歴史上の人物と日本刀

刀 備前国長船十郎左衛門尉春光と東郷平八郎

文字サイズ

明治維新を経て近代国家への道をたどっていた日本が、当時の大国・ロシア帝国と戦った「日露戦争」(にちろせんそう)。その際、日本の海軍を率いていた「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)は、日本のみならず、世界にもその勇名をとどろかせています。 アジアの小さな島国の軍人でありながら、東郷平八郎が世界でも評価された理由とは?幕末の薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)藩士から海軍軍人となり活躍するまでの経緯と彼の人物像が分かるエピソードを、平八郎が愛蔵していた刀「備前国住長船十郎左衛門尉春光」(びぜんのくにじゅうおさふねじゅうろうさえもんのじょうはるみつ)の詳細と共にご紹介します。

藩士から海軍軍人へ 平八郎に訪れた人生の転機

幕末の重要な戦に連続して参加

東郷平八郎

東郷平八郎

1847年(弘化4年)12月に、薩摩藩の下級武士の家に4男として生まれた東郷平八郎

その後、世の中は激動の幕末時代を迎え、1863年(文久3年)平八郎は薩摩藩士としてわずか16歳のときに「薩英戦争」(さつえいせんそう)に参加し、イギリス艦隊と交戦。平八郎の初陣は敗戦の結果に終わり、海防の重要性について身をもって学びました。

そして、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発した、旧江戸幕府軍と新政府(明治政府)軍との勢力争いである「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では新政府側に従軍。薩摩藩海軍の青年士官として軍艦・春日(かすが)に乗り込み、戊辰戦争の最終戦となった「箱館戦争」(はこだてせんそう)において、「宮古湾海戦」や「五稜郭」(ごりょうかく)への海上砲撃及び射撃を敢行。実戦を通じて、海軍軍人になるために必要な経験を積んでいったのです。

平八郎が志していたのは海軍軍人ではなかった!?

平八郎は、薩英戦争と戊辰戦争という日本を大きく変えた戦いに従軍したことから、明治維新後、新政府の海軍軍人への道を順調に歩むかと思われました。しかし、戦争の無惨さを思い知らされた平八郎は、自分は軍人には向いていないと考えるようになり、海軍軍人ではなく、鉄道技師を志すようになるのです。

1858年(安政5年)に開国したばかりの日本は、鉄道の技術が十分に入って来ておらず、産業の大動脈となる鉄道を日本に建設することが急務であった状況。そのため、鉄道技師になって近代国家の礎を築く一助となることが、日本への奉仕になると考えてのことだったかもしれません。

鉄道技師の技術を学ぶため、同じ薩摩藩加治屋(かじや)町出身の先輩である「大久保利通」(おおくぼとしみち)に官費留学を願い出ますが、「鉄道技師での留学枠はない」と断られてしまいました。その後、平八郎は、利通が自身のことを「おしゃべりだからダメだ」と評していることを伝え聞き、のちに「沈黙の提督」と称されるほどに寡黙を貫くことに努めました。

そして、イギリス留学を諦めきれない平八郎は、大久保利通と同様に加治屋町出身で、お互いの兄弟を通じて交流のあった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)のもとへ相談に赴きます。

このとき隆盛は、海軍であれば留学の枠があること、日本の国力を強くするためには海軍が不可欠であること、さらにその海軍には平八郎の力が必要であることを力説。同郷の尊敬する先輩である隆盛が、自分に与えてくれたチャンスを棒に振る訳にはいかない、と考えた平八郎は、明治政府の海軍軍人として生きていくことを決意。

そして1871年(明治4年)、イギリスのポーツマスへ念願の官費留学が実現したのです。明治維新の立て役者であった利通と隆盛の導きがなければ、平八郎の人生は全く異なる物になっていたかもしれません。

明治時代における2つの戦争で勝利を収めた理由

イギリス留学後に見舞われた困難とは

西郷隆盛

西郷隆盛

7年間にわたるイギリス留学では、英語や操船技術、国際法など、最新の西洋式の海軍に必要な知識や教養を身に付けるため、勉学に励んでいた平八郎。しかし、1878年(明治11年)帰国の途に就こうとした平八郎に、ある悲報が舞い込みます。

それは、1877年(明治10年)に西郷隆盛を首領として起きた大規模な士族反乱である「西南戦争」(せいなんせんそう)で、旧薩摩藩側に従軍した平八郎の実兄2人と、隆盛が自害したというもの。この訃報に接した平八郎は、兄2人の死を嘆き「もしも私が日本にいたならば、西郷さんのもとに馳せ参じていただろう」と、隆盛の死を悔やみました。平八郎の隆盛への高い忠誠心が窺えますが、もしも彼が留学せずに日本に残っていたら、西南戦争で命を落とし、日本の運命も変わっていたかもしれません。

平八郎は、「せめて自分だけでもさらに海軍の技術を習得して、海軍軍人としての本分を全うする」との誓いを胸に秘めて帰国。その後は明治政府の海軍士官となり、順調に出世を果たしていたかのように見えた平八郎ですが、当時の船を動かす燃料であった石炭の煙を吸いすぎたことが原因で肺尖(はいせん)カタルを患い、1887年(明治20年)から3年間にわたる療養生活を余儀なくされました。

逆境を活躍の原動力に 知識で戦いを乗り越える

しかし平八郎は、このような逆境にめげるような人間ではありませんでした。療養中には、留学時代に学んだ国際法を学びなおすなどして、さらに自分を高めるための努力を重ねています。平八郎の故郷である薩摩藩には、武士階級の子ども達のための教育法「郷中」(ごじゅう)という物があり、その教えのひとつに「負けるな」、というシンプルですが重要な言葉があります。これは、「相手に負けない」という意味ではなく「諦めずに自分自身に打ち勝て」ということ。平八郎が幼少の頃に培った郷中のこのような精神が、逆境をむしろバネにする行動へと駆り立てたのかもしれません。

実際に、療養中に新たに得た国際法の知識は、平八郎の困難を乗り越える助けになりました。その困難とは、明治政府のスローガンでもあった「脱亜入欧」(だつあにゅうおう:アジアを脱し、ヨーロッパ列強の仲間入りを目指す思想。列強諸国の侵攻に対する防衛策としての方針でもあった)を成し遂げるために勃発した「日清戦争」(にっしんせんそう)と日露戦争です。

国際法の知識が活かされたエピソード2選

日清戦争の豊島沖海戦
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争の宣戦布告がなされる前に、清国と日本の艦隊の間で、「豊島沖海戦」(ほうとうおきかいせん)が勃発。このとき、日本海軍の防護巡洋艦・浪速(なにわ)に艦長として乗り込んでいた平八郎は、逃走する汽船・高陞号(こうしょうごう)の処理にあたることに。

高陞号は、イギリス船籍の商船でしたが、そこに満載されていたのは約1,100名の清国陸兵。平八郎は、ただちに投錨(とうびょう:いかりを降ろして停船させること)するように信号を送り、イギリス船長に船を捨てるように命じます。しかし、清国陸兵が船長以下イギリスの乗組員を脅していたため、交渉は決裂。平八郎は戦時国際法にのっとり、「生命的危険」を示す赤旗を掲げたのちに高陞号を砲撃し、遂には撃沈したのです。

この「高陞号事件」で平八郎が救助したのはイギリスの乗組員のみ。そして、イギリスの商船を撃沈させたことで、日本に対するイギリス政府や世論から猛烈な批判を受けます。日本国内においても平八郎の責任を問う声が上がりますが、イギリスの国際法における2人の権威が、高陞号事件における平八郎の行為は、戦時国際法に照らし合わせても正当なものであるという見解を「タイムズ」紙に寄稿したことで、事態は沈静化。中立国であるイギリスの船が、日本の交戦国である清国の兵力を隠して運んでいたということで、世論における日本の立場が好転することになったのです。

平八郎が国際法を熟知しており、それを遵守する姿勢を貫いたことが、日清戦争で日本が勝利を収める足がかりとなりました。

日露戦争の日本海海戦
1904年(明治37年)2月8日に勃発した日露戦争での平八郎は、海軍大臣であった「山本権兵衛」(やまもとごんのひょうえ)の推薦により連合艦隊司令長官に任じられ、旗艦となる戦艦・三笠(みかさ)に座乗し、「仁川沖海戦」(じんせんおきかいせん)や「黄海海戦」(こうかいかいせん)などで指揮を執っていました。戦力面では、ロシアの方が圧倒的に日本を上回っていましたが、戦局は日本がやや有利な状況。

そして、1905年(明治38年)5月27日には、「日本海海戦」にて日本海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍のバルチック艦隊が対立。「東郷ターン」とも呼ばれる「丁字戦法」などを駆使したことで日本が勝利を収め、日露戦争は終結します。そして、この日本海海戦においても、平八郎の国際法に関する知識が大いに役立った場面がありました。

それは、日本海海戦2日目のこと。バルチック艦隊の戦艦が続々と撃沈されていく中で、残存していたネボガトフ艦隊を日本の連合艦隊が発見。

ネボガトフ艦隊は、降伏の白旗を掲げていましたが、平八郎は「撃ち方やめ」の命令を発することはせず、攻撃を継続します。その理由は、「本当に降伏すッとなら、その艦を停止せにゃならん」とのこと。ロシア側は、白旗を掲げて降伏の意志を示しているにもかかわらず、その機関を停止せず前進していました。これも、当時の戦時国際法にのっとった平八郎の的確な判断。やがてネボガトフはその誤りに気付き、ロシア側の機関を停止。これを受けて連合艦隊も砲撃を取りやめ、日本の勝利が決定したのです。

山本権兵衛が、平八郎を連合艦隊司令長官に任命する人事を明治天皇に奏上する際、「東郷は運が良い男ですから」という理由を添えたという有名なエピソードがあります。日本海海戦でも、天候が日本に味方していたこと、バルチック艦隊が地球半周分にも及ぶ航海で疲労困ぱいであったことなど、様々な幸運が重なったことが日本の勝利につながったことを見ると、山本権兵衛の先見の明は確かな物でした。

東郷フィーバーが世界中を席巻

日露戦争における損失を数字から比較してみると、例えば日本海海戦では、日本側は戦力となる軍艦全108隻中、水雷艇3隻が沈没、戦死者は約110名のみ。それに対してロシア側は全38隻中、被撃沈・自沈を含め21隻が沈没、6隻が捕獲、6隻が中立国へ逃亡、戦死者は約4,800名に上っています。

日本海海戦が、海戦史上まれに見る日本のワンサイドゲームだったことが窺えますが、アジアの小国にすぎなかった日本が大国ロシアに完勝したことで、平八郎は日本国内ではもちろんのこと、世界からも英雄視されるようになりました。

日本:神格化されるほどの国民的英雄に

日露戦争後、海軍軍令部長に就任した平八郎は、日露戦争における勲功により、5爵位のうちの第3位にあたる伯爵(はくしゃく)号を授与されます。これは、政治経験を持たない軍人一筋のキャリアにおいては最高位。そして、海軍軍人の階級としては最終的に、1913年(大正2年)元帥(げんすい)号を与えられました。

名実共に日本海軍の絶対的な権威となった平八郎。軍政上の決めごとは、必ず彼にお伺いを立てることが慣例化したのです。言わば海軍の神のような存在として崇められるようになり、平八郎を祀った神社を創建する計画が生前に浮上するまでになりました。

これは陸軍の「乃木神社」(のぎじんじゃ)に対抗する目的もあったため、平八郎自身は反対しましたが、彼の没後、現在の東京都渋谷区にあたる場所に「東郷神社」が建立されています。

トルコ:トーゴーの名が人気を博す

ロシアに日本が勝利したことは、それまで列強諸国の支配下で植民地となっていた他のアジア諸国に、大きな希望を与えました。

中でもロシアの圧政に苦しめられていたトルコでは、アドミラル(海軍大将、提督の意)・トーゴーは大人気となり、ある場所のメインストリートが「トーゴー通り」と呼ばれたり、多くの子どもが「トーゴー」と名付けられたりしました。

イギリス・アメリカ 他:様々な形で表される世界からの評価

日露戦争での活躍により、平八郎は列強諸国であるイギリスやアメリカなどからも尊敬を集めています。

例えばイギリスでは、アメリカ独立戦争やナポレオン戦争などの活躍により、国民的英雄とされていたイギリス海軍軍人「ホレーショ・ネルソン」の名を取って「東洋のネルソン」と呼ばれるようになりました。

また、アメリカ海軍の軍人達にも、平八郎に敬愛の念を抱いている者が多く、その中でも海軍元帥であった「チェスター・ニミッツ」は、第2次世界大戦後、日本の戦艦・三笠がダンスホールとして使われて荒廃していることに激怒し、雑誌に「三笠と私」というタイトルの文章を寄稿。その原稿料の寄付を訴えたことで、三笠保存運動の機運が上昇しました。三笠の復元後、その喜びを表した一文を日本に送り、平八郎を「尊敬し、師と仰ぐ」ことを記しています。

この他にも、アメリカのニュース雑誌「TIME」(タイム)で日本人として初めて表紙を飾るなど、様々な形で世界から海軍軍人としての功績を称えられた平八郎。1934年(昭和9年)に行なわれた平八郎の国葬には、イギリスやアメリカだけでなく、イタリアやフランス、中華民国(入港は翌日)の儀礼艦が訪日し、弔砲を発射して哀悼の意を表しました。

東郷平八郎の遺愛刀・十郎左衛門尉春光

古来日本では、遣唐使や出征する将軍に任命の証しとして天皇が太刀を授ける「節刀」(せっとう)と呼ばれる慣習がありました。平安時代には廃れていましたが、東郷平八郎は日露戦争の際に、大正天皇より御物(ぎょぶつ:天皇家に伝来している皇室の私有品)であった太刀「一文字吉房」(いちもんじよしふさ)を下賜され、激励を受けています。

日本が近代化した明治時代以降でも、それ以前の武士と同じく、日本刀が戦をする者の魂の拠りどころになっており、その価値は失われていなかったのです。藩士から海軍軍人となった平八郎にとってもそれは同じことで、彼の遺愛の1振に刀「十郎左衛門尉春光」があります。

刀 備前国住長船十郎左衛門尉春光

刀 銘 備前国住長船十郎左衛門尉春光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
表:備前国住長船
十郎左衛門尉
春光作
裏:天文十六年丁未八月吉日
重要刀剣 2尺2寸1分
(67.1cm)
東郷平八郎→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

「春光」は、戦国時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)で作られていた日本刀である「末備前」(すえびぜん)の系統のひとつ。十郎左衛門尉春光はその3代目で、春光系統の中では最もよく知られています。

末備前の時代は、戦の機会が増えたことで、日本刀の武器としての需要が急激に高まり、非常に多くの作品が作られました。そのため、武将の好みに応じて作られた「注文打ち」だけでなく、既製品である「数打ち物」も大量生産されたのです。

数打ち物には鍛錬技術の入念さが欠けているなど、注文打ちに比べて粗悪品が多かったことから、注意深く両者を見極めることが非常に大切。その方法として一番分かりやすいのは、「茎」(なかご)に切られている銘を確認すること。末備前の数打ち物であれば、銘に「俗名」(ぞくみょう:生きている間に名乗っていた姓名)や年紀がなく、「備州長船○○(刀工名)」と切られているので、そこから判断します。

それに対してこちらの刀は、表銘が「備前国住長船」から始まり、3代目春光の俗名である「十郎」もきちんと切られているだけでなく、裏銘に年紀も入っていることから、注文打ちの日本刀であったことが窺えるのです。

先反り(さきぞり:反りの中心が刀身の中程より先にある物)が付く「打刀」(うちがたな)の姿は、時代をよく表しており、これは、末備前物の日本刀の大きな特徴のひとつ。

「天文十六年」(1547年)に作られた日本刀が、幕末から明治時代に活躍した東郷平八郎の手に渡っていることを考えると、3代目春光の作刀技術は、時代を超えて評価されるほど、優れていたと言えます。それは、この刀の鍛えの良さからも窺い知ることができ、3代目春光の代表作と言われるのもうなずける1振です。

刀 備前国長船十郎左衛門尉春光と東郷平八郎

刀 備前国長船十郎左衛門尉春光と東郷平八郎をSNSでシェアする

「歴史上の人物と日本刀」の記事を読む


徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、幕末期に「大政奉還」などの大胆な政策を実行した江戸幕府15代将軍です。徳川慶喜が「最後の将軍」であることは知っていても、その人物像までは深く知らない人も多いのではないでしょうか。また徳川慶喜は、「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(せいてんをつけ)に、実父「徳川斉昭」(とくがわなりあき)と共に登場したことがきっかけとなり、にわかに注目を集める人物。そんな徳川慶喜について、徳川斉昭との関係を軸にして、その人となりをご紹介すると共に、徳川慶喜の愛刀「長巻 銘 備前長船住重真」についても解説します。

徳川慶喜と長巻 銘 備前長船住重真

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定
「明治天皇」は、明治時代を切り開いた近代日本の指導者であり、「大正天皇」はその明治天皇の三男。そして、大正天皇の長男「昭和天皇」は太平洋戦争という大波を乗り越えた人物です。ご紹介する大正天皇は、在位期間が15年ほどであったことから一般的には影の薄い天皇と言われることもあります。しかし、大正天皇も他の皇族に倣い儀式においては、多くの日本刀を授かる機会を持ちました。刀工である11代目「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ:会津兼定とも)は、こうした名誉ある機会を得て皇太子時代の大正天皇に刀を献上。大正天皇と11代目和泉守兼定のこと、そして11代目和泉守兼定が打った「刀 銘 大日本兼定」についてご紹介します。

大正天皇に献上された11代会津兼定の刀 銘 大日本兼定

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継
「徳川家康」の跡を継ぎ、江戸幕府2代将軍となった「徳川秀忠」には、5つ上の兄がいたことをご存知でしょうか。武将としての実力は徳川秀忠よりも勝っていたとも言われている兄の名は「結城秀康」(ゆうきひでやす)。戦国武将の期待の星とされていました。では、なぜ弟・徳川秀忠よりも武功のあった結城秀康は将軍になれなかったのでしょうか。徳川家康の子でありながら「結城」姓を名乗っているなど、謎に包まれた徳川家康の次男・結城秀康の生涯を探ると共に、結城秀康に仕えた刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)についてご紹介します。

結城秀康と名刀 於武州江戸越前康継

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
「鍋島茂紀」(なべしましげのり)とは、江戸時代初期に活躍した佐賀藩(現在の佐賀県)の藩士です。藩主・鍋島家の親類同格で、自治領・武雄(たけお:現在の佐賀県武雄市)の領主をしていました。切れ味が鋭くて有名な、佐賀藩の御用刀工「藤原忠広」(ふじわらただひろ)に薙刀直しの脇差を注文し、愛用した人物。鍋島茂紀の生涯や刀工・藤原忠広が作る刀剣の特徴、化け猫騒動について詳しくご紹介します。

鍋島茂紀伝来の薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀
「薙刀 銘 直光」は、江戸時代末期に幕臣によって結成された「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)を指揮した「岩田通徳」(いわたみちのり)が所持した薙刀です。作刀したのは「細田直光」(ほそだなおみつ)。細田直光は刀鍛冶として優れていましたが、時代に翻弄された結果「贋作の名人」として有名になってしまった人物です。岩田通徳と細田直光の来歴を追っていきながら、薙刀 銘 直光について、詳しくご紹介していきます。

岩田通徳が所持した細田直光作の名刀

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之
「刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之」(かたな めい えんりゅうさいたちばなくにひでこれをきたえる)は、幕末の国学者で尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国を排斥しようとする一派)として活動した「宮和田光胤」(みやわだみつたね)の愛刀とされています。宮和田光胤は、「千葉周作道場」(ちばしゅうさくどうじょう)にて「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝を受けた剣客という顔も持っていました。 本刀の制作者「立花圓龍子国秀」(たちばなえんりゅうしくにひで)は、江戸末期の刀工で「中山一貫斎義弘」(なかやまいっかんさいよしひろ)の門下に入り、上野国(上野国:現在の群馬県)や相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で作刀。「坂本龍馬」もまた、国秀の日本刀を佩刀していたことは有名です。坂本龍馬と千葉周作道場の同門だった尊王攘夷派の剣客・宮和田光胤について述べると共に、国秀作の刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之について解説します。

幕末の攘夷派剣客・宮和田光胤の愛刀 刀 銘 圓龍斎立花国秀鍛之

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武
江戸時代初期の刀工である「出雲大掾藤原吉武」(いずもだいじょうふじわらよしたけ)は、またの名を「出雲守藤原吉武」(いずものかみふじわらよしたけ)、あるいは「堀川吉武」と言います。「堀川」の姓からも分かる通り、吉武は稀代の名工として名を馳せた「堀川国広」の一門でした。 ご紹介する打刀と脇差は、上級旗本で伊勢山田奉行を務めた「長谷川重章」(はせがわしげあき)が特別注文した逸品です。注文主である長谷川重章と、刀工の出雲大掾藤原吉武は、どのような人物だったのかを解説すると共に、吉武が手掛けた刀剣の魅力に迫ります。

伊勢山田奉行・長谷川重章と出雲大掾藤原吉武

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史
「鬼夜叉」の号を持つ「薙刀 銘 和泉守兼定作」は、美濃国(現在の岐阜県南部)の刀工「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)が打った薙刀です。小浜藩藩主「京極高次」(きょうごくたかつぐ)が所持していたと伝えられています。 京極高次は、「蛍大名」という不名誉なあだ名で有名になりましたが、のちに武勲を挙げて汚名を返上しました。その武勲を支えたのが、この鬼夜叉であると言われているのです。京極高次がいかにして汚名をそそいだのか、また、妖しくも美しい鬼夜叉について解説していきます。

京極高次伝来の薙刀 銘 和泉守兼定作 号・鬼夜叉の歴史

刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー

刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー
「第2次世界大戦」を引き起こし、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大虐殺)を先導した独裁者のイメージが強い「アドルフ・ヒトラー」。一方、若い頃には芸術家を志していたとされ、美術・芸術に対する理解は深かったと言われています。 そんなアドルフ・ヒトラーに、日本政府から美術品である日本刀が贈られました。それは、鎌倉時代を代表する名刀「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)です。備前三郎国宗は、なぜアドルフ・ヒトラーへ贈られたのでしょうか。アドルフ・ヒトラーの生涯を追いながら、備前三郎国宗がたどった運命について見ていきます。

刀 折返銘 国宗とアドルフ・ヒトラー

注目ワード
注目ワード