アジア・アフリカ 剣・刀剣・甲冑 (鎧兜)編
中国甲冑の歴史
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中国甲冑の歴史

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中国では、長い戦の歴史の中で、たくさんの武器とともに防具も発展を遂げています。特に甲冑においては、その時代の武器に合わせて様々な形、素材の鎧や兜が作られてきました。ここでは、多くの戦争が巻き起こった春秋から明の時代まで、各時代の甲冑を紹介します。

春秋~戦国時代・中国最古の甲冑

春秋〜戦国時代の甲冑

春秋〜戦国時代の甲冑

古代中国の神話では、甲冑も刀剣(日本刀)と同じく、怪神・蚩尤(しゆう)が発明した物だと言われており、動物の皮を割いて鎧のような防護服を作っていたそうです。実際に商(殷・紀元前1600~1046年)には、皮を使って盾や兜、胴まわりの防護服が作られていて、中国最初期の甲冑は皮革製だったことが分かっています。

また、青銅製の兜もこの頃すでに作られており、現存している物もあります。兜においても鎧と同じように皮革製の物も作られていましたが、特に素材を合わせる決まりはなく、兜は青銅製の物が広く使用されていたようです。

さらに、胴まわりの防護服には厚手の皮の他に、亀の甲羅を衣服に縫い付けた物も使用されていました。

皮革製の甲冑「皮甲」

商王朝が終わり、戦乱の世となった春秋・戦国時代。数百年に及ぶ戦争のなかで軍事力の向上とともに、防具も大きな進化を遂げていきました。春秋時代には、商の時代から続く皮革製の甲冑をより強化した物が作られ、貴族階級の人々の間で使われていました。この甲冑を「皮甲」(ひこう)と呼び、素材は牛革が主流ですが、最高級の素材として丈夫なサイ革で作られた物もありました。

しかし、一般的な兵士はこのような高価な装備ではなく、もっと簡単な防具だったといわれています。この時代の防具は、主に胴まわりの鎧と兜だけで、脚と腕は常に無防備な状態にありました。しかし、武器から受ける攻撃は、銅まわりに装着した皮甲で十分防げたといわれています。皮甲の皮革には、漆が塗られていたため、ある程度の衝撃には耐えられる強度がありました。また漆を塗ることは防水性や腐食防止を高めるのにも効果的でした。

「甲片」を繋ぎ合わせて強化する

春秋時代末期から戦国時代初期の頃には、さらに防御力を高めた皮甲が作られ、漆を塗った皮革の札「甲片」が使われるようになりました。大型の甲片を革紐で綴り耐久性を高めた皮甲は、戦国時代の上級兵士たちの防具として流行。甲片を綴る革紐は刀剣で切断されてしまう恐れがあるため、戦国時代末期になると、さらに強度を高めた金属製の甲釘を使って接合されるようになりました。

そのあと、甲片で耐久性を高めた皮甲は、中国における代表的な鎧として定着し、金属製の甲冑が作られるようになってからも、軽くて動きやすく安価な皮革製は重宝されていたようです。

秦~漢の時代

秦~漢の時代の甲冑

秦~漢の時代の甲冑

1974年の陝西省(せんせいしょう)で、井戸掘り中の地元農民によって発見された「兵馬俑」(へいばよう)。これは、中国初の皇帝・秦始皇帝(しんしこうてい)の陵墓近くの地下に眠っていた、およそ8000体物陶製の人形で、秦始皇帝時代の軍隊を緻密に再現した模型的な副葬品です。

この兵馬俑の発見によって明らかになった秦の兵士たちの甲冑と、秦の統一王朝を引き継いだ漢の時代の甲冑を見ていきましょう。

兵馬俑に見る秦始皇帝時代の甲冑

兵馬俑のなかでも一般的な兵士を象った武士俑の多くは、戦国時代(紀元前403~221年)に作られた甲片を革紐で綴り合わせた鎧を身に付けていました。この甲冑の素材は皮革か青銅で作られていたのではないかと言われています。

また、軍の部隊や兵士の階級によって甲片の並び方や形が異なっていたことも分かっており、これ程までにリアルに再現された立体的資料が残っていたおかげで、秦の軍隊で使われていた甲冑は細かいディテールまで確認することができたのです。

秦軍の階級別甲冑の種類

将軍俑の鎧は指揮官用の特別な物で、紐で綴った甲片を布でふちどり、裏打ちした作りになっています。他の兵士に比べて装飾も多く、頭には冠をかぶっていることも確認できます。戦車を操縦する御者俑(ぎょしゃよう)の鎧は、戦車の操作で両手が塞がっているため、両腕全体が甲片で包まれた防御部分の多い鎧を身に付けていました。

反対に、騎兵俑の鎧は乗馬がしやすいように袖がなく、上半身だけを保護する軽装な鎧です。もちろん、隣には馬俑が配置されており、騎兵俑の手には手綱も握られていました。ちなみに、これらの兵馬俑は階級ごとに甲冑や身なりが違うだけでなく、なんと表情や髪型もそれぞれ異なった作りになっているのですから驚きます。

宿敵との戦いで進化した漢王朝時代の甲冑

秦が滅びたあとも、再び漢王朝(紀元前202~220年)として統一国家となった中国。前漢(紀元前202~8年)の甲冑も、戦国時代から引き継がれた皮革製の物で、秦軍の様式とあまり変わりませんでした。

しかし、漢の最大の敵である遊牧民族・匈奴(きょうど)との騎馬戦が盛んになると、次第に漢の軍隊は大規模な物となり、騎馬戦に対抗するための精鋭部隊を中心に、武器や防具も少しずつ改良されていきました。

鉄や金属製の甲冑が登場

漢軍の防具は匈奴との戦いを重ねるごとに強化された物となり、兵士は首回りから大腿部まで広範囲で保護する鎧を身にまとうようになりました。特に「披膊」(ひはく)と呼ばれる肩当ては、肩から上腕、胸、肘近くまで保護する金属製の鎧で、兵士にとって欠かせない物となりました。

また、前漢第7代皇帝・武帝(ぶてい)の時代(紀元前141~87年)には、鉄の甲片でできた鎧が主流となっています。貴族や高官にいたっては、およそ2000枚物金属の甲片に装飾を施した鎧をまとうようになり、その重量は約15kgもあったそう。

さらに、兜も金属製の甲片に羽飾りがついた派手な物をかぶるようになりました。このように強化を重ね、豪華さも増した漢軍の甲冑は、匈奴をも圧倒し、前漢の全盛期と言われた武帝時代を象徴するアイテムだったと言えるでしょう。

三国~南北朝時代

およそ4世紀に渡って中国を統一してきた漢王朝が滅亡すると、3人の皇帝による群雄割拠の三国時代(220~280年)が幕を開けました。この頃は、豪族たちの権力争いが激しくなり、また国境周辺に居住する遊牧民との小競り合いも頻発していました。

戦の中心にいた騎兵へ向けた甲冑制作

三国時代から南北朝時代(3~5世紀)にかけて、馬具にも新しい装備品が登場しました。それまで騎乗の際に用いるのは、主に鞍(くら)だけでしたが、鞍の両脇に鐙(あぶみ)と言う足掛が付けられることになったのです。これによって、兵士たちはより安定して乗馬できるようになり、騎兵たちは自在に武器を扱えるようになりました。

その結果、生まれながらに馬を乗りこなす遊牧民族たちとの争いでも、重装騎兵が優位に戦うことができ、また権力を強める豪族たちの横暴な振る舞いを抑止することに成功したと言われています。

諸葛亮が改良した?「筒袖鎧」

筒袖鎧

筒袖鎧

三国時代から南北朝時代の初期によく使われた鉄鎧「筒袖鎧」(とうしゅがい)は、極めて防御力の高い鎧でした。その最大の特徴は、鉄製の小型の札が鱗状に重ねて綴ってあるところです。また、袖が付いているため、上腕部や脇の下も同じように保護されています。

南北朝時代の初期に作られた物は、およそ670kgの威力を放つ弩(ど・機械仕掛けの弓)でさえ貫通できないと言われている程。さらにこの頃の兵士は、兜も金属製の甲片で綴った垂れがついた物で、首やうなじも保護されていました。

筒袖鎧は三国のなかのひとつである蜀(しょく)の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)が発明したと言う説もありますが、このような袖がついた鎧は漢王朝(紀元前202~220年)にはすでに作られていたため、真相は定かではありません。しかし、諸葛亮は実際に蜀の軍隊の装備強化のために様々な新兵器の開発を行ない、武器や甲冑の製作に携わっていたため、すでに原型があった鎧を諸葛亮が改良して完成させていたのかもしれません。

騎兵の定番「裲襠甲」

裲襠甲

裲襠甲

三国時代に作られ、南北朝時代(439~589年)に流行した「裲襠甲」(りょうとうこう)は、この時代の騎兵によく使われていた鎧です。騎兵が動きやすいように可動性を高めた物で、袖がなく、全面を保護する胸甲と背面を保護する背甲を肩の革製ベルトで結ぶタイプでした。

胸甲と背甲は、いずれも鉄の札を編んで縁を付けた物で、着用時は腰のベルトで固定します。裲襠甲はこのあとに続く隋から唐(6~9世紀)にかけても高官の儀礼用の甲冑として使用されていたようです。

このように三国時代から南北朝時代は、漢王朝から続く騎兵の活躍を受けて、より騎馬戦で戦いやすい甲冑へと少しずつ変化を重ねていきました。

唐の時代

およそ300年物間、中国を統一していた唐王朝(618~907年)は、7世紀に最盛期を迎えると、それまでの中国歴史のなかで最も華やかな王朝となり、世界的にも影響力を持った存在となりました。

唐の兵士たちを護る2つの鎧

厳しい訓練を積み、鍛え上げられた精鋭たちによって大規模組織へと成長した唐の軍隊。兵士の装備品は、戦闘用だけでなく、儀礼用なども加わり細かく規定されるようになっていました。

防具類は革以外にもフェルトや木綿などの色々な素材で制作されるようになり、当時は13種類物鎧が用途ごとに使われていたと言われています。そのなかで特に防御力の高かった物と、一風変わった物、この2つの対照的な鎧を紹介したいと思います。

唐を代表する堅強な鎧「明光鎧」

明光鎧

明光鎧

まずは、防御力の高い鎧について。数ある鎧のなかでも最も優秀だと評価されていた「明光鎧」(めいこうがい)があります。

この鎧の特徴は、胸部と背中の防御力を上げるために付けられた「護心鏡」と呼ばれる大きな楕円形のプレートで、この護心鏡が鏡のように光を反射することから明光鎧と言う名が付けられました。現代においても、三国志の武将たちの鎧として度々描かれているため、なんとなく「中国の鎧」と言うイメージで記憶にある方も多いのではないでしょうか。

そんな明光鎧は、南北朝時代(439~589年)に流行した「裲襠鎧」(りょうとうこう)よりも防御力が高く、唐の歩兵や騎兵の間で広く流行し使われていました。この堅強さを裏付けるエピソードとして、南北朝時代に建てられた北周の将軍・蔡祐(さいゆう)が明光鎧を着て闘ったところ、敵から鉄猛獣と呼ばれ恐れられていたと言う物があります。

唐で発明された紙の鎧「紙甲」

次に、一風変わった鎧について。硬く強い鎧が大流行する一方で、なんと紙で作られた鎧も誕生していました。その名も「紙甲」(しこう)と言う物で、紙に絹や木綿の布を合わせて作られており、南方の地域では歩兵用として、その圧倒的な軽さから船上でも使われるようになりました。

なぜ「紙」を鎧の素材にしようと思ったのか。それは、唐の時代には紙が衣服の素材に使われていたことと関係しているのかもしれません。紙甲は「鎧を着ている」と言う安心感を得るためと言う皮肉的な意見もあります。しかし、厚みのある紙や木綿で裏打ちした物を固く縫って強度を上げるなど、工夫を凝らして作られた紙甲は、明光鎧程の防御力はないものの、矢や鳥銃(威力の弱い先込め式の歩兵銃)の弾丸は防ぐことができる程丈夫に作られていたそうです。

刀剣や槍のような冷兵器との接近戦では非力な紙甲ですが、城を守る軽装の歩兵用や弓兵などの間で広く使われるようになり、意外なことに、そのあとも明の末期(17世紀)まで継続して使われていたそうです。

宋の時代

北宋(960~1127年)の時代になると、中国はあらゆる面で転換期へと突入します。これまでの貴族文化が庶民文化へと移り変わり、紙幣の発行や流通が盛んになったことで大きな経済成長を遂げていきます。

一方で、新たな異民族による侵略を受けた宋は、北方は遼(りょう・北方系遊牧民族)、西方はタングート(チベット系民族)と言う民族に支配されていきます。このような目まぐるしい時代のなか、中国甲冑史もひとつのピークを迎えることとなったのです。

最重量級の鎧「歩人甲」

歩人甲

歩人甲

北宋に書かれた軍事書「武経総要」(ぶけいそうよう)に記されている「歩人甲」(ほじんこう)は、西洋の有名な鎧「ラメラーアーマー」と同様に多数の金属製の甲片を、革紐と甲釘で綴った物で全身を覆うタイプの鎧でした。

中国の鎧のなかでも最も重厚で頑丈でした。恐らく歩人甲は、攻撃を防ぐ鎧として頂点を極めたと言えるでしょう。

過剰な甲片で重量オーバー?

南宋(1127~1279年)の歩人甲は、さらに甲片の数と厚みが増していき、なんと1825枚の甲片を綴った物が制作され、その重量は29kgにも達していたと言います。より頑丈な鎧を追求するあまり、ついつい甲片を増やしすぎて異常に重くなってしまうため、歩人甲の重さは29.8kg以内と言う規則が設けられる程でした。

また、歩兵の装備に合わせた鎧も作られており、前線に立つ槍手用は特に堅固な鎧で、そのあとろを歩く射撃担当の弓手用は通常の重量とし、さらに後ろで弩(ど・機械式の弓)を射撃する弩手用は武器自体が重いので他の物に比べて軽量な鎧でした。これらの陣形の鎧を1セット生産するためには、甲片を綴る作業をひとりで行なった場合3ヵ月以上かかってしまう程。当時は数人の職人たちが担当ごとに作業を行なっていたようなので、およそ2日で1セット作ることが可能だったと言われています。

宋軍の英雄が最強装備で挑む

女真族(じょしんぞく・満州民族の起源)が北宋を滅ぼして建国した金王朝(1115~1234年)と南宋との争いで、中国の英雄として名高い岳飛(がくひ)や韓世忠(かんせいちゅう)といった将軍たちが堅強な鎧を身に付け参戦しました。

彼らは、重い打撃兵器や弩を装備しながらヘビー級の歩人甲を着た重装歩兵の密集陣を編成していました。その密集陣が宿敵・金軍の重装騎兵と対峙すると、何度も金軍を撃破することに成功しました。精鋭たちと最強装備で強さを誇っていた南宋軍ですが、このとき重装歩兵の装備の重量は40~50kgに達していたそうで、勝利を収めてはいたものの、退く金軍の騎兵を追撃することができなかったなど、あまりにも堅強すぎる鎧が兵士の手枷足枷となってしまう場面も起こっていたようです。

また、宋の時代には馬鎧も強化されていたことから、馬にいたっても脚以外はすべて鎧で覆われていたそうです。重すぎる鎧に鍛えられていたのは、どうも人間だけではなかったようです。

明の時代

元(1271~1368年)のモンゴル帝国による征服王朝を倒し、漢民族王朝を復活させた明王朝(1368~1644年)は、軍隊を新たに編成しなおしました。そこで、元王朝から引き継いだ装備に加え、中国の伝統的な要素を取り入れるために、甲冑においても原点回帰的な傾向が見られたのです。

中国の伝統的な鎧に再注目

明軍で採用された甲冑のなかには、唐の時代(618~907年)に作られていた鎧や、古くは商王朝(紀元前1600~1046年)の時代にすでに原型があったとされている鎧もあり、古典的な鎧が数多く復活しています。なかでも特徴的な3つの鎧を紹介していきましょう。

鉄の網のような鎧「鎖子甲」

鎖子甲

鎖子甲

唐の時代に西から伝わったとされている「鎖子甲」(さしこう)は、西洋のチェインメイルと呼ばれる鎖帷子(くさりかたびら)にあたる鎧で、コイン程の大きさの鉄製のリングを相互に繋ぎ合わせて作られています。リングの穴があいていても、槍や矢が貫通することはなく、火薬などを用いない冷兵器との相性は抜群でした。

また、一般的に使われる鎧よりもはるかに軽量で通気性が良いため、他の鎧と併用して使用するなど、明末期まで重宝されていました。

寒さからも身を護る「綿甲」

綿甲

綿甲

キルティング加工を施したコートのように見える「綿甲」(めんこう)は、分厚い綿や絹の布地の中に、鉄の甲片を仕込んで銅の釘を打って固定した鎧です。

ロングコートのように全身を覆うので、防寒性にも優れており、北方の寒冷地でよく使用されていたようです。

もともと唐の時代に作られていた絹布の鎧を原型としており、中に仕込まれた鉄と分厚い生地によって、冷兵器にも火器にも対応できる防御力を持っていた鎧でした。

あの諸葛亮を苦しめた?「藤甲」

藤甲

藤甲

古代中国の南方で作られていた「藤甲」(とうこう)は、特殊な加工を施した藤の蔓を編んで作った鎧です。自然植物でできた藤甲が金属製の鎧よりも優れている点は、ずばり「軽い、錆びない、涼しい」の3点でしょう。また、意外と冷兵器に対し、十分な防御力を発揮していたようです。

明王朝になると漢民族以外の民族が兵士に多く採用されたため、南方の異民族が愛用し続けていた藤甲の良さが見直され、普及していきました。

藤甲の製法は、藤の蔓を半月程水に浸し、取り出してから3日間、日に当てて干し、さらに漆に1週間浸したあと、また日に当てて干した物を編み、最後に桐から取った油を塗って完成です。さらに、明の時代に書かれた歴史小説「三国志演義」にも藤甲は登場しており、蜀(しょく)の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)が藤甲で身を包んだ南蛮軍を相手に苦戦したエピソードが描かれています。

このように、中国では古代からたくさんの個性的な甲冑が作られてきました。ひとつ残念なことと言えば、これだけ多くの鎧があっても、刀剣とは違って中国武術ではほとんど使われないことでしょう。

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