガリア人は「モンティフォルティノ」と呼ばれるお椀を逆さにしたような形状の兜を使用しており、これに影響を受けたローマ軍は、紀元前4世紀以降このモンティフォルティノ型に改良したカッシウスを採用しました。さらに、この型は紀元前1世紀までローマ軍において標準的な兜の形状となり、このことからカッシウスは「ガレア」という名称でも呼ばれるようになったのです。

カッシウスはその後も改良を重ね、日本兜で言う錣(しころ:首筋を覆う部分)や眉庇(まびさし:額を覆う庇部分)などが取り付けられ、より防御力の高い物になっていきました。

剣闘士の唯一の防具

剣闘士の面頬がついたカッシウス

剣闘士の面頬がついたカッシウス

巨大な闘技場として帝政ローマ時代に建設された「コロッセオ」は、世界遺産に登録された観光スポットとしてご存知の方も多いのではないでしょうか。このコロッセオでは、当時、剣闘士達による見世物としての大規模な闘技会が開催されていました。

ローマにおいて闘技会は、コロッセオが造られる前の共和政ローマの時代から続く伝統的なイベントで、剣闘士同士だけではなく、猛獣などを相手にした闘技会も開催されていたと言います。残酷なことに、闘技会では会場を沸かせるために派手な流血が求められていました。そのため出場する剣闘士達には、胴体を護る鎧などの防具が与えられず、体はほぼ裸の状態で闘っていたのです。

しかし、兜の着用は許されていたため、剣闘士の間でもカッシウスが用いられていました。剣闘士のカッシウスは、金属製の格子状の面頬(めんぽお:顔面と喉を覆う部分)が付いた物や、海水魚を象った特徴的な物が使われていたと言われています。

古代ローマ軍の兵士を護った盾

鎧がまだ発達していなかった古代ローマ軍にとって、盾はきわめて重要な防具でした。軍の歩兵達は、時代ごとに装備も戦闘方法も変化を重ねていきますが、紀元前8世紀の王政ローマ誕生時からローマ帝国を建国した帝政時代以降にいたるまで、基本的に盾は主要防具として使用されていたと言われています。

中でも、ローマ軍の象徴する剣「グラディウス」と同等に重要視されていた装備品として「スクトゥム」という盾があり、この盾は数々の戦闘で兵士達を護ってきました。

あらゆる場面で活躍してきた大きな盾「スクトゥム」

古代ローマ軍の重装歩兵の正式装備として採用されていた盾スクトゥムは、歴史家達の間でもその起源や初期の形状について、はっきりと解明されていません。なぞが多くありますが、紀元前509年に王政から共和政へと変わった頃から、歩兵を中心に広く使われるようになっていったと考えられます。

スクトゥムは、ラテン語で「盾」という意味の言葉で、他民族の盾に比べて形状はかなり大きな長方形で作られており、サイズは縦幅100~120cm、横幅60~80cmほどが一般的。薄い木の板を重ねて成形し、角には丸みを持たせてありました。また、盾の表面は革や金属製の部品(盾心)で補強されており、兵士が所属する部隊の文様を描いた布が重ねられている物もあります。

「スクトゥム」を使用した攻防戦

スクトゥム

スクトゥム

王政から共和政初期の時代にかけての古代ローマでは、古代ギリシャから受け継いだ重装歩兵による戦術を基本に戦っていました。中でも、兵士達が密集して陣形を組み、スクトゥムを構えて全体を護りながら前進して攻撃する「テストゥド」と呼ばれる歩兵戦術が一般的だとされていたのです。テストゥドは、ラテン語で「亀」を意味する言葉で、大きなスクトゥムを構えた軍団が、亀の甲羅に似ていることから、この名前が付けられました。

地域によっては、楕円形のスクトゥムも作られていたようですが、紀元前4世紀頃に山岳民族のサムニウム人との戦いが勃発してからは、密集陣形による戦術が見直され、体の前面をガードする大きな長方形のスクトゥムに変化していったと考えられています。

その後、帝政ローマ時代(紀元前27~1453年)に東西の分裂化が起こってから、5世紀末に北欧からやってきたゲルマン人に侵略され、西ローマ帝国が消滅してしまいました。これによって古代ローマ時代は終焉を迎え、中世の時代へと突入していきます。中世初期において、スクトゥムは東ローマ帝国の軍隊で継続的に兵士の防具として用いられていましたが、中世のローマで鎧が発達してくると、スクトゥムのような巨大な盾は必要性が無くなり、次第に戦場から姿を消していきました。

下級兵士たちの盾「パルマ」

古代ローマの軍団兵は、もともと個人の所有財産によって階級が決められており、装備品も兵士自身の負担で用意しなければなりませんでした。このことから、スクトゥムのような高価な盾を持てない兵士もいたため、そういった下級兵士からなる軽装歩兵は「パルマ」という安価な盾を使用していたのです。

パルマは、円形か楕円形の形状で、薄い木の板を張り合わせて作られている木製の盾で、古代ギリシャで用いられていた「ホプロン」という盾が起源となっていると考えられています。パルマは、紀元前1世紀頃まで使用されていましたが、共和政後期になると軍政改革によって「市民兵士制度」から「職業兵士制度」へと移行し、国から武器や防具などの装備品がすべて支給されるようになりました。

この大きな改革により、全兵士がスクトゥムを装備することとなり、防御力が劣るパルマは使用されなくなっていったのです。

古代ローマ軍に採用された剣闘士の防具

数々の映画賞を受賞したアメリカの歴史映画「グラディエーター」は、その名の通り、古代ローマの剣闘士の姿を描いた物語。この作品が大ヒットしたことによって、古代ローマの剣闘士は広く知られることになり、アメリカではこれをきっかけに古代ローマブームが巻き起こりました。そんな古代ローマの剣闘士が身に着けていた古代ローマ軍の防具についてご紹介します。

剣闘士の知恵が戦場の兵士へ

剣闘士の歴史は古く、紀元前4世紀の古代ローマ遺跡には試合を行なう剣闘士の姿がすでに描かれていました。紀元前1世紀になるとローマの各地に円形闘技場が建設され、帝政ローマ初期(3世紀頃まで)には盛大な闘技会が各地で開催されていたと言われています。

この大会に出場する剣闘士達は、当時のローマ兵士とは少し異なった装備で戦っており、特に剣闘士特有の装備として特徴的だったのが、腕や脚に着けられた防具でした。この防具はローマ兵士が、ある民族と遭遇したことによってローマ軍の正式な装備として採用されるようになり、古代ローマ軍にとって勝利を左右するキーアイテムとなっていくのです。

ダキア人との戦いで活躍した腕用防具「マニカ」

マニカとグレアウェを着用する兵士

マニカとグレアウェを着用する兵士

鎧が発展途上だった古代ローマ軍は、常に肩から手先までむき出しの状態で戦っていました。なぜなら、ローマ軍では巨大な盾スクトゥムを用いていたことから、特に腕部分を保護する必要性を感じていなかったのです。

しかし、強暴なトラキア系民族ダキア人との戦闘でローマ軍は窮地に。ダキア人が使用していた「ファルクス」という巨大な刀は、ローマ軍の防具の要であるスクトゥムでも護りきれないほど、腕や脚を斬り裂く威力を持っていたからです。

そこで、ローマ軍はファルクスの対策として、剣闘士が使用していた「マニカ」という腕用の防具を採用します。マニカは、二の腕から手首にかけてカバーされる物で、腕の形状に合わせて加工した金属板をつなぎ合わせて作られていました。このマニカを着用したことで、ファルクスによる強力な攻撃を防ぐことに成功し、ローマ軍は無事勝利をつかみ取ったのです。

「マニカ」とともに使用された脚用防具「グレアウェ」

ダキア戦争の対策として採用された防具がもうひとつあります。それは脚を護る「グレアウェ」という防具です。グレアウェも先述のマニカと同じく、もともと剣闘士が用いていた防具で、両脚の脛を護るために装着する物が一般的に使われていましたが、闘技会で敵に向けて伸ばすほうの脚だけに着ける金属の臑当を使用する剣闘士もいました。

このグレアウェもマニカと同様に、ダキア人が振りかざす大きなファルクスからの攻撃を防御し、脚を斬られて動けなくなる兵士が激減したことでローマ軍の被害を抑えることに成功したのです。

こうして、ダキア戦争に勝利したことで、マニカとグレアウェは剣闘士だけでなく、ローマ軍の正式な装備として使用されるようになっていきました。

古代ローマ軍から中世まで広く使われた「チェイン・メイル」

チェイン・メイルを着用する兵士

チェイン・メイルを着用する兵士

ローマ軍では、ラテン語で「胴鎧」を意味する「ロリカ」という鎧が、紀元前8世紀以降の古代ローマ誕生時から一般的に使用されていました。ロリカは、前面と背面の金属板2枚を紐でつなぎ合わせただけの簡単な鎧ですが、その重量はかなり重たい物で、兵士達はうまく使いこなすことができなかったと言います。

その後、ロリカは少しずつ衰退していき、後続の鎧として「プレート・アーマー」(板金鎧)や「チェイン・メイル」、金属片からなる「小札鎧」(こざねよろい)などが採用されるようになっていきました。ここでは、古代ローマ軍が長年愛用し、西洋だけでなく世界的に広く使われたチェイン・メイルを中心に、古代ローマの鎧について振り返っていきます。

西洋の一時代を築いた鎧

ロリカが廃れていったあとのローマでは、ロリカという言葉は鎧の総称として使われるようになり、紀元前2世紀頃の共和政ローマの時代には「ロリカ・ハマタ」というチェイン・メイルの鎧が登場しました。

「ハマタ」は、ラテン語で「鉤状」を意味する言葉だったため、輪をつなぎ合わせて作られるチェイン・メイルにこのような名称が付けられたのだと考えられています。直径6~8mmほどの輪は、青銅や鉄で作られており、全体的な形状はシャツ型やベスト型が主流でした。

また、のちに西洋だけでなく世界中の軍隊で採用されるチェイン・メイルですが、これらと比べて古代ローマ軍のロリカ・ハマタの特徴は、肩の部分の防御力を上げるために、肩掛けのような物で二重に補強されているところです。

このロリカ・ハマタの原型であるチェイン・メイルの起源は、一説によると北イタリアにいたケルト系民族のガリア人が考案したと言われています。これがローマに伝わりロリカ・ハマタとして普及したことをきっかけに、徐々に地中海世界の各地域で一般的な鎧として広まっていきました。

板金鎧「ロリカ・セグメンタータ」

共和政ローマでは、ほとんどの兵士が装備していたロリカ・ハマタですが、剣による斬撃は防げても、輪による空洞があるため、どうしても槍や弓などの刺突攻撃で貫通してしまうことがあり、防御力の面で改良が必要とされていたのです。そこで1世紀頃の帝政ローマ時代初期になると、金属板のパーツから形成される「ロリカ・セグメンタータ」という鎧が登場。ロリカ・ハマタに代わる主要防具として2世紀頃まで使われていたと言われています。

「ロリカ・ハマタ」の復活から世界へ

鉄製の金属板を革紐や金具固定して作られるロリカ・セグメンタータは、欠点もありました。非常に錆びやすい性質だったため、制作や修理にコストがかかるという問題です。そのため、この頃、一部の兵士の間でまだ使用されていたロリカ・ハマタが安価で丈夫な上に戦場でも扱いやすい鎧だと再評価される流れになり、帝政ローマ時代中期には再びローマ軍の鎧として用いられるようになっていきます。

その後、ローマだけでなく西洋でもロリカ・ハマタ=チェイン・メイルは主要防具として扱われるようになり、古代ローマが滅びたあとも、中世の西洋やアジアで広く浸透し、日本においても「鎖帷子」(くさりかたびら)という名称で用いられていました。

古代ヨーロッパの甲冑(鎧兜)

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