「沖田総司」(おきたそうじ)は、江戸時代末期の武士で、幕末の京都の警察組織である「新選組」(しんせんぐみ)最強の剣豪です。
若くして天然理心流道場「試衛館」(しえいかん)に入門し、近藤周助(新選組局長・近藤勇の養父)の内弟子となりました。
沖田総司は、近藤勇・土方歳三とともに「新選組一番隊組長」として活躍していましたが、労咳(ろうがい:結核)により病床に伏します。
療養の甲斐なく夭折(ようせつ)した天才剣士という沖田総司の悲劇的な生涯は、小説や映画などの世界で「薄幸の美青年」と脚色されて描かれてきました。
ここでは、沖田総司の生涯と、沖田総司の愛刀についてご紹介します。
沖田総司
沖田総司は、1842年(天保13年、または1844年[天保15年])、陸奥国(むつのくに:現在の東北地方の太平洋側)白河藩士・沖田勝次郎(諸説あり)の子として江戸の白河藩邸(東京都港区西麻布)で誕生。
沖田総司が4~5歳のときに両親が続けて亡くなってしまいます。幼い沖田総司に代わり、姉が家督を相続しますが、沖田家は白河藩を脱藩したため、生活に困窮するようになりました。
1850年(嘉永3年)、9歳の沖田総司は大人に剣術で勝って才能を認められ、天然理心流道場「試衛館」(しえいかん)に入門し、近藤周助(新選組局長・近藤勇[こんどういさみ]の養父)の内弟子となります。沖田総司の卓越した剣の実力は、若くして免許皆伝し、塾頭を務めるほどでした。
土方歳三
1863年(文久3年)、江戸幕府将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)上洛の際の警護のために「浪士組」(ろうしぐみ)隊士が募集されると、試衛館で同門だった近藤勇・土方歳三(ひじかたとしぞう)などとともに沖田総司も参加します。
しかし、浪士組を提案した清河八郎(きよかわはちろう)の突然の宣言によって衝撃的な事実が発覚。「将軍警護」は浪士組の表向きの理由で、清河の真の目的は、「尊皇攘夷運動」(そんのうじょういうんどう)だったのです。「尊皇攘夷」とは、君主を尊び、諸外国などの侵略者を排除しようとする思想ですが、幕府が行なった開国政策に反発したことなどから、反幕府勢力へと発展していました。
近藤達は、清河率いる尊皇攘夷派(討幕派)と分裂し、京都に残ることを決めます。彼らは京都守護職会津藩預かりの「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を結成、その中にはもちろん沖田総司の姿もありました。
この年は、尊皇攘夷運動が最高潮に達した年でした。京都は過激な尊攘派であふれ、「天誅」(てんちゅう:天に代わって罰を与えること)と称して反対派を暗殺する事件が連発し、朝廷でも長州藩士など尊攘派の影響が大きくなっていきます。
そんな中「八月十八日の政変」が起こり、会津藩や薩摩藩などの「公武合体派」(朝廷と幕府で連携して幕藩体制を再編しようとした勢力)が中心となって、尊攘派を京都から追放しました。この政変を契機に、壬生浪士組は新選組と名前を変え、京都の反幕府勢力を取り締まる警察組織として、本格的に始動することとなったのです。
歴女に人気の「新撰組」についてご紹介します。
沖田総司が所有していたとされる刀は、子母澤寛(しもざわかん)が伝える「菊一文字則宗」(きくいちもんじのりむね) 、そして「大和守安定」(やまとのかみやすさだ)、さらに「加州清光」(かしゅうきよみつ)の3振です。
沖田総司の愛刀と言えば、「菊一文字則宗」の名前が最初に挙がりますが、大名クラスでも入手の難しい国宝級の貴重な日本刀なので、経済的にも、実戦として使われたことからも、沖田総司が所有していた可能性は否定されています。
沖田総司は「天然理心流」の剣客であり、新選組最強と呼ばれていました。鍛えられた足腰と素早い動きからなる「三段突き」は、あまりの速さで、3回が1回に見えるほどだったと伝えられます。
新選組の名を一躍有名にした池田屋事件の際に、沖田総司が差していたと言われる日本刀が、この「加州清光」です。激戦の末、帽子(刃先)が折れてしまい、鍛冶屋に修理に出したものの、修理不可で戻ってきたという記録が残っています。刃先の折れた「清光」は、残念ながら後世には伝わっていません。おそらく鍛冶屋から戻った時点で捨てられたのでは、と言われています。
沖田総司は、切れ味が鋭く幕末の志士に人気だった「大和守安定」を所持していたという記録があります。紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)の刀工である「安定」は、江戸時代に記された刀工ランクで「良業物」(よきわざもの)に分類。「長曽禰虎徹」(ながそねこてつ)に影響を与えたと言われ、作風が似ているのが特徴です。
沖田総司が兄のように慕う近藤勇が「虎徹」(偽物説あり)を愛用していたことから、よく似た安定を身に着けていたのかもしれません。
沖田総司は「新選組一番隊組長」として、潜伏していた討幕派を襲撃した「池田屋事件」など数々の難任務で活躍するも、1868年(慶応4年)、「労咳」(今で言う肺結核)で喀血(かっけつ:肺など呼吸器系の器官から血を吐くこと)し、病の床に就いてしまいます。
発病時期については諸説あり、長年、池田屋襲撃中に喀血して倒れたとされてきました。しかし、喀血は労咳の末期症状で喀血後の余命は半年から1年ほどとされ、沖田総司の死亡時期が池田屋事件から数年を経ていることから、現在では1867年(慶応3年)頃までは喀血などの症状はなかったと見るのが定説となっています。
1865年(慶応元年)、幕府典医であった松本良順(まつもとりょうじゅん)により、新撰組約170人に対して健康診断を実施しました。このとき、「労咳」との診断を受けた者が1人いたと記録されていますが、それが沖田総司だったのではないかと言われています。
目がくらんで倒れたあと、大阪で療養し、再び戦線に戻ろうとしますが、途中で病状が悪化し、江戸に戻ることになります。この時代、「労咳」で亡くなった人は多く、同時代に生きた長州藩の高杉晋作も29歳の若さで亡くなりました。
「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦いで「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)のきっかけである1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」に向かう途中で再び倒れ、沖田総司は参戦することができませんでした。
永倉新八(ながくらしんぱち)が記した「新選組顛末記」によれば、この時に「労咳」が発症したとされています。
江戸で松本良順の治療を受けながら、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で療養しますが、約半年後の5月30日にその短い生涯を閉じます。
敬愛していた近藤勇の斬首から約2ヵ月後のことで、その死を知らぬまま、死の直前まで近藤勇のことを気にかけていたと言われます。享年27歳(24歳、25歳説あり)。
沖田総司の墓は、専称寺(東京都港区元麻布)の境内にあります。織田信長の側室であった「三光院清心比丘尼」が開基した由緒ある浄土宗のお寺です。戒名は「賢光院仁誉明道居士」と名付けられました。テレビ朝日や六本木ヒルズが近くにある都会とは思えないほど、立派な山門と厳かな雰囲気のある境内となっています。
残念ながら、現在は一部のファンによる迷惑行為のため、一般の方の立ち入りは禁止となりました。沖田総司の生誕地である白河藩邸(東京都港区西麻布)もすぐ近くにあり、こちらは桜田神社となっています。
1180年(治承4年)、源頼朝の令により建立したと言われ、1624年(寛永元年)に現在の場所に遷されました。沖田総司が初参りした地で、御朱印にも沖田総司の名が記されています。
家紋と言えば先祖代々伝わる家の紋章、家族のシンボルマークのようなものです。天皇家の「菊の御紋」や徳川家の「葵の紋」が有名ですが、沖田総司の家紋も「丸に木瓜」という人気の家紋で、「日本十大家紋」のひとつとされています。
もともと天皇や皇族の着物の柄を文様にして、牛車に付けたのが始まりと言われていました。
武家社会では、身分を表すひとつとして利用され、自分の紋付の着物や提灯に家紋を入れることでアピールしたのではと言われています。
沖田家の「木瓜紋」は、鳥の巣が卵を包んでいる形や瓜を輪切りにしたときの形と言われ、それを図案化したものです。沖田総司の眠るお墓にも「丸に木瓜」の家紋が付けられていました。
新撰組や沖田総司は人気があるため、家紋を使ったグラスや小物類が数多く作られています。
日本刀を持っていないときの沖田総司は、子供好きで無邪気だったと言われ、冗談を言ってはよく笑う、親しみやすい青年でした。しかし、いざ日本刀を持つと、暗殺や静粛等の任務も淡々とこなすことから、沖田総司を「政治的ポリシーを持たない殺人マシーン」と評する声もあります。確かに沖田総司には特に思想はなく、ただ、尊敬する近藤を助けることしか考えていなかったのかもしれません。
沖田総司は「病弱で色白の美剣士」として、フィクションの世界ではすっかりキャラクターが定着してきました。それだけに、沖田総司の物だとされる肖像画を見た瞬間、ショックを受けた人も多いのではないでしょうか。
この肖像画は、沖田総司の姉ミツが、自分の孫が沖田総司に似ていると言ったことから、その孫をモデルに1929年(昭和4年)に描かれた物で、実は沖田総司本人ではありません。しかし、残念ながら新選組の関係者による証言でも、「美青年であった」という記述はどこにも見当たらないのです。