武将・歴史人

勝海舟と刀

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「勝海舟」(かつかいしゅう)は、幕末の日本を語る上では欠かせない人物のひとり。幕末・明治に活躍した政治家として知られていますが、剣術に秀でており、剣豪でもありました。
勝海舟は、幼少期から島田虎之助より剣術を学び、直心影流(じきしんかげりゅう)免許皆伝になったほどの腕前と言われています。
16歳で家督を継いだ勝海舟は、永井青崖(ながいせいがい)より蘭学を学び、蘭学と兵法学の塾である「氷解塾」を開きました。
ここでは、勝海舟の歴史とともに、勝海舟の愛刀として伝わる、抜かれることがなかった「水心子正秀」(すいしんしまさひで)や徳川慶喜から贈られた「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)をご紹介します。

勝海舟の生い立ち

勝海舟

勝海舟

勝海舟は、江戸本所亀沢町の旗本の生まれで、幼名・通称は「麟太郎」(りんたろう)。名は「義邦」(よしくに)ですが、明治維新後に改名して「安芳」(やすよし)になりました。「海舟」は号です。

「勝海舟」と聞くと、幕臣として活躍したイメージを思い浮かべる方も多いかと思いますが、剣豪として名を挙げた人物でもあります。幼少期から、直心影流(じきしんかげりゅう)の名剣士である島田虎之助より剣術を学んでいました。

勝海舟の師匠である島田虎之助は、「幕末の三剣士」(天保の三剣豪)の1人で、「幕末の剣聖」とも呼ばれた凄腕の剣士。そんな島田虎之助のもとで修行をしていた勝海舟の稽古は、早朝から深夜に至るまで1日も休むことなく繰り返されたそうです。その結果、代稽古を勤め上げるほどの腕前に。そして見事、直心影流の免許皆伝を成し遂げたのです。

勝海舟は16歳で家督を継ぎ、永井青崖(ながいせいがい)について蘭学を修業、のちに私塾「氷解塾」(蘭学と兵法学の塾)を開きます。

1860年(万延元年)、勝海舟は日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節に随行した咸臨丸(かんりんまる)の艦長に就任。通訳のジョン万次郎や福沢諭吉らとともに、アメリカに渡航しました。

勝海舟は、明治維新後は新政府に入り、外務大丞・兵部大丞・参議兼海軍卿・元老院議官を歴任。その後1887年(明治20年)に伯爵、1888年(明治21年)には枢密顧問官に任官しています。
晩年は赤坂氷川で暮らし、1899年(明治32年)、脳溢血(のういっけつ)で倒れ死去。享年77歳でした。

勝海舟の愛刀

剣豪であった勝海舟の愛刀として知られている、2本の刀剣「水心子正秀」(すいしんしまさひで)と「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)についてご紹介します。

勝海舟の愛刀/水心子正秀

幕末の動乱を生き抜いた勝海舟は、殺し合うのではなく、話し合うことで解決策を見出そうと、決して自分では人を殺すことはありませんでした。
そのため、剣豪としての腕前を持ってはいましたが、愛刀であったと言われている水心子正秀は一度も抜かれることはありませんでした。

この刀剣を作ったのは、出羽国(現在の山形県)赤湯出身の水心子正秀です。江戸末期の刀工で、本名は「鈴木三治郎」。水心子正秀は「新々刀」の祖と言われ、多くの門弟を育てました。太平の世に慣れ、衰退しつつあった刀剣作りに「古刀」の鍛錬法を復元すべきと主張し、大きな影響を与えた人物です。

水心子正秀

水心子正秀

勝海舟の愛刀/海舟虎徹

勝海舟が愛刀とした海舟虎徹は、どういった経緯で勝海舟の手に渡ったかは知られていませんが、長年の功績により、15代将軍・徳川慶喜から贈られた物であろうと言われています。

この刀剣の名について、勝海舟の愛刀であったことから「海舟虎徹」と呼ばれました。
刀工は、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)。「正宗」(まさむね)と並んで刀剣の名工として称されています。「虎徹」とは、「長曽祢興里」(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名であり、作刀した刀剣の銘です。 いくつか別名があり、「興里」「長曽禰興里」「長曽禰虎徹」「乕徹」とも呼ばれています。

長曽祢興里は、もとは甲冑師で50歳を超えてから刀工に転じたのですが、斬れ味にこだわった作風が大名などの上流階級から大変人気がありました。しかし、この人気が高かったことから虎徹は贋作(がんさく)が多いことで知られ、在銘品の大半が偽物だと言われています。

海舟虎徹

海舟虎徹

ランク 刃長 所蔵・伝来
長曽祢興里真鍛作之 2尺2寸5分(68.2cm) 不明

坂本龍馬は勝海舟の愛弟子

坂本龍馬

坂本龍馬

幕末のキーパーソンである勝海舟と坂本龍馬は、師弟関係にありました。
日本人として初めて太平洋横断航海に成功した咸臨丸(かんりんまる)の艦長であり、アメリカに渡った経験を持つ勝海舟の提案により、幕府は1864年(元治元年)、海軍の人材育成のため、神戸に海軍操練所を設置しました。また、勝海舟が航海術を教える私塾の設立も許可。

アメリカで世界情勢を見た勝海舟は、幕府ではなく日本という国家に海軍が必要と考え、若者に航海術を伝授したいと思っていました。その勝海舟に弟子入りしたのが坂本龍馬です。

坂本龍馬は私塾では塾頭を務め、勝海舟の片腕として働きました。その成果もあって松平春嶽より5,000両もの資金援助を受けることに成功。しかし、勝海舟は、幕府が設置した海軍操練所へ反幕府の者にも入所を認めたため、軍艦奉行を罷免されてしまいます。そして1865年(慶応元年)、神戸海軍操練所と私塾は閉鎖に。その後、坂本龍馬は私設海軍と貿易会社をかねた亀山社中を結成しますが、これが海援隊の前身となります。

江戸を守った勝海舟と西郷隆盛

徳川慶喜

徳川慶喜

勝海舟を語る上で欠かせない功績と言えば、なんと言っても江戸城の無血開城です。日本の新しい幕開けは、勝海舟と西郷隆盛の2人によって創られたと言っても良いでしょう。

1867年(慶応3年)の大政奉還で、江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政権を朝廷に返上し、幕府は廃止されました。

しかし、1868年(慶応4年)、旧幕府軍が新政府軍に反発し、戊辰戦争が始まります。この内戦のなかで、新政府軍は、3月15日に江戸を総攻撃することを決めていました。しかし、それは、旧幕府の代表・勝海舟と新政府の参謀・西郷隆盛が、江戸城を新政府へ引き渡すために行なった交渉により、阻止されたのです。

この勝海舟・西郷隆盛会談の交渉で、西郷隆盛が幕府側の降伏条件を受け入れ、江戸の総攻撃を中止することができました。会談が行なわれたのは、3月13日と3月14日の2回。総攻撃直前の会談によって、戦うことなく平和裏に江戸城が新政府へ明け渡されることになりました。こうして江戸の危機はギリギリで回避され、江戸の町と100万人の市民が戦火から守られたのです。

明治維新後、勝海舟は新政府の誘いを断り、しばらくは徳川家と共に静岡(駿府:すんぷ)に退いていましたが、その後、明治政府で数々の役職に就きました。
明治政府に仕える勝海舟には批判の声も上がっていました。しかし一方で、勝海舟が、かつて朝廷の敵であった徳川慶喜を赦免させることに尽力したおかげで、徳川慶喜は、明治天皇より徳川宗家とは別に徳川慶喜家の創設を許され、華族の最高位である公爵を授与されて名誉を回復することができたのです。

現代人の心にも響く勝海舟の名言

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)・高橋泥舟(たかはしでいしゅう)と合わせて「幕末の三舟」と称えられた英雄、勝海舟。
先見力と政治力を持った勝海舟は、和歌や漢詩にも秀でていました。数々の名言を残したことでも知られており、それらを集めた書籍が出版されているほどです。
こちらでは、勝海舟が残した名言の一部をご紹介。己を信じ、強い信念を持って、幕末から明治にかけて激動の時代を生き抜いた勝海舟の言葉は、現代人の心にもしっかりと響くものばかりです。

世の中に無神経ほど強いものはない。

勝海舟が晩年に赤坂氷川の自宅において、時局批判や人物評を語ったものをまとめた、「氷川清話(ひかわせいわ)」の中の一文です。
蜻蛉(とんぼ)を例にして、「尻尾を切って放しても、平気で飛んで行くではないか」と述べています。
勝海舟が言いたかったのは、むやみに神経を使って生きるより、少し無神経な方が上手くいく、ということではないでしょうか。

行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。

福沢諭吉が「痩我慢の説」で勝海舟を批判したことに関する答えとして、勝海舟が述べた内容です。
福沢諭吉は、徳川幕府の終戦最高責任者でありながら、明治新政府に参加した勝海舟のことを批判しました。
勝海舟は、「自分がしたことについての批判は、所詮他人がするもの」、「他人の批判など構う必要はない」と言いたかったのでしょう。

事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。

勝海舟は「氷川清話」の中で、「要するに処世の秘訣は誠の一字だ」「誠心誠意を尽くす」と残しています。
何かを成し遂げようとするとき、小手先に走って何かをしても、上手くいきません。
勝海舟は、目的に向かって真摯に取り組む人こそ、結果を出すことができると述べています。
これは、江戸城の無血開城を成し遂げた極意とも言えるでしょう。

自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。

勝海舟の家は、先祖代々武士の家柄ではなく、曽祖父が高利貸しの仕事で成功したため、武士の身分となりました。
幕府の御家人・旗本の身分でしたが、冬には暖をとる薪もなかったような貧しい生活だったようです。
それでも勝海舟は、剣術の修行や蘭学などに真剣に取り組み、幕末期には飛躍をとげました。
他人の価値観ではなく、自分の価値観をしっかり持って行動し、諦めずに努力することが大切だと、勝海舟は言いたかったのではないでしょうか。

令和元年にオープンした日本初の勝海舟記念館

勝海舟記念館

勝海舟記念館

2019年(令和元年)9月7日、国登録有形文化財となった旧清明文庫を活用し、東京都大田区に全国で初めて勝海舟の記念館が開館しました。
大田区は、勝海舟と非常に縁の深い場所です。
現在の大田区にある洗足池の風景を大変気に入った勝海舟は、池の畔に「洗足軒」と呼ばれる別荘を構えました。

また、生前より本人の希望で、埋葬の地を洗足池に指定していたことから、洗足池公園には勝海舟夫妻の墓があります。
勝海舟の没後、別荘やお墓の保存、勝海舟に関する図書の収集などを目的として、1933年(昭和8年)、洗足池の畔に清明文庫が建てられました。勝海舟記念館は、国登録有形文化財となった旧清明文庫が開館。2000年(平成12年)に国登録有形文化財に登録され、2012年(平成24年)に大田区の所有となりました。

西洋建築のスタイルを取り入れたモダンな建築物でもある勝海舟記念館では、勝海舟の功績や歴史などを映像やジオラマといった様々な展示方法で知ることができます。

勝海舟と刀

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