アジア・アフリカ 剣・刀剣・甲冑 (鎧兜)編
中国の刀剣
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中国の刀剣

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中国は、その長い歴史もあいまって、刀剣の歴史が非常に深い国です。日本とも海を隔てて近い土地柄であることから、中国の文化は日本によく流れ込んで来ており、それは、刀剣についても同様でした。ここでは、そのような中国における、代表的な刀剣の歴史や基礎知識などについてご紹介します。

中国刀剣入門

中国武術(剣術)

中国武術(剣術)

中国で戦国時代(紀元前403~221年)に書かれた兵法書「尉繚子」(うつりょうし)に「武器は凶器で、道徳に背く物である」と言う一文があるように、中国では古くから武器に対してしばしば否定的な意見がされてきました。

しかし、そんな思想とは裏腹に、中国の数千年に及ぶ歴史を振り返ると「戦のない時代はなかった」と言われるほど、中国は多くの戦乱を繰り広げてきたのです。長い戦の歴史の中で、中国では多くの武器が作られ、なかでも刀剣は古代から伝統的な武器として用いられてきました。

長い歴史を誇る中国の刀剣とは?

中国と言えば、カンフーと呼ばれる拳法などの武術が有名ですが、実は中国武術には武器を扱う物が多く、特に刀剣においては専門とした流派もあるほど。このことから世界の国々と同様に、中国でもあらゆる武器の中で刀剣が最も一般的な武器として認識されていたことが伺えます。

刀剣をはじめとする武器の分類方法

まず、中国の武器は大きく2つに分類されます。火薬を使用した銃や大砲などを「火器」(かき)、火薬を使用しない刀剣や弓矢などを「冷兵器」(れいへいき)と呼んでいるのです。さらに刀剣を含む冷兵器は間合いの距離により3つの武器に分類され、間合いの距離が長い順に、弓矢などの「遠射兵器」(えんしゃへいき)、槍や大きな刀などの長い柄が付いた「長兵器」(ちょうへいき)、主に刀や剣などの「短兵器」(たんへいき)に分かれています。

長兵器と短兵器の境界は、成人男性の眉を越える長さかどうかを基準としていますが、それぞれの身長によって異なるため、その境界は曖昧な物とされているようです。

さて、短兵器と長兵器に分類されている刀剣ですが、「刀」と「剣」には大きく違う点があり、片刃の刀剣を刀、両刃の刀を剣として分類しています。ただし、例外として両刃でありながら「二郎刀」(じろうとう)と呼ばれる刀も中国にはあります。

中国刀剣の歴史

中国刀剣

中国刀剣

紀元前17世紀から紀元前11世紀まで続いた中国古代王朝の商(殷とも呼ばれる)の時代には、すでに青銅を使った武器の生産が始まっていました。しかし、この頃はまだ刀剣を作るための貴重な資源が十分に確保できず、また硬くて薄い刃を生産するための技術力も伴っていなかったため、安定した生産ができませんでした。

そのあと、春秋時代(紀元前770~紀元前403年)末期になると、湖や森林が多い南方の呉(現在の蘇州)や越(現在の江蘇省)、楚(現在の湖北省)といった資源が豊かな国において刀剣が多く作られ、鋳造技術の発展によって大量生産が行なわれるようになりました。

また、中国では時代のニーズに合わせて刀剣も様々なかたちへ変化を遂げてきました。春秋時代から漢(紀元前202~220年)までは、武器は剣が主流とされていましたが、漢の時代に騎兵が発達したことにより、次代の三国時代(220~265年)になると、斬ることを目的とした直刀が流行しました。直刀ブームは唐(618~907年)まで続き、この時代に中国刀は完成され、その後、日本刀の誕生に影響を与えたと言われています。

宋(960~1279年)の時代になると重装騎兵に対抗するために重い刃を付けた長兵器「大刀」(だいとう)が流行しました。また、この頃から現代の中国でも馴染み深い曲刀が主流の武器として使われるようになり、明王朝の嘉靖(1522~1566年)から17世紀にかけては、日本から日本刀も伝わり、中国において大流行しました。

2500年以上前から作られていた中国剣と、日本にも輸出された中国刀。この2つの武器は多くの戦とともに発展を遂げ、現在もその悠久の歴史と伝統が中国武術に受け継がれているのです。

では、これから歴史を彩った中国の刀剣類を観ていきましょう。

中国刀剣史を豪壮かつ華やかに飾る「大刀」

大刀

大刀

中国における両手用の刀剣は、およそ2000年も前に作られていたと言われていますが、中国で両手用刀剣と言うと、特に大刀(だいとう)と呼ばれる片刃の大きな刀剣が広く知られています。

1937年の日中戦争でもこの刀剣が中国軍の武器として使われており、このとき中国の兵士は、大刀なら日本兵の頭を一撃で断ち切ることができると豪語していたようです。

三国志の英雄・関羽も大刀の使い手だった!?

大刀は、長い柄に鎌のような幅広の片刃が付いた刀剣で、日本の薙刀(なぎなた)と呼ばれる大型の武器のような形状をしています。木製の柄の先端には鉄製の「いしづき」が付けられており、柄と刀身を合わせた全長が2~3m前後と非常に大きく、重量は18~24kgと日本刀の10倍以上の重さがあります。最も重い大刀はなんと54kgと言う物も。重く反りのある刀身は、単に「斬る」だけではなく、重量を武器に「たたき斬る」ために作られており、その威力は鉄の鎧を装着した敵にも致命的なダメージを与えることが可能なほどです。

中国の長い歴史とともに歩んできた大刀

大刀の起源は、紀元前206年~8年の前漢時代まで遡ります。この頃、対騎兵用の兵器として「斬馬剣」(ざんばけん)と呼ばれる、両刃の刀身に長い柄が付いた大型の剣が誕生しました。これが片刃の大刀と両刃の二郎刀の原型だと言われています。

唐の時代には、すでに現在の姿と同じ大刀が完成しており、それを受け継いで、宋の時代に大刀の全盛期が到来します。北宋(ほくそう)期(960~1127年)に書かれた軍事書「武経総要」(ぶけいそうよう)には、大刀の主な種類として、屈刀(くっとう)、偃月刀(えんげつとう)、眉尖刀(びせんとう)、鳳嘴刀(ほうしとう)、筆刀(ひっとう)の5つのタイプに分類されていたことが記されています。

なかでも「偃月刀」は、中国を代表する歴史小説「三国志演義」に登場する猛将・関羽(かんう)の愛刀として描かれたことから、現代に至るまで最もポピュラーな大刀であり、大刀=偃月刀として語られています。しかし、史実では三国時代に偃月刀の存在はなかったため、実在する関羽はどうやら大刀の使い手ではなかったようです。

また、偃月刀は華やかな装飾が施されていたため大刀の中でも最も重く、実際には実戦向きではなかったので主に演武や訓練で使われていました。明の時代(1368~1644年)になると、この偃月刀と実戦用に作られた鉤鎌刀(こうれんとう)の2種類だけとなり、新しい兵器として火器が主流となったことで大刀などの長兵器は次第に戦場から姿を消していきました。

明の次の時代である清(1644~1911年)では、国の治安維持を担う兵士・緑営(りょくえい)だけが挑刀(ちょうとう)、寛刃刀(かんじとう)、片刀(へんとう)、虎牙刀(こがとう)といった4種類の大刀を使うようになりました。これらの大刀は日常的に扱いやすくするために、全長が170~240cmと本来の大刀よりも少し短く作られていたのです。

こうして、およそ1000年のときを歩んできた大刀は、中国の刀剣史で欠かせない、中国を代表する刀剣となりました。

戦場における大刀の使い方

南宋(なんそう)時代(1127~1279年)初期に宋軍における重装歩兵の主要武器となった大刀の基本戦術を見てみましょう。まず、重装騎兵の突撃に対抗するために、兵士よりも防御力が劣る馬の足を薙ぎ払います。次に乗り手の胸を狙い兵士にダメージを与えて打ち落とすのです。

このように宋軍の歩兵は騎兵を見上げることなく、馬の足元を狙ってひたすら攻撃をすることで勝利を掴みました。しかし2~3kgにも及ぶヘビーな武器を振り回して戦っていた当時の歩兵達は、一体どんな厳しい訓練を受けていたのか気になるところです。

中国の英雄神が由来となった「二郎刀」

二郎刀

二郎刀

中国の三大宗教のひとつである道教の武神・顕聖二郎真君(けんせいじろうしんくん)をご存知でしょうか。中国を代表する伝奇小説で、日本でもお馴染みの「西遊記」(さいゆうき)で英雄神として活躍する二郎真君は、別名・二郎神(じろうしん)として中国で親しまれている神様です。

また西遊記と同じく明に書かれた神怪小説「封神演義」(ほうしんえんぎ)では楊せん(ようせん)として登場し、その名が知られています。二郎刀はそんな中国の神様にまつわる刀剣です。

三国志武将の愛刀としても描かれた長柄武器

額に第3の目を持ち、甲冑で身を包んだ姿で登場する二郎真君がその手に持っていた刀剣は、「三尖両刃刀」(さんせんりょうじんとう)と呼ばれる刀剣で、少々珍しい形状をしています。その名の通り、矛先が3つに分かれた両刃に長い柄が付いている長兵器で、長柄の剣のような形状をしていますが、刀剣として認識されており、先述の小説が中国で大流行したことをきっかけに、このような形状の武器を二郎刀と一般的に呼ぶようになったと考えられています。

二郎刀の刀身は三つ又の先端にかけて幅広になっており、刃の長さは約75cmで長兵器の大刀よりもやや短めで、柄を入れた全長は約3m、重量は9kgほどの物が一般的に使われていました。

また、実戦で扱いやすいように全体を2mほどに短縮した物も作られていたようです。二郎刀は、長い柄を利用して上から下へ振り落として斬ることが実戦での基本的な使い方ですが、刀剣として斬るだけでなく、鋭く強靭な三つ又の矛先を活かして槍のように突き刺すことも可能です。

二郎刀は西遊記以外でも、同じく中国四大奇書(ちゅうごくしだいきしょ)として有名な「三国志演義」と「水滸伝」(すいこでん)にも武器として登場しており、三国志演義では武将たちの愛刀として、そして水滸伝では9匹の青龍の刺青で有名な「九紋竜」(くもんりゅう)と呼ばれた「史進」(ししん)が二郎刀の使い手として描かれています。

二郎刀変遷史

二郎刀のルーツは、もともと前漢の頃に作られた斬馬剣と言う刀剣にあります。この刀剣は、漢の時代に入ると騎兵戦が増えたことから、馬を斬るための兵器として生み出された物で、二郎刀と同じく大刀のルーツでもあることから長兵器の原型であると言えます。

それまでは、短兵器である普通の剣では刃を厚くすることができず、薄く脆い両刃の剣は折れやすいと言う欠点がありました。そこで厚く強靭な刃にも耐えられるように、長い柄に幅の広い両刃の刀身を付けた斬馬剣が考案され、対騎兵用の武器として広く使われるようになったのです。

さらに、斬馬剣を改良した物が隋(581~618年)から唐の時代にかけて流行した両刃の陌刀(はくとう)です。唐の時代には片刃に改良された大刀も登場し、この頃から区別されるようになりました。唐の軍隊で装備されていた陌刀は、数人の兵士を軍馬もろともたたき斬るほどの威力を持っていたと言います。

また宋の時代に編纂された「武経総要」に記述がある「掉刀」(ちょうとう)が陌刀の伝統を継ぐ両刃の刀剣であると考えられています。そして明になり、これらの両刃で長柄の刀剣が二郎刀と言う呼び名で統一されるようになっていったのです。

二郎刀は、古代中国の歴史書が好きな人なら必ず一度は目にしたことがある刀剣だと思います。剛強な力の象徴として描かれてきた二郎刀は、中国を代表する英雄たちと同じように長年愛されてきた刀剣だと言えるでしょう。

日本の刀剣にも影響を及ぼした「直刀」

今日、私達が目にしている日本刀と言えば、反りのある刀身の湾刀ですが、日本刀の創生期である古墳時代から平安初期にかけて作られていた刀剣は真っ直ぐな刀身の直刀(ちょくとう)でした。

この直刀は、中国の前漢の時代に誕生した刀剣が古墳時代に日本へ伝来し、その影響を受けてつくられた物ではないかと考えられています。

漢王朝は中国刀剣史の転換期!剣から刀へ

中国の刀の歴史は、最古の武器とされている剣と同様に古くから始まり、紀元前17世紀の王朝・商(殷)の頃にはすでに青銅の刀が剣と同じように使われていました。そのあと、西周(紀元前1100年頃~紀元前771年)から春秋の時代(紀元前1100~403年)になると優れた剣が多く生産されるようになり、短兵器を代表する武器として剣が流行しました。

しかし、漢(紀元前206~220年)の時代に異民族との戦争により騎兵の強化が始まると、折れやすい両刃の剣から頑丈な片刃の刀への需要が次第に高くなり、やがて騎兵だけでなく歩兵も刀を標準的に装備するようになっていきました。このように軍隊の武器として剣から刀が主流となっていったのは、刀が低コストで大量に製造できる武器だったことも大きく関係していたと考えられます。また軍隊だけでなく、皇帝や政府の人間たちの間でも刀が普及し、剣は儀式や祭典のときだけ身に付けると言う習慣へ変化していきました。

こうして漢の時代に発達した直刀は宋の時代になるまで大量に作られ、モンゴルの民族や、ベトナム、朝鮮、日本に輸出されアジアの刀剣に広く影響を及ぼしました。

日本に伝来した「環首刀」

直刀 環首刀

直刀 環首刀

直刀に分類される環首刀(かんしゅとう)は、前漢から南宋(1127~1279年)にかけて短兵器の代表的な武器として最も使用されていました。また1900年に起こった義和団の乱(ぎわだんのらん)では反乱軍が環首刀を愛刀としていたことから、およそ19世紀にも及ぶ長い期間、中国では実戦で使われていたと考えられます。

柄の先端に刀環(とうかん)と呼ばれるリングが付いた環首刀は、刀環から刀身まで一体として成形され、刀身は細く、長さは90cmほどで、柄は握りやすいように皮革や鮫皮が巻かれている物が主流でした。南北朝時代(420~589年)になると、リング状の刀環に変化が観られ、龍、鳳、麒麟、獅子、象などの伝説の生き物や動物を象った物が流行しました。また唐以降には、手を保護するための刀格(日本刀の鍔の部分)が付いた物が作られ、唐の時代に環首刀は完成期を迎えました。

日本では飛鳥から奈良時代(6世紀末~794年)にかけて柄頭にリングが付いた直刀が作られており、「正倉院」(しょうそういん)の御物(ぎょぶつ:皇室の所有物)として現存している物もあります。この時代の直刀は、古墳時代に日本へ伝来した環首刀の影響を受けて作られたのではないかと考えられています。

中国刀剣史に刻まれる名刀

中国の刀剣は単なる武器や道具と言う位置付けだったため、剣に比べて圧倒的に無銘の物が多く、日本刀のように号(通称)もほとんど付けられていませんでした。そんな中、歴史書に名を刻んだ中国の直刀を少しだけ紹介しましょう。

戦乱が巻き起こる三国時代(184~280年)に蜀(しょく)の軍師・諸葛亮(しょかつりょう)へ、彼の部下である「蒲元」(ほげん)から3000本の刀剣が献上されました。川の水質にこだわって作られたその刀剣は、非常に鋭い切れ味で「神刀」(しんとう)と呼ばれていました。

また五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(304~439年)の夏(407~431年)の創建者である赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)の愛刀「大夏龍雀」(たいかりゅうじゃく)は、百煉鋼(ひゃくれんこう)と呼ばれる高度な技術を駆使して作られた刀剣で、その銘には春秋時代に作られた宝剣・湛盧(たんろ)と肩を並べるほどの名刀であると刻まれていました。

そして、南北朝時代の北斉(550~577年)に活躍した刀匠・キ母懐文(きぼかいぶん)が鍛えた「宿鉄刀」(しゅくてつとう)はこの時代を代表する名刀と言われており、試し斬りの際に鎧を護るために付けられる頑丈な鉄札を30枚斬ってみせたと伝えられています。

このように中国で代々受け継がれ、進化してきた刀の歴史を振り返ると、当時の中国は世界的に見ても、非常に高い鍛造技術を持っていたことが分かります。中国刀剣はこの直刀の時代に大きな発展を遂げたのです。

その発展の中で、中国の刀剣は、青銅器の時代から反りがある刀剣が作られていたり、暗殺に適した刀剣が作られていたりと、様々な種類の物が開発されていました。また、中国と接していながらも、独自の文化が発展してきた「モンゴル」や「チベット」にも、それぞれ独自の刀剣文化が根付いていたのです。

軍隊から武術まで中国を代表する刀「呉鉤」

呉鉤

呉鉤

古代中国の刀剣と言えば直刀が主流ですが、反りのある刀身の「曲刀」も青銅器時代には出現していました。しかし、曲刀が中国全土で広く使われるようになったのは、中世から近代のことだったのです。そして、直刀よりも斬ることに優れていた曲刀・通称:呉鉤(ごこう)と呼ばれる刀剣の再評価によって、中国刀剣史において、さらなる転換期を迎えたのです。

バラエティ豊かな呉鉤

曲刀全般を意味する「呉鉤」という名称は、春秋時代に呉(ご:現在の江蘇省の南部)の王が、反りのある鋭利な曲刀を鍛えさせたことが由来。曲刀が再評価され流行した唐の時代の文人が呉鉤と表記したことで、その名が受け継がれるようになりました。

呉鉤は基本的に刀首(日本刀の柄頭)、刀柄、刀身、刀格で構成されており、ゆるやかに湾曲した片刃の刀で、刃の付いていない方を「刀背」(とうはい)と呼び、刀身の強度を上げるため、この部分にはやわらかい鋼鉄を使用します。全長は、手を垂らした状態で天に向けて刀剣を持ち、鋒/切先(きっさき)が耳を超えないくらいの長さで、重量は0.7kg以上の物が標準とされていました。

刃の形が柳の葉に似ている「柳葉刀」(りゅうようとう)が、一般的な曲刀として知名度も高く、現在も中国武術の世界で使用されている代表的な中国刀です。これ以外にも、呉鉤の種類は多種多様で、鋸のような刃の形状をした「鋸歯刀」(きょしとう)や、刀背にリングの付いた「環刀」(かんとう)などがあります。

曲刀が再評価された背景にあった物とは?

唐の時代に曲刀が復活したのはなぜか。その答えは、589年に起こった南北朝の終焉と中国統一にあります。

中国の南方地域では、曲刀が青銅器時代から使用されていました。これは南方地域の環境が大きく関係しています。現在の雲南省でも自然遺産が認定されているように、南方地域は古くから広大な山岳地帯。武器としてだけでなく、植物などを伐採して土地を切り開くための道具としても、曲刀が伝統的に使われていたのです。

剣や直刀の全盛期を迎えてもなお、南方の民族は、代々伝わる様式に倣い曲刀を使っていたため、南北朝時代にこの地域を領土とした南朝に、曲刀の伝統が受け継がれ、方々に広まっていったのです。そして、南北朝の王朝は隋として統一され、およそ300年間続く唐の時代に、曲刀が国中に浸透していきました。

さらに、宋の時代に入ると、湾曲した騎兵用サーベルで戦うモンゴル軍が中国を統一したことにより、曲刀は最盛期を迎えます。清の時代初期になると、日本から伝わった日本刀の全盛期がやって来ますが、中国伝統の曲刀は廃れることなく、軍隊や民間、武術においても広く使われていきました。

闇討ちのために隠し持つ「匕首と柳葉飛刀」

ヒ首

匕首

敵を暗殺する際に使う隠し武器のことを中国では「暗器」(あんき)と呼びます。暗器は、中国武術の流派が発展するとともに大きく進化を遂げ、各流派で独自の暗器が開発されていました。

また、火器の発達で拳銃が登場してからも、冷兵器(火薬などの爆発による殺傷力を用いない兵器)である暗器は機密的な開発が続けられていたと言います。数多くある暗器の中でも、中国で特に有名なのは、「匕首」(ひしゅ/あいくち)と「柳葉飛刀」(りゅうようひとう)です。

暗器を代表する短剣匕首

中国の歴史書「史記」(しき)には、歴史的に有名な5人の暗殺者の逸話が描かれている「刺客列伝」があります。この列伝の中で、最も活躍しているのが匕首という隠し武器で、西洋のダガーや日本の合口のように護身用にも使われる短剣です。暗器のなかでも第一線で活躍してきた歴史は長く、シンプルながら最も優れた暗器だと評価されるほど中国の刺客達には欠かせない存在です。全長約30cm前後の物が一般的で、初期には青銅で作られていましたが、戦国時代以降は鋼鉄製の物が主流となりました。主に接近戦のときに片手で使われますが、両手に1本ずつ匕首を隠し持って攻撃することもありました。

中国の名高い刺客たちは、様々なアイディアを練って匕首による暗殺を企てていました。例えば、春秋時代に呉国の第5代王であった呉王僚(ごおうりょう)の奇襲を企てた専諸(せんしょ)は、匕首を焼き魚の中に隠し、隙を見て殺したそうです。

また、戦国時代末期の刺客・荊軻(けいか)が、のちに始皇帝となる秦王の暗殺を試みたときには、領地の割譲を装い、持参した巻物状の地図の中に匕首を隠し、不意打ちを狙っています。さらに、この匕首は一撃必殺のために刃に毒薬を染み込ませた特殊な焼き入れがされている物だったと言われています。

柳葉飛刀

柳葉飛刀

柳葉飛刀

日本の手裏剣のように、投げて攻撃するために作られた暗器、柳葉飛刀。重さは標準的な物で約370gと非常に軽量化された短刀で、刃の形状が柳の葉に似ているため、このような名称で呼ばれています。刃と柄には鋼鉄を使い、刃は他の短刀よりも薄く、先端が突き刺さりやすいように非常に鋭くなっています。

柳葉飛刀は12本で1セットとされており、通常はセットで1本の鞘の中に収納されています。長い修練を積まなければ、飛刀の使い手にはなれません。しかし、鍛えられた名手ともなれば、その飛距離はなんと約200mにも及ぶと言われています。

また、飛刀は本来実戦で使う武器として発案された物ではなく、曲芸の道具として誕生しました。刀剣を投げる曲芸は、中国では前漢(紀元前202~8年)時代から続く伝統的な演目で、それがやがて柳葉飛刀のような形で武術に取り入れられたと考えられています。

明の時代の伝奇歴史小説、水滸伝の中で、八臂なた(はっぴなた)の愛称で知られる項充(こうじゅう)が24本の飛刀を操る名手として描かれているため、この頃に実戦用の飛刀が作られていたのかもしれません。

モンゴルやチベットで使われていた刀剣とは?

12世紀の初めに中国の北に築かれたモンゴル帝国。中国の西部に位置し、7世紀に統一国家となったチベット。いずれも、長い歴史の中で、独自の伝統を築いてきましたが、中国をはじめ隣国と戦うことの多い彼らが使用する刀剣とは一体どのような物だったのでしょうか。

中国刀剣史を動かした遊牧民族の刀剣

モンゴル族などの遊牧民族は、弓や投げ槍などの武器とともに剣を愛用していました。漢(紀元前202~220年)の時代に中国の脅威であった匈奴(きょうど)と言う遊牧民族は古くから日常的に馬に乗って生活していたため、騎兵戦で中国を圧倒していました。

この民族と同一説がささやかれている北アジアの騎馬民族フン人も、4世紀頃にヨーロッパへ侵入した際に剣を主要武器としており、真っ直ぐな両刃の剣を木と革で作られている鞘に納めて革帯に吊るしていました。フン人は身にまとう物や生活品に対して装飾などは一切行なわない民族でしたが、剣を入れる鞘においては装飾的な物が作られ、贈呈の品としても扱われていたと伝えられているのです。

一方、モンゴル族が古代から使用していた剣は刃の先端が幅広な物で、斬るのではなく敵の兵器を払いながら突き刺すという攻撃をしていました。その後、元(1271~1368年)の時代に中国を侵略した際には、モンゴル軍は長い槍と騎兵用のサーベルを主要武器として戦い、このサーベルはユーラシア大陸中央部で暮らしていたチュルク語系の民族が8世紀から使用していた剣だと言われています。これをきっかけに次代の明王朝では騎兵用に深く湾曲したサーベルが武器として採用されました。

このように遊牧民族たちの剣と交わることで、中国刀剣は刺激を受け対抗するように形を変えていきました。

華美な装飾が特徴的なチベットの刀剣

パタン

パタン

世界最大級の雄大な高原と多くの河川が流れるチベットは、中世以降の長い期間モンゴルと中国に支配されていました。そのような中で、チベットの華やかな伝統衣装のように、美しい装飾が施されたチベット独自の刀剣が作られてきました。

チベットでは西洋的なロングソードのような剣が起用されており、名称は「ケードリー」や「パタン」と呼ばれていました。片刃の剣身で鋒/切先に浅い傾斜があり、剣身の平均的な長さは65cmほどの物が多かったようです。ターコイズやサンゴの象眼が一面に施されている非常に装飾的な柄と鞘で、伝統衣装である長い毛織物の腰帯に挟んで持ち歩いていました。

なかでも、かつてチベットを支配していた明の第3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)に贈られた剣は最高級品と称えられており、獅子の頭がモチーフの特徴的な剣格に、鞘には中国的な幾何学模様である雷文と浮き彫りの繊細な装飾が施されています。

銀細工や宝石が贅沢にあしらわれたチベットの剣は、武器としてではなく芸術品としての価値が高かったようで、明の王朝へもチベットの剣のようなきらびやかな宝剣が献上されています。

中国の刀剣

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