歴史上の人物と日本刀
短刀 銘 越前康継と和魂洋才 榎本武揚
歴史上の人物と日本刀
短刀 銘 越前康継と和魂洋才 榎本武揚

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1868~1869年(慶応4年/明治元年~2年)に、薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)・土佐(とさ)藩を中心とした新政府軍と、旧江戸幕府軍が対立した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)。その最終戦となった「箱館戦争」(はこだてせんそう:現在の北海道函館市で勃発。別名・五稜郭[ごりょうかく]の戦い)において、旧幕府海軍のトップとして、最後まで新政府軍に徹底抗戦した武人「榎本武揚」(えのもとたけあき)。幕末の敗者となりましたが、その後、日本を近代国家に生まれ変わらせるべく動き始めた明治政府から、予想外の処遇を受けています。そこに至るまでの榎本武揚の半生と、彼の戊辰戦争後の日本とのかかわり方について、武揚が愛用していた短刀「銘 越前康継」と共にご紹介します。

父親譲りの探究心で若くして学才に目覚める

榎本武揚

榎本武揚

榎本武揚は、1836年(天保7年)に江戸幕府の幕臣であった「榎本武規」(えのもとたけのり)の次男として生まれました。武揚の幼名は「釜次郎」(かまじろう)と言いましたが、彼の兄の幼名は「鍋次郎」(なべじろう)。これは、父・武規が、「釜と鍋があれば食べるのには困らないだろう」という思いから名付けたのだとか。

武規は、婿養子として榎本家に入る以前、日本地図を作製した商人「伊能忠敬」(いのうただたか)の内弟子筆頭として、測量のため忠敬と共に日本各地を歩き回ったことがある人物。忠敬のもとで測量学や天文学を学び、様々な物事を実際に見聞きして知識を蓄えた武規の影響を受けたことで、武揚もまた、多種多様な学問を身に付けていくのです。

【榎本武揚 学問遍歴】※年齢は数え年で表記

[1847年(弘化4年)/12歳] 江戸幕府直轄の教学機関・施設「昌平坂学問所」(しょうへいざかがくもんじょ)にて儒学と漢学を学ぶ。

[1851年(嘉永4年)/16歳] 江戸・本所(ほんじょ:現在の東京都墨田区)にある「江川太郎左衛門」(えがわたろうざえもん)の私塾「英龍塾」にてオランダ語を、18歳の頃には土佐出身でアメリカ帰りの「ジョン万次郎」(本名:中浜万次郎)より英語を習う。

[1856年(安政3年)/21歳] 「長崎海軍伝習所」(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)に第2期生として入学し、操船技術・測量・蘭学(洋学)や国際情勢などを学ぶ。
※第1期生には「勝海舟」(かつかいしゅう)がいる。

[1862年(文久2年)/26歳] 幕府留学生のひとりとして、オランダへ留学。5年間にわたり、最新の造船技術・航海術・蒸気機関・化学・鉱物学・国際法・モールス信号など、西洋式海軍に必須である知識を多岐にわたって習得。

この他にも、1854年(安政元年)、武揚19歳のときに箱館奉行「堀利煕」(ほりとしひろ)の従者として蝦夷地(えぞち)・箱館へ赴き、のちに武揚が重要なかかわりを持つことになる樺太(からふと)への探検に参加しています。

武揚が国の海防に携わる基礎知識を蓄えた場所となった長崎海軍伝習所。その設立のきっかけは、1853年(嘉永6年)にアメリカのペリー提督が浦賀(うらが:現在の神奈川県横須賀市)に来航し、その翌年には「日米和親条約」を締結したことにありました。

アメリカを含めた列強諸国による日本への侵攻に危機感を覚えた江戸幕府は、1855年(安政2年)に外国の中古軍艦を購入。西洋式の技術を備えた幕府海軍の養成を目的として教師にオランダ軍人を迎え、長崎海軍伝習所を開校したのです。

伝習所で優秀な成績を収めた武揚は、1858年(安政5年)、江戸の「築地軍艦操練所」(つきじぐんかんそうれんじょ)の教授に抜擢されています。

その後、幕府の命により留学したオランダでは、様々な知識や技術を学んだだけでなく、幕府がオランダに発注していた最新鋭の軍艦・開陽丸(かいようまる)の造船監督としての役割も担っていました。そして武揚は1867年(慶応3年)、開陽丸と共に日本へ帰国。しかし、このときの日本は思いもよらない、激動の転換期を迎えていたのです。

最後の幕臣として戦い抜いた箱館戦争

江戸幕府の終焉と戊辰戦争勃発の経緯

この当時の日本は、アメリカをはじめとした列強諸国からの外圧により「尊王攘夷論」(そんのうじょういろん:天皇を敬い、外国を撃退しようとする思想)が急速な広がりを見せていた時代。そのため、薩摩・長州両藩を中心とした「尊王攘夷派」が倒幕を目指し、その活動が盛んになっていました。

このような状況を受けて、1867年(慶応3年)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が明治天皇に政権を返上。これは、「大政奉還」(たいせいほうかん)と呼ばれる政治的な出来事です。幕府のためにオランダで勉学に励んだ武揚でしたが、幕府が日本を統治する時代は、すでに終焉を迎えていたのです。

それではなぜ慶喜は、天皇すなわち朝廷に、すんなりと政権を明け渡したのでしょうか。

表向きの理由は、慶喜が「列強諸国が日本に迫っている中で、無用な争いは避けるべき。朝廷も幕府も心をひとつにして協力し、日本を守りたい」と考えたためとされています。

しかし、政権を交代しても、朝廷による新政府の実務機関は整っておらず、領地は変わらず徳川家の物であったため、徳川家には莫大な財産もある状態。それ故、慶喜は新しい政治体制になったとしても自身がそのまま実権を掌握でき、倒幕も成立しないだろう、ともくろんでいたのです。

このように、慶喜は西洋式の近代国家を目指していた倒幕派にとっては、脅威となる存在。そこで、倒幕派は「王政復古の大号令」を発し、江戸幕府の廃絶と新政府の樹立を改めて宣言します。

その翌日には、薩摩藩や公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)ら倒幕派の面々による「小御所会議」(こごしょかいぎ)を行ない、慶喜に右大臣の役職の辞任と徳川家の領地の返納を求める「辞官納地」(じかんのうち)を決定。

これを到底受け入れられない慶喜をはじめとした旧幕府派は、新政府側と対立。1868年(慶応4年/明治元年)1月に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)を皮切りに、戊辰戦争に突入していくことになりました。

江戸無血開城、そして箱館戦争へ

鳥羽・伏見の戦いでは、最終的に旧幕府軍が敗走。このとき、居城を二条城から大坂城に移していた慶喜は敗戦の知らせを聞くと、幕府の軍艦・開陽丸で江戸まで逃げ帰ってしまいました。

しかし新政府軍の追撃隊が、慶喜を追って江戸までやって来ます。このままでは江戸城下が火の海になってしまうだけでなく、その混乱に乗じて、外国から攻撃されるかもしれません。

このように考えた旧幕府軍陸軍総裁で、長崎海軍伝習所での榎本武揚の同窓生でもあった勝海舟は、新政府軍参謀で薩摩藩出身の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と会談。交渉の末、旧幕府軍は、戦わずして江戸城を新政府軍に明け渡すことを決定したのです。これにより、約150万人にも及ぶ江戸の住民が誰ひとりとして血を流さず、平和的に解決したことから、隆盛と海舟の功績として「江戸無血開城」と呼ばれています。

ところが、この無血開城を実現させる条件のひとつに、旧幕府軍の武器をすべて新政府軍に引き渡すことがありました。その武器の中には、開陽丸を含む幕府の軍艦も含まれていたのです。旧幕臣として主戦派(戦争することを主張する立場)を貫いていた武揚は、これを頑として拒否。1868年(慶応4/明治元年)8月に、開陽丸など8隻の軍艦を奪還して艦隊を編成。2,500名余りの旧幕臣達を引き連れて、品川沖を脱走しました。

五稜郭

五稜郭

樺太探検で培った土地勘を活かし、旧幕臣達との開拓を名目に、蝦夷地に向かって出航したのです。10月に蝦夷地に上陸した武揚率いる旧幕府軍は、すでに箱館の地を支配下に置いていた新政府軍の残りである箱館府兵や松前藩兵と箱館戦争を繰り広げることになります。

そして五稜郭を占拠した旧幕府軍は、12月には箱館の街を平定。江戸無血開城を経て行き場を失った旧幕臣達の生活を守るため、そして新政府に対抗するべく、五稜郭を本拠地とした事実上の新しい政権を樹立しました。武揚を総裁に選出したこの政権は、のちに「蝦夷共和国」と呼ばれています。

しかしながら、旧幕府軍のこのような動きを新政府が見過ごすはずもなく、1869年(明治2年)4月には、新政府の討伐軍が蝦夷地に上陸。5月11日には箱館において、新政府軍による陸海両面からの総攻撃が開始され、旧幕府軍の艦隊は壊滅状態に。遂には、旧幕臣として武揚らと共に蝦夷地に渡り、蝦夷共和国の陸軍奉行並であった元新撰組副長「土方歳三」(ひじかたとしぞう)が戦死してしまいます。このことにより、旧幕府軍は、新政府軍からの降伏勧告を受け入れざるを得なくなったのです。

戊辰戦争後に榎本武揚が歩んだ道とは

榎本武揚の運命を左右した意外な物

5月18日には榎本武揚ら蝦夷共和国の首脳陣らが降伏調印を行ない、五稜郭を開城。鳥羽・伏見の戦いより約1年半にわたる戊辰戦争が終結しました。武揚は、言わば新政府に対抗する反乱軍を指揮していた立場であったため、当然のごとく捕らわれの身となり、東京で牢獄生活を送ることになったのです。

箱館戦争で降伏勧告があった時点で自害する覚悟をしていた武揚は、肌身離さず大切にしていたある2冊の書物を戦災から守るため、新政府軍の参謀であった「黒田清隆」(くろだきよたか)に託しました。それは、フランスの法学者・オルトランが著した「万国海律全書」(ばんこくかいりつぜんしょ)。最新の国際法について書かれた物で、オランダ語に翻訳され、オランダ留学中にフレデリックスという教授からこの本を譲り受けた武揚自身が、びっしりと注釈を付けていたのです。

これを見た清隆は、武揚の情熱と才能に感銘を受け、頭を丸めてまで助命嘆願運動に奔走。武揚が投獄されている間に、清隆は「福沢諭吉」にこの本の翻訳を依頼します。すると、諭吉は4~5ページのみ訳しただけで「これはオランダで講義を受けた武揚本人だけが、正しく翻訳できる」として、武揚の助命を支援しました。

このような清隆の尽力の結果、1872年(明治5年)、武揚の助命が実現。近代国家の体制作りに必要な知識を兼ね備えていた武揚は、新政府すなわち明治政府に登用されることになったのです。

新政府における活躍ぶりはやせ我慢のおかげ?

榎本武揚は出獄後、名称を「北海道」に改められた蝦夷地の資源などを調査するため「開拓使」に入ります。そして1874年(明治7年)、「特命全権公使」(とくめいぜんけんこうし)に任命された武揚は、その翌年、日本とロシア帝国の国境を確定した「樺太・千島交換条約」(からふと・ちしまこうかんじょうやく)を締結。列強諸国と初めて対等な条件で渡り合った業績が認められ、1880年(明治13年)には「海軍卿」(かいぐんきょう)に就任。1882年(明治15年)には「皇居造営事務副総裁」となり、明治天皇より信頼を得ました。

1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると、武揚は重要な役職を歴任するようになります。

その遍歴は、6度の内閣で続けて任じられた、逓信大臣(ていしんだいじん:旧郵政大臣)・文部大臣・外務大臣・農商務大臣という様々な物でした。逓信大臣に就いていたときには、現代においても使われている郵便マーク(〒)を武揚が考案したという逸話が残っています。また、大臣遍歴の最後となった農商務大臣時代には、1890年(明治23年)以降、多数の被害を出した「足尾鉱毒事件」(あしおこうどくじけん)の責任を取り、自ら辞任。

1891年(明治24年)、福沢諭吉は、旧幕臣でありながら新政府に仕えた武揚に対し、結果的に主君・徳川家を裏切ったことについて「瘠我慢の説」(やせがまんのせつ)という著書によって反感を示しています。

しかし、これだけ多岐に渡る役職に任じられたのは、武揚のたぐいまれなる才能が買われてのこと。また、武揚がこれらの新政府の役職を引き受ければ、箱館戦争に敗れ、肩身の狭い思いをしている部下達に新しいチャンスを与えられるかもしれない、と考えてのことだったのです。

榎本武揚が愛蔵した短刀 銘 越前康継

このように榎本武揚は、自身のことだけでなく、共に戦った部下達の行く末も案じていたことからも分かるように、江戸っ子らしく義理人情に厚い実直な性格。それでいて西洋式の最新の技術について見識を備えていただけでなく、外交センスもあり、文字通り「和魂洋才」(わこんようさい:日本の伝統的な精神を大切にしつつ、西洋の知識や技術などを学び、それぞれを調和させること)な人物だったのです。

旧幕臣であった武揚は、新政府に仕えて重職に就いても、「武士の魂」は忘れていませんでした。その武士の魂を表わす最たる物は、やはり日本刀(刀剣)。

武揚は、武士という身分ではなくなってからも、ある刀工に鉄隕石を用いて「流星刀」(りゅうせいとう)という日本刀(刀剣)を4振作らせていることからも、武士の魂を捨てず、日本刀(刀剣)を愛蔵していたことが窺えます。

武揚の愛刀のひとつである短刀「銘 越前康継於武州江戸」(めい えちぜんやすつぐぶしゅうえど)においては、武揚の次男・春之助(はるのすけ)に形見として受け継がれ、長い間所持された物。

この短刀の作者である刀工・初代「康継」は、初めは、「肥後大掾下坂」(ひごだいじょうしもさか)と銘を切っていました。

短刀 銘 越前康継於武州江戸

短刀 銘 越前康継於武州江戸

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
越前康継
於武州江戸
重要刀剣 9寸8分(29.8cm) 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

そして越前康継は、文禄(1592~1596年)から慶長(1596~1615年)の間に、本国である「近江国」(おうみのくに)から「越前国」(えちぜんのくに)に移ると、越前福井城主で徳川家康の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)のお抱え鍛冶に。

1606年(慶長11年)、秀康の推挙により江戸幕府の「御用鍛冶」に召し出され、家康より「康」の1字を賜り、名を康継に改めます。

さらに、徳川家の家紋であった「葵紋」(あおいもん)を作刀した茎(なかご)に切ることも許可されたことから、初代康継は、「葵下坂」・「御紋康継」と称されるようになりました。

この短刀の銘に、「越前康継」だけでなく「於武州江戸」と切られているのは、家康により、越前国と江戸を1年おきに勤務するように命ぜられていたため。江戸で作刀した物には於武州江戸、そして越前国で鍛えられた日本刀(刀剣)には「越前住」という銘が切られていました。

1615年(慶長20/元和元年)には、「大坂夏の陣」において焼け出された豊臣秀吉の名刀類の再刃、及び復元の命を家康から賜った康継。その際に、「相州伝」(そうしゅうでん)上位工の作風を学び取ったとされています。この短刀においても、その刃文には沸(にえ)が付き、ところどころに金筋が入り、砂流しがかかるなど、相州伝上位工「則重」(のりしげ)を彷彿(ほうふつ)とさせる、出来の良い仕上がりとなっているのです。

初代康継作の短刀はほとんど見られず、また、刀身の表に「龍乗不動」(りゅうじょうふどう)の彫刻があるのは、康継の作刀ではこの1振のみであるため、非常に貴重な物となっています。

短刀 銘 越前康継と和魂洋才 榎本武揚

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