歴史上の人物と日本刀

桑山氏から尾張徳川家へ渡った日本刀 短刀 上部当麻

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通常「名物」という言葉は、ある土地の特産品や評判になっている人物などのことを意味します。しかし、日本刀の名物は、美しい姿や由緒正しい背景を持つ「名刀」のことを指すのです。特に、「名物刀剣」と呼ばれる刀は、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に所載されている物。この名物帳は、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が、刀剣の鑑定を生業にしていた「本阿弥」(ほんあみ)家に編纂させた名刀リスト。これにより、世の中に名物としての刀剣の価値が広まり、武将達は自身の家の権威を示すため、名物刀剣を求めるようになったのです。 ここでは、そんな名物刀剣のひとつである短刀「上部当麻」(うわべたいま)の詳細とともに、それを買い求めた大和御所(やまとごせ:現在の奈良県御所市)藩初代藩主「桑山元晴」(くわやまもとはる)及び桑山氏についてご紹介します。

桑山氏の概要と御所藩の変遷

豊臣大名であった桑山氏

桑山重晴

桑山重晴

桑山氏の出自は、尾張国海東郡(おわりのくにかいとうぐん:現在の愛知県あま市)の桑山ノ庄であったと考えられています。しかし、海東郡芝山の出身で、初めは芝山氏と名乗ったのち、桑山氏に改称したとする説もあり、いずれも憶測の域を出ません。

そんな桑山氏の名が世に知られるようになったのは、元晴の父・重晴(しげはる)の頃。重晴は、織田信長の宿老であった武将「丹羽長秀」(にわながひで)に仕え、1570年(元亀元年)の「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)などで武功を立てます。その奮闘ぶりが羽柴(豊臣)秀吉の目に留まったことにより要請を受け、1574年(天正2年)からは、秀吉のもとで家臣として仕えることになったのです。

その後、1580年(天正8年)には、重晴は1万石で但馬(たじま:現在の兵庫県北部)竹田城主となりました。1585年(天正13年)、秀吉の異父弟・秀長(ひでなが)が和泉(いずみ:現在の大阪府南西部)や紀伊(きい:現在の和歌山県全域と三重県の一部)などに約64万石で封ぜられると、重晴は秀長の家老として和歌山城の城代(じょうだい:城主の留守中に城の管理や護衛などを任された家臣)に任ぜられ、3万石を与えられています。このときに元晴は、父とともに秀長の家臣となりました。

29年間に及ぶ桑山氏の御所藩支配

こうして、大和豊臣家に仕えるようになった元晴。しかし、1595年(文禄4年)に、秀長の養嗣子であった秀保(ひでやす)が17歳の若さで亡くなると、大和豊臣家は断絶してしまいます。そのため、翌1596年(文禄5年/慶長元年)から、元晴は秀吉直属の家臣となったのです。

また同年、父・重晴が出家した際には、重晴より1万石を分与されています。そして元晴は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では東軍に付き、父とともに参陣。その功績が認められ、大和葛上(やまとかつじょう)郡に2,000石を賜り、1万2,000石で御所藩を立藩。陣屋(じんや:城を持たない小大名のための屋敷)を置き、御所藩初代藩主となったのです。この1万2,000石のうち、のちに2,000石を重晴に譲渡し、1万石になっています。

さらに1606年(慶長11年)、重晴の死去に伴って隠居料から6,000石を分与されました。1609年(慶長14)年には、家督を継いでいた兄・清晴(きよはる)が第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の勘気に触れて改易処分となったため、清晴の和泉谷川(いずみたながわ)藩領1万石が御所藩に編入。最終的に元晴は、2万6,000石を領するまでになったのです。

その後も元晴は、1614年(慶長19年)・1615年(元和元年)の「大坂の陣」で首級を17も取るなどの武勇をとどろかせますが、1620年(元和6年)に、58歳でこの世を去っています。そして、元晴の跡を継いだ3男・貞晴(さだはる)が、1629年(寛永6年)26歳で急死。貞晴には子どもがいなかったため、自身の弟・栄晴(よしはる)を末期養子(まつごようし:当主が亡くなる直前、または亡くなってから緊急に迎え入れられる養子)にすることを幕府に嘆願します。しかし、これは認められず、桑山氏はお家お取り潰しとなり、29年間に亘る御所藩支配の歴史に幕を閉じることになったのです。

栄晴はのちに名跡相続のみが認められ旗本となり、その子孫も1,000石を与えられ、同じく旗本として存続しました。

桑山元晴にとっての名物刀剣

桑山保昌

桑山保昌

御所藩の藩祖となった桑山元晴は、国宝にも指定されている短刀「桑山保昌」(くわやまほうしょう)など、名物刀剣である日本刀をいくつも所蔵していたことで知られています。

名物刀剣の概念が広まったのは、「享保名物帳」が編纂された享保年間(1716~1736年)。すなわち、元晴が亡くなってから約100年もあとのことなので、元晴は名物となる刀剣の価値を、すでに見極める眼力を持っていたと言えるのです。

その理由のひとつには、元晴の父・重晴が、「千利休」(せんのりきゅう)から茶の湯、つまり茶道を学んだ茶人であったことが挙げられます。その系譜は、元晴の弟・貞晴(別名・小傳次[こでんじ])に受け継がれ、貞晴自身は、利休の長男「千道安」(せんのどうあん)に師事しました。そして、「桑山宗仙」(くわやまそうせん)と名乗り、利休の茶の湯を世に広めていったのです。

この宗仙の弟子には、大和小泉(やまとこいずみ:現在の奈良県大和郡山市)藩第2代藩主「片桐貞昌」(かたぎりさだまさ)がいます。貞昌は、茶人としては「片桐石州」(かたぎりせきしゅう)の名で知られ、第4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の茶道指南役となりました。これにより、武家茶道としての石州流が、多くの武士達の間で広がりを見せたのです。

この武家茶道は、現代にまで伝わる格調高い茶道。その始祖・石州のもとを辿れば重晴に行き着くことから、やはり重晴は茶人としての力量も相当高かったことが窺えるのです。

日本刀と同様、茶の湯の世界においても価値がある道具のことを名物と呼びますが、才能ある茶人であった重晴には、それらに対する審美眼も十分に備わっていたはず。そんな父の影響を受けて、元晴が茶道具のみならず、様々な物の良し悪しを見極める能力を培ってきたことは、ごく自然なことだと言えます。そして、それが、名物刀剣に選定されるほどの値打ちがある刀が、元晴のもとに集まってきた理由につながるのではないでしょうか。

日本刀 短刀 上部当麻

数々の名物刀剣を所持していた元晴ですが、その中のひとつに短刀である「上部当麻」(うわべ/かんべたいま)があります。「当麻」(たいま)は、平安時代後期から大和国で興った刀工集団「大和五派」(やまとごは)のうちの一派。

大和鍛冶は、僧兵(そうへい:中世から近世初頭に存在した、武装して戦闘に参加した僧侶)の出現に伴い、寺院のお抱え刀工になるのが主流で、当麻もまた、鎌倉時代中期頃から現在の奈良県葛城(かつらぎ)市にある「当(當)麻寺」に属していました。

短刀 上部当麻

短刀 無銘 名物上部当麻(當麻)

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
無銘 重要美術品 8寸3分5厘
(25.3cm)
桑山元晴→
徳川将軍家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

この上部当麻は、元晴が近江(おうみ:現在の滋賀県)国大津にて買い求めた日本刀。その後、桑山氏が改易となるときに手放し、紀州徳川家に移ったと見られています。しかし、同家はもう1振上部当麻を所有していたために道具替えを行ない、尾張徳川家に渡ったのです。

もとは桑山元晴が所持していたことから、この上部当麻は、初めは「桑山当麻」と呼ばれていました。しかし、上部当麻と称されているのは、本阿弥家が鑑定を行なう際に、紀州徳川家に残っていた上部当麻と混同してしまったためと考えられています。

1713年(正徳3年)、上部(桑山)当麻は尾張徳川家第5代藩主「徳川五郎太」(とくがわごろうた)の遺物として、将軍家に献上。「享保名物帳」には、「菖蒲樋」(しょうぶひ)と朱銘が彫られている旨の記載がありますが、実際には、表側に「素剣」(すけん)、裏側には「護摩箸」(ごまばし)の彫刻が見られます。これは、伊勢神宮御師(いせじんぐうおんし)の「上部貞永」(うわべさだなが)が所持し、1666年(寛文6年)に第4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)に献上したとされる、また別の1振である上部当麻と混同された物と推測されているのです。

桑山氏から尾張徳川家へ渡った日本刀 短刀 上部当麻

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