室町時代
金ヶ崎の戦い
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金ヶ崎の戦い

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1570年(元亀元年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)率いる「朝倉軍」が対峙しました。約3万の織田・徳川連合軍に対し、約4,500の朝倉軍。当初は、織田・徳川連合軍が優勢でしたが、織田信長の義弟「浅井長政」(あざいながまさ)の裏切りにより、形勢逆転。戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれています。

合戦の背景

同盟を組んだ織田・徳川・浅井

同盟を組んだ織田・徳川・浅井

織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)を平定。三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康、及び近江国北部(現在の滋賀県北部)の浅井長政と同盟を組み、美濃国(現在の岐阜県南部)を支配していた斎藤家を滅亡させます。

加えて、伊勢国北部(現在の三重県北部)も支配下に入れた織田信長は、1568年(永禄11年)に、当時の将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)を殺害。織田信長を頼ってきた足利義輝の弟・「足利義昭」(あしかがよしあき)を擁して上洛を果たします。

飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長は、足利義昭を名目にして各地の大名に上洛を催促していました。しかし、越前国(現在の福井県)を支配する朝倉義景は再三これを無視。越前国は美濃国と京都の間に割って入るような位置にあり、織田信長は越前国を支配下に入れる必要がありました。そこで、織田信長は朝倉義景の上洛拒否を叛意ありとし、これを口実に越前国へ出兵したのです。

浅井氏と朝倉氏

浅井長政の祖父「浅井亮政」(あざいすけまさ)は浅井氏の初代当主。当時、浅井亮政が仕えていた「京極氏」(きょうごくし)や「六角氏」と対立しながらも、北近江へ勢力を拡大した人物です。

京極氏は鎌倉時代以前より近江にいる一族で、源氏の流れを汲む武家。また、六角氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて勢力を持った武家で、近江国南部を中心に勢力を誇っていました。

京極騒乱

当時の京極氏の当主「京極高清」は、長男の「京極高延」ではなく、次男である「京極高吉」(きょうごくたかよし)に家督を継承させようとします。これにより京極家は2派に分かれて対立、お家騒動が勃発します。浅井亮政は、京極高延側に付き、1524年(大永4年)に両者が対峙(京極騒乱)。京極高延側が勝利し、浅井亮政は盟主となることで実権を掌握します。

なんとここで、浅井亮政の実権掌握に不満をもった京極高延が、対立していた京極高清と和解。さらには京極氏の本筋にあたる家柄の六角氏が京極氏を支援。浅井亮政は、京極氏に加え六角氏とも対立を強いられることとなったのです。

朝倉氏との同盟関係

朝倉教景

朝倉教景

1525年(大永5年)、浅井亮政は「美濃の内乱」に介入します。六角氏と朝倉氏は浅井亮政を牽制(けんせい)。このとき、朝倉氏より派遣されたのが、「朝倉教景」(あさくらのりかげ)です。

朝倉教景は約5ヵ月間、浅井亮政と六角氏の調停に務めました。苦戦を強いられていた浅井亮政にとって、この調停は非常にありがたい物でした。そして、これ以降、長きに渡って浅井氏と朝倉氏は同盟関係で結ばれることとなるのです。

浅井長政と織田信長

お市

お市

1560年代、尾張国を平定した織田信長は、美濃国の斎藤氏との膠着(こうちゃく)状態を打破するため、浅井長政に同盟を提案します。同盟の条件は浅井氏に有利な物でしたが、賛否両論。一番の障害は、織田信長が朝倉義景と不仲であるという事実でした。

結果としては、反対する者も多い中、浅井長政は織田信長と同盟を結びます。これに伴って、織田氏と浅井氏との間で政略結婚が行なわれます。

1567年(永禄10年)、浅井長政は織田信長の妹で、当世一の美女とうたわれた「お市」を妻に迎えました。織田信長は浅井長政との同盟を大変喜び、本来ならば、浅井氏が出すはずの結婚資金をすべて支払ったとも言われています。加えて、この同盟で織田信長は浅井長政に対して、「朝倉への不戦の誓い」を立てました。

合戦の開始と突然の裏切り

浅井長政と同盟を組んだことで、北近江へ簡単に兵を進めることができた織田・徳川連合軍は、1570年(永禄13年)、越前国敦賀方面の朝倉義景領に侵攻しました。同日、手筒山城で激戦を繰り広げ、「朝倉景恒」(あさくらかげつね:朝倉義景の家臣)が守っている金ヶ崎城へと侵攻します。手筒山での激戦を知った朝倉景恒は戦意喪失。すんなりと降伏してしまいます。

朝倉義景軍は、敦賀を放棄するように木の芽峠一帯(現在の福井県嶺北と嶺南を隔てる峠)へ後退。木の芽峠は戦線が狭く、防御に向いた地形であり、朝倉義景軍は防衛線の強化に努めます。

織田・徳川連合軍は優勢に合戦を進め、木の芽峠を越えて朝倉義景の本拠地である一乗谷を攻撃する手はずを整えていました。しかし、浅井長政が突如反旗を翻し、朝倉義景側に付いたとの情報が入ったのです。これは、織田信長が「朝倉への不戦の誓い」を一言も無しに破ったことで、織田信長と朝倉義景との間に板ばさみとなった浅井長政の苦渋の選択でした。浅井長政は、背後から織田・徳川連合軍を襲撃することとなります。

したがって織田・徳川連合軍は、北を朝倉義景、南を浅井長政からの挟撃を受けるという危機に直面。当初、織田信長は、浅井長政の裏切りを「虚説たるべき」として信じてはいませんでした。しかし、次々と入る知らせに事実と認めざるを得なくなり、撤退を決意したのです。

織田信長への知らせ

松永久秀

松永久秀

織田・徳川連合軍が浅井長政の裏切りを察知した要因として、「朝倉記」では、織田信長の家臣で、近江・若狭方面の外交と謀報を担当していた「松永久秀」(まつながひさひで)が浅井長政側の不審な動きを通報したと記されています。しかし、この記述は信憑性にかけるため、実際には不明です。

また、浅井長政と結婚した織田信長の妹・お市が小豆袋を織田信長に送り、裏切りを知らせたという逸話も存在。陣中見舞いと称して送られた小豆袋は、両端を紐で結ばれており、「袋の鼠である」ことを表現したとされています。しかし、これも俗説であるというのが有力です。

織田信長の撤退(朽木越え)

豊臣秀吉と明智光秀

豊臣秀吉と明智光秀

浅井長政から後方をつかれては、遠征中の織田・徳川連合軍に勝ち目はありません。そこで、織田信長は撤退を開始。織田信長は、共に越前国を攻めていた徳川家康にさえ連絡せずに撤退したとの説もあり、織田信長の焦りが窺えます。織田信長本隊が無事領内に帰還するために、家臣の「木下秀吉」(のちの豊臣秀吉)・「明智光秀」・「池田勝正」は戦線に残りました。

織田信長は、わずかな兵を連れて丹後街道を南下、朽木街道を進みます。このときのキーマンが近江豪族の「朽木元綱」(くつきもとつな)です。朽木元綱は織田信長に対して、敵対も味方もしていない立場でした。将軍側の味方であるとは表明していましたが、浅井氏ともつながりのある人物で、朽木元綱の動向次第では、織田信長は討ち取られていた可能性があるのです。

「朝倉記」では、朽木元綱は当初、織田信長を殺害するつもりであったと記されています。ここで功を奏したのが、織田本隊・松永久秀の決死の説得です。これにより、朽木元綱は街道通過を快く許可。織田信長を手厚くもてなしたとされています(朽木越え)。加えて、朝倉義景・浅井長政の軍勢の進撃よりも迅速な撤退を遂行したことにより、織田信長は安全に京へと舞い戻ったのです。

金ヶ崎の退却戦

家臣の木下秀吉・明智光秀・池田勝正らは、織田信長が帰還したという知らせを聞き、退却戦を開始。この3武将が「殿軍」(しんがり)を務めたとされています。殿軍とは、後退する戦隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。追撃を一手に引き受け、戦闘しながら自らも撤退するという困難を極める役割で、他の部隊が戦場を離れるまで留まり、孤軍奮闘する必要があります。しかも、少数の部隊で行なうことが一般的であったことから、まさに命がけの部隊だったのです。

朝倉義景・浅井長政両軍が激しい追撃を仕掛けてくる中で、3武将は鉄砲隊や弓隊などを上手く用い、敵軍を寄せ付けることなく撤退。かなり厳しい戦いであったようですが、3武将の連携が上手く取れていたことや、逆に朝倉義景軍の連携が取れておらず、追撃が鈍くなったため、退却戦に成功。

3武将の活躍により、織田信長は無事に生き延びることができたのです。

武将達が戦った全国各地の古戦場をご紹介!

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