山城伝の名工

山城伝の流派

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「山城伝」(やましろでん)とは、平安時代後期以降に「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)で輩出された刀工やその一派による日本刀の制作法です。794年(延暦13年)の「平安京」遷都(せんと:都を他の地に移すこと)によって政治の中心地となった山城国では天皇や宮中に向けた日本刀の制作が行なわれ、数々の名工や名門一派が輩出されました。

三条派

「三条派」(さんじょうは)は、京都の三条で平安時代に活躍した刀工一派で、「山城国」(やましろのくに)の刀工一派の中で最も古い流派として有名です。この一門の日本刀を注文した得意先は藤原時代の公卿達で、三条派は彼らから、宮門を守る衛士が用いるための儀礼的な太刀(たち)の注文を受けていました。

実戦に使用する目的ではなく、儀式用としての太刀を制作していたため、三条派の制作した日本刀は、いずれも細身で反りの深い、優美で気品あふれる姿をしているのが特徴です。京都は政治の中心地であったため度重なる戦禍を受け、三条派の刀もその影響を受けてきました。

系譜
開祖は「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)。「三条宗近」・「小鍛冶」とも呼ばれます。京都の名門鍛冶である「埋忠家」(うめただけ)の子孫で、初めのうちは「仲宗」(なかむね)と名乗りましたが、のちに「宗近」(むねちか)と名乗るようになりました。

公卿の子息だった宗近は、公務の余暇として日本刀の制作をしていたため、専門的な刀匠ではありませんでしたが、その腕前の確かさから三条小鍛冶宗近と称されるようになったのです。当時の帝・一条天皇の命により、宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を制作したことで知られており、いつしかそのエピソードが、「能」の演目で語り継がれるようになりました。そこから派生して「長唄」や「歌舞伎」の題材にもなっていったのです。

特徴
「伝家の宝刀」と呼ばれるにふさわしい優美な太刀姿。武器としての役割よりも、宝刀としての役割を持った三条派の刀は、長寸で「身幅」(みはば)が狭く、反りの深い雅な姿をしています。

刃文は「直刃」(すぐは)仕立ての「焼幅」(やきはば)の狭い「小乱刃」(こみだれば)で、「金筋」(きんすじ)・「稲妻」(いなづま)・「二重刃」(にじゅうば)などの「働き」(はたらき:沸出来[にえでき]や匂出来[においでき]の中に時折現れる様々な動き)が見られるのが特徴です。この性質により実戦には向かず、実戦で使用すると刃こぼれしやすく、研げば刃文の焼刃が潰れてしまうため、美しさの分、繊細な作風となりました。

代表的な刀工
開祖の「三条宗近」(さんじょうむねちか)、「吉家」、「近村」、「在国」、「吉則」など。
刀 額銘 吉家作
刀 額銘 吉家作
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
63.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

三条宗近:平安時代(在銘年度:987年頃/永延頃)、生没年不詳

作風
太刀姿は、「山城物」(やましろもの)特有の「鳥居反り」(とりいぞり:刃の反りの中心が刀身の中央にあり、見た目が鳥居の笠木のような姿)が深く、身幅・重ねともに狭い「小切先」(こきっさき)の姿。地鉄は「小杢目肌」(こもくめはだ)がよく詰み、刃文は直刃仕立ての「小丁子乱」(こちょうじみだれ)に豊かな働きが見られます。
帽子
「大丸」で軽く乱れ込み、「掃き掛け」(はきがけ:箒で掃いたような模様)風。「火焔」(かえん:炎のような形状)や「沸崩れ」(にえくずれ:沸が激しく不安定)、「焼き詰め」(やきづめ:返りがない)も見られます。
在銘で現存する物は少なく、二字銘で「宗近」、稀(まれ)に裏銘に「三条」と切ります。
作品
「三日月宗近」(みかづきむねちか:国宝)。「天下五剣」(てんがごけん:室町時代頃に特に優れた5振の名刀とされた)。徳川将軍家伝来。
「小狐丸」九条家伝来、所在不明。能の「小鍛冶」に語られる伝説の剣。

三日月宗近

三日月宗近

評価
古刀最上作。国宝1振。重要文化財2振。

能の演目「小鍛冶」

能「小鍛冶」は、一条天皇の命を受け、太刀の制作に取り掛かろうとした宗近は、帝に献上する日本刀を制作するのにふさわしい「相槌」(あいづち:刀を鍛える際に槌で鉄を叩く補助をする役割の者)がいないことを思い悩み、神頼みの思いで氏神である「稲荷明神」(いなりみょうじん)に向かいます。そこで美しい童子から啓示を受け、神話の剣である「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を打つよう促された宗近は、明神の使いの相槌を得て無事宝刀・小狐丸を完成させる、というストーリー。

この一条天皇が統治した時代は、年期が記されている刀は皆無であるため、実話かどうかの確証はありませんが、このエピソードで制作されたと言う小狐丸の美しさは高い評価を受けており、人々に親しまれ続けています。

粟田口派

「粟田口派」(あわたぐちは)と言えば、古くから日本刀の制作が行なわれていた山城国(やましろのくに:現在の京都府)で、「来派」(らいは)一門と並んで2大流派として名高い刀匠の一派です。鎌倉時代初期から中期、京都・東山(ひがしやま)の粟田口という土地で、地鉄(じがね)が全時代・全流派の中で最も澄んで美しいと絶賛され、名声を得ました。

系譜
粟田口派の始祖は、「国家」(くにいえ)とされています。現存刀はありませんが、刀匠であった事実が記録に残っている人物で、御番鍛冶の取締役も務めた人物です。6人の息子を持ち、それぞれが皆刀匠となりました。国家の父「国頼」(くにより)は刀匠ではなく、「具足師」(ぐそくし)という甲冑師だったため、彼に刀鍛冶の技術を教えた人物は国家の父ではないと伝えられています。当時、粟田口に住んでいた「三条派」(さんじょうは)の刀匠を師としたとする説が有力です。
特徴
粟田口派一門は、京都を中心に皇室関係や公卿を主な得意先としたために、その気風に沿うように細身の姿、小切先に鳥居反り(京反り・輪反り)の優美な姿で、長さ・身幅・重ねなど、すべての要素において均整が取れており、非常にバランスの良い上品な作風です。

また、地鉄の美しさは格別で、小さな円形の文様が見られる「小杢目」(こもくめ)鍛えと言う、最高級の鉄を使用した、ごく少数の刀工にしか見られない文様が見られるのが特徴です。小杢目鍛えが良く詰んでいる地鉄のことを「梨子地肌」(なしじはだ)と呼びます。刃文は、小沸本位(こにえほんい:細かな沸が主になる匂口)で焼幅の狭い直刃と、直刃仕立てに小乱の交じる物で、これらに地肌(じはだ)の奥から湧き出るような白金色のよく冴えた地沸が特徴です。

代表的な刀工
「粟田口六兄弟」と呼ばれる「国友」(くにとも)、「藤次郎久国」(とうじろうひさくに)、「藤三朗国安」(とうざぶろうくにやす)、「国清」(くにきよ)、「有国」(ありくに)、「左近将監国綱」(さこんのしょうげんくにつな)。この粟田口一門の名には、「藤」や「林」の字が多く、その理由は、藤原氏でありながら林の姓を併用していたことに起因します。
刀  無銘  粟田口(伝国吉)
刀 無銘 粟田口(伝国吉)
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
65.5
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
刀 無銘 伝則国
刀 無銘 伝則国
無銘
鑑定区分
重要刀剣
刃長
68.95
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

天皇家に重用された粟田口派

「源平合戦」(げんぺいがっせん)の終結のあと、政治の中心がまだ京都から鎌倉に移りきっていない時代において、日本刀を好んだ後鳥羽上皇は、「御番鍛冶」(ごばんかじ)と称して月代わりで刀工を抱え、院内で太刀を制作するように命じました。

この御番鍛冶に、鎌倉時代初期の代表的な流派であった京の粟田口派、備前の「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)、備中の「青江派」(あおえは)の3派が選ばれたのです。粟田口派からは国安・国友などが選ばれました。

鎌倉時代は日本史上初の武家政権が誕生した時代であり、日本刀にとっての黄金期であったため、美術的に優れた名刀が次々と作られ、その美しさは現代に至ってもコレクター達の垂涎の的となっているのです。

国友:鎌倉時代前期(在銘:1192~1198年頃/建久頃)

人物
国家の長男。「左衛門尉」(さえもんのじょう)という官職に任ぜられ、「藤林」(とうりん)と称した刀匠です。後鳥羽上皇の御番鍛冶として、「六月番鍛冶」を務めました。生没年不詳。
作風
一門中で最も気品ある姿とされており、細身の反りの深い姿に、小沸本位の直刃を焼き、刃中には粟田口派特有の潤いのある小沸が見られます。地肌は小杢目肌で美しく、地沸も見られ、いわゆる「粟田口肌」(あわたぐちはだ)の立派な物です。
帽子
浅帽子で小丸、大丸共に返りが浅く、焼き詰め、沸崩れ、火焔が見られます。
「国友造」、「国友」、「藤林国友」と切ります。
作品
「太刀 銘 国友」(重要文化財)熱田神宮宝物館所蔵。
評価
古刀最上作。重要文化財2振。

久国:鎌倉時代前期(在銘年度:1192~1198年頃/建久頃)

人物
国家の次男で、名は「藤次郎」(とうじろう)。作品が比較的多く、一門の中で最も技巧に優れました。「奉授工」(ほうじゅこう)という、上皇に鍛刀技術の手ほどきをする師範役を務めたことで、後鳥羽上皇から「大隈守」(おおすみのかみ)を受領し、備前国の刀匠「備前守信房」(びぜんのかみのぶふさ)とともに、「日本鍛冶長者」を許された名匠です。生没年不詳。
作風
太刀・短刀が現存しており、粟田口派の長所を色濃く反映しています。特に太刀は鳥居反り(京反り・輪反り)で、細身で踏ん張りのあるしっかりとした姿に小切先といった品格高い作りです。小沸本位の中直仕立てに小乱れが見られます。地鉄は、小杢目肌が見えないほど良く詰み、いわゆる梨子地肌です。
帽子
国友と共通した特徴に加え、「のたれ」の刃文が特徴。
「久国」、「藤四郎久国」と切ります。
作品
「太刀 銘 久国」(国宝)。
評価
古刀最上作。国宝1振。重要文化財3振。

国安:鎌倉時代前期(在銘年度:1199年頃/正治頃)

人物
国家の三男。「藤三郎」(とうさぶろう)、「林藤三朗」と称し、後鳥羽上皇の御番鍛冶として「四月番鍛冶」を勤め、「山城守」(やましろのかみ)を受領しました。生没年不詳。
作風
樋(ひ:溝のような刀身彫刻)がある作が多く、兄弟中で最も地肌が立つ点が特徴。焼幅の広い姿と、丁子乱(ちょうじみだれ)または直刃丁子乱の刃文が見られます。
帽子
国友と共通した特徴が見られます。
「国安」と切ります。
作品
「吹毛剣」(すいもうけん)後鳥羽院所持。刃の上に毛を置き、息を吹きかけると毛が切れてしまうほどの切れ味だったというのがこの名の由来です。
評価
古刀最上作。重要文化財1振。

国清:鎌倉時代前期(在銘年度:1201~1203年頃/建仁頃)

人物
国家の四男。「藤四郎」(とうしろう)と称しました。生没年不詳。
作風
京物にしては反りが浅い姿。焼幅も広めで直刃仕立てが見られ、のたれ風になっており、焼幅の広い姿と、丁子乱または直刃丁子乱の刃文が特徴。
帽子
国友と共通した特徴が見られます。
「国清」と切ります。
作品
「太刀 銘 国清」(重要文化財)
評価
古刀最上作。重要文化財1振。

有国:鎌倉時代前期(在銘年度:1201~1203年頃/建仁頃)

人物
国家の五男。「藤五郎」(とうごろう)と称しました。後年は近江国(おうみのくに)鎌田に移住した人物です。生没年不詳。
作風
細身の太刀姿に華やかな小丁子乱・直刃の刃文の作風。
帽子
国友と共通した特徴が見られます。
「有国」と切ります。
作品
「刀 折返銘 有国」(重要文化財)伊勢神宮所蔵。
評価
古刀最上作。重要文化財1振。

国綱:鎌倉時代前期(在銘年度:1201~1203年頃/建仁頃)

人物
国家の六男、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の父。本名は「林藤六朗」(はやしとうろくろう)で、「藤六左近将監」(とうろくさこんのしょうげん)を称し、「隠岐番鍛冶」(おきばんじかじ)を務めたとされます。

京から鎌倉山に移住し、「北条時頼」(ほうじょうときより)のため「天下五剣」のひとつである「鬼丸」を制作。「足利義輝」(あしかがよしてる)が特に国綱を愛好したため、献上された日本刀には国綱の偽名が切られたとされており、当時の人気が窺えます。生没年不詳。

作風
京都に在住中の作は粟田口派らしさを守り、優美な姿であったのに対し、鎌倉に移住したあとは、「鬼丸」の太刀に見られるように作風が変化。身幅が広く、重ねの厚い全体的に豪壮な姿となり、地鉄に乱れ映りが立ち、刃文は直刃に丁子を交じえます。
帽子
直刃調に丁子を交え、小丸に返る。
「国綱」と切ります。
作品
「鬼丸」(鬼丸国綱)(御物:ぎょぶつ)

鬼丸国綱

鬼丸国綱

評価
古刀最上作。御物1振。重要文化財3振。

来派

「来一派」(らいいっぱ)と言えば、古くから日本刀の制作が行なわれていた山城国(やましろのくに:現在の京都府)で「粟田口派」(あわたぐちは)一門と並んで2大流派として名高い刀匠の一派です。鎌倉時代初期から中期に、京都・東山で名声を上げた粟田口派に代わり、鎌倉時代中期以降に京都の名刀一派として台頭しました。

系譜
来一派の始祖は、高麗(こうらい:現在の韓国)からの帰化人の子である「国吉」という刀工だと伝えられていますが、確かな記録がなく、真偽の程は明らかではありません。「来」と名乗ったことから帰化人の子孫であることは確かなようです。しかし、国吉には現存する日本刀が残っていないことと、国吉の子である国行(くにゆき)が本格的に刀作りを行ない、数々の名刀を作っていることなどから、事実上の始祖は国行とするのが通説となっています。
特徴
太刀や短刀を多く制作した来一門の日本刀。一見しただけで山城物と気付きやすい三条派や粟田口とは一線を画しており、作風には2つの傾向が見られます。

  1. 反りが浅くて身幅と元先の差(元幅と先幅の差)が少なく、身幅の広い、猪首切先(いくびきっさき)風のしっかりした姿の物。
  2. 京物らしい鳥居反り(輪反り・京反り)の深い姿をし、身幅の狭い優美な姿に、焼幅の狭い直刃仕立ての刃文の物。

刃文は、湾れ刃(のたれば)・直刃・小乱刃・丁子刃などが見られ、いずれにしても沸本位で、粗めの沸が付きます。また、小板目肌がよく詰み、細かな地沸が一面に付く「来肌」(らいはだ)という地鉄が見られ、「来映り」(らいうつり)と呼ばれる映りが地肌に見られるのが特徴です。

代表的な刀工
「国行」、「国俊」(くにとし)、「来国俊」(らいくにとし)、「来国光」(らいくにみつ)、「来国次」(らいくにつぐ)がいます。

国行:鎌倉時代後期(在銘年度:1259~1260年頃/正元頃)

人物
祖である国吉の子ですが、来一門の事実的な祖とされています。通称「来太郎」。生没年不詳。
作風
豪壮な姿の作と優美な姿の作とがあり、太刀が多く、いずれにしても腰反りや鳥居反りが多く切先は猪首切先。地鉄には、地沸が厚く付き、沸映りが見られ、刃文は直刃に丁子を交じえる物と、丁子乱れ主体の物に分かれます。
帽子
小丸に締まり、焼詰(やきづめ:返りがない)の物も。
「来」の字は冠さず、「國行」と2字で切ります。
作品
「不動国行」(名物)織田信長の愛刀。小太刀。表のはばき上にある樋の中に岩上立不動の彫り物があることから名付けられました。
「明石国行」(国宝)播州明石城主松平家伝来など。
評価
古刀最上作。国宝1振。重要文化財14振。

国俊:鎌倉時代後期(在銘年度:1289~1321年/正応2年~元亨1年)

人物
国行の子。銘を「国俊」と2字で切り、後年の「来国俊」と銘を3字で切る国俊と区別するため、通称「二字国俊」(にじくにとし)と呼びます。古来、3字で銘を切る「来国俊」との同人説も囁(ささや)かれていますが、作風の違いから両者を別人とする説が有力です。

2字と3字の国俊の違いとして、2字銘は太刀がほとんどで、短刀は1振だけであるのに対し、3字銘には短刀も多く見られることも、別人説を裏付けています。しかし諸説あり、「別人説」、「同人説」、「兄弟説」、二字国俊を来国俊(3字の国俊)の父親とする「父子説」と、現在においても様々な議論が続いています。

作風
父の国行と作風が酷似しており、猪首切先で豪壮な作が多く、沸映りの立った地鉄に刃文は丁子足がはばき元方向へ垂れ下がる「京逆足」(きょうさかあし:通常の逆足は切先方向へ足が伸びる)の入った直刃を作風とします。

国俊の活躍した時代は、蒙古襲来の「文永の役」をきっかけに、次の来襲に備えるため、鎌倉武士たちがより強靭な日本刀を必要としたため、身幅の広い、猪首切先の豪壮な姿の刀が好まれました。

帽子
大きく乱れ込んだ華やかな物で、焼きが強く砂流し(すながし)がかかります。
2字で「国俊」と切る。3字で「来国俊」と切る刀匠とは別人とするのが通説です。
作品
「鳥養国俊」(名物)尾張徳川家伝来徳川美術館所蔵。
「愛染国俊」(名物・重要文化財)加賀前田家伝来など。
評価
中古刀最上作。重要文化財7振。
刀 無銘 伝国俊
刀 無銘 伝国俊
無銘
鑑定区分
重要文化財
刃長
67
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

来国俊:鎌倉時代後期(在銘年度:1289~1321年/正応2年~元亨1年)

人物
2字の国俊とは異なり「来」を冠して3字で「来国俊」と呼ばれます。通称「孫太郎」。出生には諸説あり、二字国俊との関係性について様々な説が存在します。

「孫」の字を冠することから「来太郎」と名乗った国行の孫、二字国俊の子なのではないかという「父子説」や、国行の子で二字国俊の兄弟という「兄弟説」、二字国俊自身なのではないかという「同人説」など様々な憶測があり、現在も議論が続いています。生没年不詳。

1301年(正安3年)62歳から「来源国俊」と銘を切るようになり、1320年(元応2年)81歳から「源来国俊」と銘を切ったことから推察すると、かなりの長寿を保ったことが窺えます。また、1288~1324年(正応1年~正中1年)に至る銘があることから、その間2代に亘って来国俊が存在したという説もあり、疑惑の多い人物です。

作風
国行や二字国俊に比べ、細身の穏やかな作が多く、匂口が沈みます。短刀の作が多く見られ、刃文は直刃を主体とし、乱れ刃に小丁子、小互の目を主としました。地肌は小板目がよく詰む来地肌に柾目肌が交ざります。
帽子
品の良い小丸風に二重刃風が見られます。
「来国俊」、「来孫太郎作」、「来源国俊」と切ります。「来」の字が数字の「三」の字型に揃います。
作品
「蛍丸」(名物・重要文化財)など。
評価
中古刀最上作。国宝5振。重要文化財6振。

来国光:鎌倉末期~南北朝時代(在銘年度:1326~1352年/嘉暦1年~文和1年)

人物
来一門で最も作品の多い人物。太刀・短刀ともに多く、名物は太刀よりも短刀に多く見られ、沸の強い覇気のある短刀が見られる刀工です。「次郎兵衛尉」(じろうびょうえのじょう)と称しました。

来国俊の子とされていますが、出生には諸説あり、国行の子、来国俊の子、孫、弟など様々な説があります。来一門の正系を継いで、次世代を背負って活躍しました。同銘が2代続き、初代は元徳・建武頃、2代目は観応・康永頃とする説も。生没年不詳。

作風
二字国俊に似た①反りの浅い、身幅の広い、重ねのやや厚い猪首切先風の豪壮な姿で、鎌倉時代を代表するような作風と、父の来国俊に似た②京物らしい細身で鳥居反りの深い、身幅が狭く小切先な作風と、2つの作風が見られます。

また作域が広く、乱れ刃主体で沸の強い物と、直刃主体で小沸出来の物があり、前者は相州伝の「正宗」(まさむね)の影響を受けた物。後者の京物らしい作はあまり多く見られません。

最大の特徴は、来系にはほとんど見られない二重刃や喰い違いが見られることと、地肌に潤いが少なく、小杢目肌が沈み、大肌が交じる点です。

帽子
深く焼く物が多く、直刃仕立てのときは小丸、乱れ刃の際は乱れて、ともに沸えます。
「来国光」、「来源国光」と切ります。太刀の銘は小さい物が見られます。
作品
「有楽来国光」(国宝)織田有楽斎(織田長益)所持など。
評価
中古刀最上作。国宝3振。重要文化財21振。
「来たりて国光る」という名から将軍の世継ぎへの贈り物として重用されました。
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
来国光
鑑定区分
国宝
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀頼 →
織田有楽斎 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

来国次:鎌倉時代後期に活躍(在銘年度:1288~1292年頃/正応頃)

人物
来国俊の娘婿で、国光の子、従兄弟、弟子という説があります。通称「兵衛尉」(ひょうえのじょう)、「三右衛門」(さんえもん)。来国俊に師事したのちに鎌倉に移住、相州伝・正宗の門に入ったとされており、「鎌倉来」と呼ばれました。「正宗十哲」のひとりとされており、来国光同様短刀に名品が多く見られます。生没年未詳。
作風
来派には珍しく、沸の強い乱れ刃を焼く異色の作風を持ち、正宗などに見られる相州伝の影響を受けています。地刃ともに沸が強く、地鉄は肌立ち、地景が目立つところも相州伝の特徴です。
帽子
刃文のまま乱れ込み焼詰で、小丸が見られます。
「来国次」と切ります。
作品
「鳥飼来国次」(名物)豊臣秀次所蔵など。
評価
中古刀最上作。国宝1振。重要文化財4振。
「来たりて国を次ぐ」という名から将軍の世継ぎへの贈り物として重用されました。

長谷部派

「長谷部一派」(はせべいっぱ)は、「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)で南北朝時代から室町時代にかけて活躍した刀工一派です。同国で鎌倉時代に栄華を極めた「来派」(らいは)や「粟田口派」(あわたぐちは)に代わり、「信国派」(のぶくには)とともに名声を上げました。開祖の「国重」(くにしげ)は、「正宗十哲」(まさむねじってつ:名工である正宗に学んだ門下生の中でも、とりわけ優れた技術を持ったとされる10人の名工)のひとりに数えられた名工で、織田信長の愛刀「へし切長谷部」(へしきりはせべ)を制作したことで有名です。

系譜
長谷部一派の開祖は国重。「相模国」(さがみのくに:現在の神奈川県)で活躍した「新藤五一派」(しんとうごいっぱ)が、相模国の鎌倉・長谷(はせ)という土地に移住し、姓に「長谷」を称したため、「長谷部国重」(はせべくにしげ)も「新藤五派」(しんとうごは)の門徒とするのが通説です。先述した通り、名工・正宗に師事した正宗十哲のひとりですが、正宗との親族関係を唱える説もあるため、信国派の先輩格とされています。
特徴
太刀の在銘作は少なく、短刀が多く見られます。同国で長谷部派の繁栄の前に栄えていた、来派や粟田口派は、いかにも京物の「山城伝」(やましろでん)らしい、優美で繊細な作風でしたが、長谷部派の作風は、相模国の「相州伝」(そうしゅうでん)の作風を色濃く表しており、山城伝としては異端の作風でした。また、短刀の「茎」(なかご:柄をはめる部分の刀身)が特徴的な「たなご腹」となるのが特徴です。これが後代の「村正」のたなご腹に影響した可能性が囁(ささや)かれています。
代表的な刀工
「国重」、「国信」(くにのぶ)、「国平」(くにひら)、「重信」(しげのぶ)など。

国重:南北朝時代(在銘年度:1355~1357年頃/文和4年から延文2年頃)

人物
長谷部一派の開祖で、正宗十哲のひとり。生没年不詳。
作風
太刀の作風は、「磨り上げ」(すりあげ:使用者の体形や刀の扱い方に合わせて日本刀の刀身を短く仕立て直すこと)による無銘の物が多く、身幅の広い、重ねが薄い、切先の延びた太刀姿です。「大乱」(おおみだれ)や「皆焼」(ひたつら)の刃文が見られます。

短刀の作風は、師である正宗が興した相州伝の作風の影響を強く受けており、長寸で先反りの、身幅が広く、重ねの薄い姿。刃文は皆焼の「乱刃」(みだれば)を焼きます。砂流し、金筋などの働きが見られ、沸が山城物の中で最も強いのが特徴です。

さらに、地鉄に「大板目肌」(おおいためはだ)と「大柾目肌」(おおまさめはだ)が交じるのが最大の特徴で、「素剣」(すけん)や「梵字」(ぼんじ)、樋などの刀身彫刻が見られます。先述した地鉄の肌合いは、国重の他には「新刀」(しんとう:1596年[慶長元年]以降に制作された日本刀)の刀工「野田繁慶」(のだはんけい)にしか見られない物です。

帽子
大きく丸みを持ち、深く返ります。
「長谷部国重」と切ります。
作品
「へし切長谷部」(国宝)など。
評価
中古刀上々作。国宝1振。重要文化財5振。

※「国重」は同名で複数代続いており、識別が困難なため「国重」銘の作刀全体で数えています。

国信:室町時代(在銘年度:1352年頃/文和頃)

人物
国重の弟。生没年不詳。
作風
国重と同じく太刀の在銘作が少なく、短刀の作が多い刀工です。作風は国重に似通っていますが、短刀の姿は国重よりも一回り大振りな姿。重ねが非常に薄いのが特徴で、刃文は「大のたれ刃」や皆焼の大乱刃を焼きます。
帽子
国信の特徴

国信の特徴

大きくのたれ込み、返りは浅い。

「長谷部国信」と切ります。
作品
「唐柏国信」(名物・重要美術品)。
「熱田国信」(重要文化財)など。
評価
中古刀上作。重要文化財3振。

山城国の地図

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