歌舞伎の名立師をご紹介
名歌舞伎役者の立師①
歌舞伎の名立師をご紹介
名歌舞伎役者の立師①

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歌舞伎で立廻り(たちまわり:日本刀での斬り合いや格闘場面)の振付師を「立師」(たてし)と言います。その中から、市川市十郎(いちかわいちじゅうろう:1905~1983年)、二代目市川猿四郎(いちかわえんしろう:1966年~)、市村橘太郎(いちむらきつたろう:1961年~)をご紹介します。

戦後の上方歌舞伎の立廻りをけん引した五代目市川市十郎

屋号 小紅屋(こべにや)
本名 野路長三郎

五代目市川市十郎は、上方歌舞伎の由緒ある名跡・小紅屋市川市十郎を五代目として襲名し、老巧な脇役として活躍した歌舞伎役者で、戦後の上方歌舞伎の立廻りをけん引した立師です。

歌舞伎発祥の地・関西で活躍

五代目市川市十郎

五代目市川市十郎

五代目市十郎は、名脇役であり名立師であったことから、度々東京への転籍を請われましたが、その生涯を上方歌舞伎に捧げました。

上方歌舞伎とは、江戸時代の歌舞伎の2大勢力のひとつで、主に大阪と京都を中心に発展した歌舞伎の総称。江戸で発展した江戸歌舞伎に対比する言葉として使われます。

もともと、歌舞伎の始まりは1603年京都から。歌舞伎の語源である「傾く」(かぶく)は、江戸時代の初めに使われていた言葉で、常識を逸した言動や型破りな様子を指した言葉です。そこから、当時、奇抜な格好をして街を闊歩していた若者達を「傾き者」と呼ぶようになりました。

そうした当時の流行の最先端を取り入れ、京都四条河原や北野神社の仮設舞台において男装姿でエキセントリックな踊りを披露していたのが、出雲大社の巫女であった阿国(おくに)です。

阿国一座はのちに江戸でも興行を展開し、これを「かぶき踊り」と呼び、歌舞伎の始まりとされています。

上方歌舞伎の特徴

「江戸の荒事(あらごと)・上方の和事(わごと)」と歌舞伎の世界ではよく言われますが、これは江戸歌舞伎が誇張された扮装や派手な隈取(くまどり)、大きな見得(みえ)といった「荒事」という勇壮な芸を創り出したのに対し、上方歌舞伎は「和事」と呼ばれるやわらかい、味のある芸を特徴としているためです。

これは元禄期に、上方歌舞伎の創始者のひとりであった初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって完成しました。

上方歌舞伎の名跡・市川市十郎の五代目として活躍

五代目市十郎は京都南座の楽屋に出入りする鮨屋の息子に生まれ、1912年に南座で初舞台を踏みます。しばらくは主に京阪の中小芝居で修行経験を積み、1949年坂東簑助(ばんどうみのすけ)、のちの八代坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)の門下となり、1951年に簑三郎と改名して名題昇進、翌年五代目市川市十郎を襲名。

身体全体から滲み出るような上方らしい味とねばりのある芸風とともに、故実(昔の儀式や作法などの決まりや習わし)にも通じるなど、非常に博学であったことでも知られ、上方歌舞伎の老巧な脇役として活躍しました。

豊かな知識をもとに生み出された立廻りの名型

五代目市十郎は、こうした活躍をもとに、立師としても数々の名型を残しています。

中でも、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)原作で、現在も頻繁に上演されている「女殺油地獄」(おんなころしあぶらのじごく)と「曾根崎心中」(そねざきしんじゅう)の立廻りは代表作で、現在も踏襲されています。

立師・五代目市川市十郎の代表的な演目

五代目市十郎考案の立廻りが見られる代表的な演目には、次のような物があります(演目名は通称もあり)。

女殺油地獄 売り物の油がこぼれた中を逃げ回るお吉に対し、血と油に滑りつつ、とどめをさす与兵衛の場面
曽根崎心中 生玉境内(いくたまけいだい)の場での立廻り

この他、「小さん金五郎」(こさんきんごろう)や「野晒悟助」(のざらしごすけ)でも、立師として伝統を踏まえた上で、独自の工夫を加えた立廻りを披露。

スーパー歌舞伎でも知られる猿翁一座の立廻りを支える市川猿四郎

屋号 澤瀉屋(おもだかや)

二代目市川猿四郎は、スーパー歌舞伎というジャンルを創った澤瀉屋一門の立師として、数多くの作品の立廻りを創り出しています。

また、歌舞伎座の「歌舞伎座ギャラリー」において不定期で開催される一般向けの立廻り講座の講師を務めており、彼の「歌舞伎立廻り伝授~どんたっぽ篇」は、毎回大いに賑わう講座となっています。受賞歴は、第3回日本俳優協会賞奨励賞(1997年)など。

歌舞伎俳優研修の修了生としてスタート

立ち姿の例

立ち姿の例

二代目猿四郎は、国立劇場の「歌舞伎俳優研修」の第9期の修了生です。1988年、田村俊晴の名で、歌舞伎座「仮名手本忠臣蔵」の中間他で初舞台。同年に三代目市川猿之助(いちかわえんのすけ、現・猿翁:えんおう)に入門し、二代目市川猿四郎に。2000年に名題に昇進しています。

堂々たる体躯、造作の大きな顔にギョロッとした目が大きな特徴で、よく通るセリフ、きびきびと切れ味の良い身のこなしも魅力です。

どんな役でも意欲的に取り組む芸熱心で、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作「傾城反魂香」(けいせいはんごんこう)の不破伴左衛門の熱演は、歌舞伎通によく知られています。

故・四代目猿十郎の志を受け継ぎ

二代目猿四郎には、澤瀉屋一門の立師として志を受け継ぐ人物がいます。同じ研修生出身(第3期)で、40代半ばで早世した四代目市川猿十郎(いちかわ猿十郎:1959~2004年)です。立廻りの神様と言われた故・坂東八重之助が、そのキビキビした立廻りの腕をおおいに買っていた人物で、1998年には「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)の立師としての成果で歌舞伎座賞を受賞。

二代目猿四郎は、この四代目猿十郎のあとを継ぎ、澤瀉屋一門の脇を固めつつ三代目猿之助(現・猿翁)の復活歌舞伎やスーパー歌舞伎の再演などで、立師として経験を重ねました。

古典歌舞伎から新ジャンルまで

歌舞伎版「ワンピース」

歌舞伎版「ワンピース」

そういった経験をもとに、四代目・市川猿之助のスーパー歌舞伎II「空ヲ刻ム者 ―若き仏師の物語―」やアニメを歌舞伎化した画期的な作品「ワンピ―ス」においても、新たな立廻りを創造しています。

また、「蜘蛛の拍子舞」(くものひょうしまい)など古典歌舞伎はもとより、小説家・三上於菟吉(みかみおときち)がジョンストン・マッカレーの「双生児の復讐」を下敷きに、「白浪五人男」(しらなみごにんおとこ)の弁天小僧や「三人吉三」(さんにんきちさ)のお嬢吉三などからヒントを得て翻案した作品を歌舞伎化した「雪之丞変化」(ゆきのじょうへんげ)、早替りを駆使しひとりが10役をこなす「慙紅葉汗顔見勢」(はじもみじあせのかおみせ)通称「伊達の十役」、歌舞伎には見えない前衛的な作品と言われる「幻武蔵」(まぼろしむさし)などの新作歌舞伎、さらにはラスベガス公演の「獅子王」(ししおう)の立廻りにおいても、腕を振るっています。

新しいことへの挑戦は、歌舞伎以外の舞台でも発揮されており、ジャニーズの滝沢秀明主演のミュージカル「滝沢演舞城」(たきざわえんぶじょう)や宝塚歌劇団の「るろうに剣心」などの立師も務めるなど、その活躍の幅は広く、受け継いできた技術をもとに新しい立廻りを生み出し続けています。

立ち廻りの天性の資質が光る市村橘太郎

屋号 橘屋(たちばなや)

市村橘太郎は、「菊五郎劇団」で立廻りの神様と言われた坂東八重之助(ばんどうやえのすけ)から、厳しい指導を受けて修行したひとりです。

第9回松尾芸能賞新人賞(1988年)を皮切りに、第11回眞山青果賞助演賞(1992年)、第1回日本俳優協会賞奨励賞(1995年)、第9回日本俳優協会賞(2003年)などを受賞し、2016年には1月と7月に2回も国立劇場優秀賞を受賞しています。

人間国宝・十七代目市村羽左衛門に入門

子役として十七代目市村羽左衛門(いちむらうざえもん:人間国宝)に入門し、1967年に馬場正次の名で歌舞伎座「近江源氏先陣館」(おうみげんじせんじんやかた)通称「盛綱陣屋」(もりつなじんや)の小三郎他で初舞台。1968年、歌舞伎座「逆櫓」(さかろ)の遠見で坂東うさぎ、1981年には坂東橘太郎(ばんどうきつたろう)に改名します。

1995年の歌舞伎座「寿曽我対面」(ことぶきそがのたいめん)の秦野四郎で名題(なだい)に昇進。

2014年に播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)伝説を題材にした人気作「新皿屋舗月雨暈」(しんさらやしきつきのあまがさ)通称「魚屋宗五郎」(さかなやそうごろう)の三吉と、歌舞伎十八番のひとつ「矢の根」(やのね)の馬士畑右衛門で現在の市村橘太郎を名乗り、幹部に昇進しました。

ちなみに、歌舞伎十八番とは、七代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が得意な演目や市川家に伝わる芸などを選定した18の作品のことで、得意なことを「十八番」(おはこ)と言うのもこの歌舞伎十八番に由来した物です。

チャリから渋い老け役まで

橘太郎の天性の資質と言えるのが、身のこなしが軽く色気があること。それを存分に発揮した踊りと立廻りの上手さは、他の歌舞伎役者が一目置く程。

芸熱心で幅広い役柄を演じられる役者としても知られ、世話物の「於染久松色読販」(おそめひさまつうきなのよみうり)通称「お染の七役」(おそめのななやく)の番頭善六や、「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)の浜松屋の番頭といったチャリ(茶利:演劇用語で滑稽な物のこと)がかかった役柄から、「黒手組曲輪達引」(くろてぐみくるわのたてひき)の白酒売りの新兵衛(しんべえ)のような渋い老け役までこなし、常に重要な役に抜擢されています。

俳優祭で殺陣田村を歌舞伎の立廻りにアレンジ

橘太郎は、立師としての師である坂東八重之助のような、これと言った代表作はまだありませんが、師の教えを受け継ぎ様々なことに挑戦しています。かつて「新國劇」(しんこくげき:1917~1987)という劇団がありました。歌舞伎・新派と新劇との間の大衆演劇を目指した劇団で、歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物の演目で特に男性に人気のあった劇団です。その新國劇の傑作に、「殺陣田村」(たてたむら)があります。

歌舞伎では立廻りと呼ぶ闘争や捕り物などの格闘の演技は、現在は一般的に「殺陣」と呼ばれていますが、この殺陣に「たて」という読みを本格的に当てたのは、一説には新國劇の創始者・澤田正二郎(さわだしょうじろう)だと言われています。

新國劇は、舞踊的な美しさで見せる歌舞伎の立廻りとの違いを出すため、スピード感とリアリティを追求した格闘シーンを創り出そうとし、大正時代の1920年に大阪道頓堀弁天座で殺陣田村を初演。「剣劇」(けんげき)、あるいは通称「チャンバラ劇」とも言われる殺陣だけを取り上げた本作は大きな評判を呼び、以来演劇界では「殺陣=たて」が定着したのです。

この新国劇で受け継がれてきた剣劇の様式を、今度は逆に歌舞伎の立廻りにアレンジし披露したのが、2012年の俳優祭(歌舞伎役者の研修発表と、ファンとの交流を目的としたイベント)での殺陣田村です。演目名にある田村は謡曲「田村」のことで、坂上田村麻呂の霊が鈴鹿山の悪魔を退治した際の模様を語る謡と囃子に合わせ、二代目中村勘太郎(現六代目中村勘九郎)、十一代目市川海老蔵、三代目中村扇雀(なかむらせんじゃく)、三代目中村橋之助(現八代目中村芝翫:なかむらしかん)といった豪華な若手歌舞伎役者らが迫力ある剣のぶつかり合いを繰り広げつつ、息の合った鮮やかな立廻りが展開され、観客の目は舞台に釘付けになりました。これを立師として振り付けたのが、市村橘太郎(当時坂東橘太郎)です。

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