武将・歴史人
勝海舟
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勝海舟

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幕末・明治の政治家である「勝海舟」(かつかいしゅう:1823[文政6年]~1899年[明治32年])。山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)・高橋泥舟(たかはしでいしゅう)とともに「幕末三舟」と言われました。 この勝海舟の愛刀として伝わった日本刀(刀剣)として、抜かれることがなかった「水心子正秀」(すいしんしまさひで)や徳川慶喜から贈られた「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)などが挙げられます。 ここでは、勝の歴史とともに愛刀をご紹介します。

剣豪としての腕前

勝海舟

勝海舟

勝海舟は、江戸本所亀沢町の生まれで、名は「義邦」(よしくに)、明治維新後に改名して「安芳」(やすよし)に。幼名・通称は「麟太郎」(りんたろう)、「海舟」は号です。

幼少期から島田虎之助より剣術を学びました。稽古は早朝から深夜に至るまで一日も休むことなく繰り返され、直心影流(じきしんかげりゅう)免許皆伝になった剣士です。

16歳で家督を継ぎ、永井青崖(ながいせいがい)について蘭学を修業、のちに私塾「氷解塾」(蘭学と兵法学の塾)を開きます。

1860年(万延元年)、勝は日米修好通商条約の批准書を交換するために遣わされた遣米使節に随行した咸臨丸(かんりんまる)の艦長に就任したことでも知られています。通訳のジョン万次郎や福沢諭吉らとともに、アメリカに渡航しました。

刀剣/水心子正秀

幕末の動乱を生き抜いた勝海舟は殺し合うのではなく、話し合うことで解決策を見付けようと、自分では決して人を殺すことはありませんでした。そのため、剣豪としての腕前を持つ勝海舟の愛刀であったと言われている江戸末期の水心子正秀(すいしんしまさひで)ですが、一度も刀が抜かれることはありませんでした。

この日本刀(刀剣)を作った出羽国(現在の山形県)赤湯出身の水心子正秀は、江戸末期の刀工で本名は「鈴木三治郎」。「新々刀」の祖と言われ、多くの門弟を育てました。太平の世に慣れ、衰退しつつあった日本刀(刀剣)作りに「古刀」の鍛錬法を復元すべきと、大きな影響を与えた人物でした。

水心子正秀

水心子正秀

徳川家を守った勝

徳川慶喜

徳川慶喜

1867年(慶応3年)、江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政権を朝廷に返上し、幕府は消滅しました。

1868年(明治元年)戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際には、勝海舟が旧幕府を代表して新政府の「西郷隆盛」と会見し、徳川家の存続を条件に江戸城の無血開城を主張し、成し遂げました。

勝海舟は明治維新後、しばらく新政府の誘いを断って静岡(駿府:すんぷ)に退いていましたが、旧幕臣の代表格として外務大丞(がいむだいじょう)・兵部大丞(ひょうぶだいじょう)・参議兼海軍卿・元老院議官を歴任し、朝敵(朝廷の敵)となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し、徳川家を守ったのです。

勝海舟が愛刀とした海舟虎徹は、どういった経緯で勝海舟の手に渡ったかは知られていませんが、長年の功績により、徳川慶喜から贈られた物であろうと言われています。

その後、勝海舟は1887年(明治20年)に伯爵、1888年(明治21年)には枢密顧問官に任官。

晩年は赤坂氷川で暮らし、1899年(明治32年)、脳溢血(のういっけつ)で倒れ死去。享年77歳でした。

刀剣/海舟虎徹

15代将軍・徳川慶喜から勝海舟に贈られた物であろうとされている海舟虎徹。海舟の愛刀であったことから「海舟虎徹」と呼ばれました。刀工は、「正宗」(まさむね)と並んで日本刀(刀剣)の名工として称される「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)です。

「虎徹」とは、「長曽祢興里」(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつ、また作刀した日本刀(刀剣)の銘です。 別名「興里」・「長曽禰興里」・「長曽禰虎徹」・「乕徹」とも呼ばれています。

長曽祢興里は、もとは甲冑師で50歳を超えてから刀工に転じたのですが、斬れ味にこだわった作風が大名などの上流階級から大変人気がありました。しかし、この人気が高かったことから虎徹は贋作(がんさく)が多いことで知られ、在銘品の大半が偽物だと言われています。

海舟虎徹

海舟虎徹

ランク 刃長 所蔵・伝来
長曽祢興里真鍛作之 2尺2寸5分(68.2cm) 不明

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