「朝倉教景」(あさくらのりかげ)は、戦国時代の武将で、越前国(えちぜんこく:現在の福井県)の戦国大名・朝倉氏の家臣です。朝倉家当主3代に亘って事実上の当主に近い政務を行ない、その時代に朝倉家は全盛期を迎えました。「教景」は、朝倉氏の重要な諱(いみな:実名)で、複数名が名乗っているので、ここでご紹介する「教景」は、区別のため出家後の名である「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)と呼びます。
朝倉教景
朝倉宗滴は、1474年または1477年(文明6年または文明9年)、朝倉家7代当主・朝倉孝景(あさくらたかかげ)の8男として生まれました。母は正室・桂室永昌(けいしつえいしょう)です。
宗滴が4歳(1474年[文明6年]生説では7歳)のとき、父・孝景が亡くなり、家督は長兄の氏景(うじかげ)が継ぐことに。
しかし、本来の家督承継者は、朝倉宗滴と同じく正室から生まれた兄で、5男の朝倉教景(以千宗勝)だったのではないかと言われ、以千宗勝が若くして亡くなったあとは、宗滴が嫡男の地位を継承したのではないかという説があります。
教景という名は、宗滴の曽祖父と祖父の名で、父・孝景も一時的に名乗っていたことから、代々の当主に受け継がれた名前だったと考えられているのです。しかし10歳に満たない年齢では、家督を継ぐことは難しく、朝倉家の主流は異母兄・氏景の系統へと移っていきました。
若くして亡くなった同母兄・宗勝は、すぐ上の異母兄・景総(かげふさ)によって殺害されたと言われています。正室の子の宗勝が、兄である景総より上座に遇されたことを景総が妬んでのこと、というのが定説です。宗勝の養父・朝倉光玖(あさくらこうきゅう)の激しい怒りを買い、景総は剃髪して何とか命乞いをしますが、光玖と和解すると、懲りずに悪巧みを企てます。
1503年(文亀3年)、氏景の嫡男・貞景(さだかげ)が当主の頃、景総は娘婿の朝倉景豊(かげとよ)を誘って、貞景に対して謀反を起こすのです。この計画には宗滴も誘われましたが、宗滴が貞景に密告したことから発覚し、謀反は失敗に終わります。
一方の宗滴も、家督への執着がまったくない訳ではありませんでした。しかし、異母兄の氏景が家督を継いでから、早20年以上が経過し、今となっては家督を奪うのは簡単ではないし、得策でもないと考えたのです。そこで、すっぱりとあきらめ、当主を補佐する方向へとシフトしていくことに。朝倉家当主というお飾りではなく、実権を握ることを選んだのです。
この事件後、宗滴は金ヶ崎城主となり、敦賀郡司(つるがぐんじ)に就任。朝倉家の軍事一切を取り仕切るようになります。そして3年後、宗滴の名をとどろかせ、一躍有名にする事件が起こります。「加賀一向一揆」(かがいっこういっき)です。
1488年(長享2年)、隣の加賀国(かがのくに)が、「一向宗」(いっこうしゅう)と呼ばれる「浄土真宗本願寺」(じょうどしんしゅうほんがんじ)の信徒達に制圧されてしまいました。彼らは勢いに乗って、1506年(永正3年)には越前にも侵攻。この一向宗による一揆を「一向一揆」(いっこういっき)と呼びます。このとき、一揆側は30万人を超えていたとも言われ、迎え撃つ朝倉軍は1万ほどで圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、宗滴率いる朝倉軍は見事勝利。
他にも宗滴は、数々の武功を挙げて、朝倉氏の隆盛を築きました。1525年(大永5年)には、美濃の内乱に介入した北近江(きたおうみ)の浅井(あざい)氏と、対立していた近江の六角(ろっかく)氏との間の調整役となり、浅井氏とは深い絆で結ばれます。これがのちに、織田信長包囲網の時代の浅井・朝倉同盟につながっていくのです。
この時代の越前国は、大内氏の支配する「周防国」(すおうのくに:現在の山口県)、今川氏の「駿河国」(するがのくに:現在の静岡県)と並んで、「戦国3大文化都市」と呼ばれ、全国から注目を集めていました。どの都市も京文化の薫り高いみやびな都でしたが、京により近い越前国は、「第二の京」と呼ばれるほど、華やかで洗練された文化を築き上げていたのです。
問題は、宗滴があまりに有能な武将であったために、朝倉家の実務が彼にすべて任せっぱなしになってしまったことでした。宗滴は78歳の死の直前まで現役の大将であり続け、後継者を指名することも、育てることもないまま、出陣中で倒れ、亡くなってしまうのです。
あとに残されたのは、戦国の世を生きるには、あまりにみやびな朝倉家最後の当主・朝倉義景(あさくらよしかげ)でした。宗滴亡きあとの朝倉家は、坂道を転がり落ちるように転落していきます。宗滴は1555年(天文24年)に亡くなるときに、「あと3年生きて、信長の今後を見届けたかった」と、まだ「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で頭角を現す前の信長を認めていたと言われていますが、のちにその信長に朝倉家が滅ぼされるというのは、歴史の皮肉としか言えません。
籠手切正宗(こてぎりまさむね)は、極めが二転三転しています。江戸時代には、「相州正宗作」の太刀として「籠手切正宗」の名で、「享保名物帳」に記載されていますが、当初伝わった朝倉家では、「相州貞宗」の作とされてきました。それが豊臣秀吉の手を経て佐野家に伝わり「篭手切行光」(相州行光)と呼ばれ、次の加賀国の前田家で初めて「正宗作」に決められます。刃文は見事な「のたれ」で、「沸」(にえ)の強い相州伝の特徴を伝えています。
名物の「篭手切」という異名の由来にも、諸説あります。宗滴が1527年(大永7年)京都での「川勝寺口の戦い」(せんしょうじぐちのたたかい)で、敵の手首を篭手ごと切り落としたことからそう呼ばれるようになったとされていますが、他にも3代当主・氏景による説と10代当主・孝景(宗純)による説の2つの説があるのです。
そのうち、1527年(大永7年)川勝寺口の戦いで、畠山勢を破った際とする「孝景説」と「宗滴説」が有力視されていますが、孝景は自分で出陣せず、宗滴に出兵を命じただけとも言われ、宗滴説が一番信憑性が高いと見られています。