日本刀コラム

日本刀は実戦で有効だったのか

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日本刀が戦場でどれほど有効であったかを語ることは決して簡単ではありません。なぜなら、日本の歴史のなかで時代と共に戦い方が変われば、刀の意味合いも変わってきているからです。しかしひとつだけ言えるのは、日本刀は日本人にとって特別な存在だったということ。そんな日本刀の歴史を振り返りながら、日本刀は戦場で本当に有効だったのかを考察します。

戦闘方法と日本刀の役割

日本における「刀」の登場

天沼矛(天之瓊矛)

天沼矛(天之瓊矛)

712年(和銅5年)に成立した「古事記」(こじき:日本最古の歴史書)には、「イザナギノミコト」と「イザナミノミコト」が「天沼矛」(あめのぬほこ)「日本書紀」では「天之瓊矛」(あめのぬぼこ)と言われている物を使って日本列島を作ったという神話が記されました。

この話が象徴するように、日本で最初に使われた武器は「」(ほこ:木や竹の先端に鋭利な石や青銅製のを取り付けて敵を突き刺した)であったというのが定説です。

初めて神話に登場する刀剣は、イザナギノミコトが使用した「十拳剣」(とつかのつるぎ:だけで人間の拳10個分の長さがある剣)。のちに、アマテラスオオミカミ(天照大御神)の弟「スサノオノミコト」がこの剣を用いて「ヤマタノオロチ」と戦いますが、そのとき尾の中から1振の剣が出てきたとされ、これが「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)です。

そののち、ヤマトタケルノミコトが天叢雲剣で燃え盛る周囲の草を薙(な)ぎ払って命拾いしたことから、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と名付けられ、天皇の権威を象徴する「三種の神器」のひとつとなりました。

草薙剣(天叢雲剣)

草薙剣(天叢雲剣)

また「カムヤマトイワレビコ」のちの「神武天皇」(じんむてんのう)が敵との闘いで苦戦していたとき、アマテラスオオミカミは救援のために「韴霊剣」(ふつのみたまのつるぎ)という剣を贈り、この剣に導かれてカムヤマトイワレビコは戦に勝利したとされます。この韴霊剣は「甕布都神」(みかふつのかみ)または「布都御魂」(ふつのみたま)とも表記し、それは剣であると同時に神・魂でもありました。つまり、古事記が成立した8世紀の前半には、すでに刀剣に神などの不思議な力が宿るという考え方が定着していたと考えられます。

この逸話が示すように、古来の刀剣は武器というよりも、不思議な力によって持ち主を守る存在であり、朝廷の権威を象徴する物でした。事実、「聖徳太子」(厩戸[うまやど]皇子)が所有したとされる国宝丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)は、刃長(はちょう)65.8cmの細身の直刀(ちょくとう)で、とても実戦向きではなく、儀式用であったと考えられています。

丙子椒林剣
丙子椒林剣
-
鑑定区分
国宝
刃長
65.8
所蔵・伝来
聖徳太子 →
四天王寺

また刀剣には儀式以外にも重要な役割がありました。801年(延暦20年)、「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷(えぞ:日本の東北地方以北に住み、大和朝廷と敵対した勢力)の征伐に出陣する際、「桓武天皇」(かんむてんのう)は無事を祈って1振の刀を与えたことが記録に残っています。これを「節刀」(せっとう)と呼び、任務を無事に終えたら天皇に返却するのが習わしでした。

他にも遣唐使が日本を出発するときや、「豊臣秀吉」が小田原攻めをしたときなど、多くのシーンで天皇から節刀が与えられています。これらは、当時の人々が刀剣には持ち主を守護する神が宿ると信じていたことの証拠でもあるのです。

戦闘の主力は弓矢

鏑矢

鏑矢

古代から、日本における武器の主力は弓矢でした。平安時代の一般的な戦闘方法は「一騎打ち」です。

最初に大将が大声で相手軍をののしり、これに相手軍が呼応する「詞戦い」(ことばたたかい)が行われ、互いに「鏑矢」(かぶらや:矢の先頭にかぶらと呼ばれる中空の武具を取り付けた物で、射ると音が響いた)を放って開戦となりました。

まず両陣営から馬に乗った武将が現れ、走る馬の上から互いに矢を射かけます。このとき、馬を射ったり、他の者が手出ししたりすることは禁物。そして一騎打ちが決着すると、ようやく両軍相乱れての乱戦になりました。このときも、主力の武器は離れた場所から攻撃できる弓矢だったのです。

源平合戦」の最終決戦、1185年(元暦2年)の「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)では、源氏方の「浅利与一」(あさりよいち)が、9尺(約2.7m)の弓から長さ15束3伏(約126cm)の矢を4町(約400m)飛ばしたという話が「平家物語」に記されています。これが本当かどうかは定かではありませんが、のちの「太平記」(鎌倉時代の歴史を記した軍記物語)に「200m以上飛ばさないと遠矢[とおや:離れた場所に矢を飛ばすこと]とは言えない」という記述があることから、少なくとも当時の弓矢は200m先の敵を射る威力があったことは確かです。

一方、当時、戦場で刀が使われなかった訳ではありません。平家物語に、源氏方の「和田義盛」(わだよしもり)が、馬上での戦闘の心構えを味方のベテラン武将に尋ねるという逸話が登場します。ベテラン武将は「相手と距離を取って、相手の鎧兜の隙間に矢を射なさい。それでもダメなら馬を射て、敵が落ちたところを馬上から襲い、最後は刀で斬り殺しなさい」と答えました。このことから、刀剣は接近戦に用いるための武器として認識されていたことが分かります。

元寇で進化した日本刀

刀剣が弓矢に代わってメインの武器になれなかった理由は、離れた場所からの攻撃に向いていないことでした。日本刀は「突く」よりも「引き切る」ことを重視したため、折れないように刀身(とうしん)が太く重くなり、両手で握らないと扱うことができません。両手で握って引き切るために刃が届く範囲は短く、そのため薙刀(なぎなた)とは違い、近接して戦うことを余儀なくされたのです。

ちなみに西洋刀はフェンシングの剣のように「突く」ことを重視したため、より遠くの敵に届くように片手で扱う構造となり、刀身は細く軽く進化していきました。また西洋では刀を持っていない方の手で防御用の楯/盾(たて)を構えることができましたが、両手がふさがっている日本では楯を持つことができません。これが、手で持つ楯が日本で発達しなかった一因だと考えられています。なお、地面に置いて使う「垣楯/掻楯」(かいだて)は日本にもありました。

しかし、どれだけ刀身を太くしても、切れば必ず刃こぼれをしますし、使うほど折れやすくなります。それが、日本刀が戦場でメインの武器になれなかった大きな理由でした。

日本刀に転機が訪れたのは、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に元(現在のモンゴル)軍が日本に攻め込んだ「元寇」(げんこう)です。日本軍は元軍の集団戦法に大いに悩まされました。なかでも日本軍が最も悩まされたのが、当時の日本刀が元軍の「皮鎧」(かわよろい:煮詰めた皮を重ねた鎧)に通用しないことでした。

蛤刃と猪首鋒/猪首切先

蛤刃と猪首鋒/猪首切先

それまでの日本では騎馬から落ちた場合を想定して甲冑は頑丈に作られており、それに合わせて刀剣も「切る」より「斬る」(叩いて衝撃を与えて割る)ことが求められ、刀身も「蛤刃」(はまぐりば:刀の断面がハマグリの貝殻のようなカーブを描いた刀身)であり、鋒/切先(きっさき)も太く短い「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)が主流だったのです。

これが元軍の皮鎧に通用せず、多くの刀が鋒/切先に欠けを生じることになりました。皮鎧に対抗するには、蛤刃よりも刃を薄くして「切れる」刀にしなくてはなりません。

こうした元寇の反省から、刀工は日本刀の改良に全力で取り組みます。「折れず、曲がらず、よく切れる」という日本刀の優れた特性は、美濃国(現在の岐阜県南部)の刀工達によって実現されました。とりわけ、「関の孫六」(せきのまごろく)こと「孫六兼元」(まごろくかねもと)に代表される「関」(現在の岐阜県関市)の日本刀は、豊臣秀吉や「武田信玄」といった名だたる戦国武将達に愛用され、のちの日本刀に大きな影響を与えたのです。

武士が戦場に日本刀を携えた理由

こうして変化した日本刀は、実際に戦場でどれほど有効だったのでしょうか。それを知る手がかりになるのが、戦に勝利した側が戦いの成果を調べるために作成した「軍忠状」(ぐんちゅうじょう)という調査報告書です。

これによると、1467~1638年(応仁元年~寛永15年)の戦国時代に戦で死亡した人の死因・怪我の原因は、矢が38.2%、鉄砲が23.7%、槍が20.0%、石が12.4%、そして刀はわずか3.7%であったと言われます。

もちろんこれは士分(しぶん:馬に乗ることを許された騎士)と徒士(かち:徒歩で戦った兵士)が対象で、それ以下の足軽(あしがる:戦のときのみ臨時に雇われる雑兵)などは含まれないため、正確ではないという評価も否めません。

しかしこれを見る限り、戦国時代でも弓矢が最大の武器であったことは確かです。ひとつ間違えば命を失う戦場では、より遠くから相手にダメージを与えられる弓矢や鉄砲が最も合理的で、仮に白兵戦(刀剣などの武器を用いて相手と近接して戦うこと)になっても、少しでも離れた位置から攻撃できる槍や薙刀が重宝されたのは当然でした。

しかし、それでも武士が必ず日本刀を携えていたのには理由がありました。第1に、槍や薙刀などの柄が折れた場合や、柄をかいくぐって敵が接近してきた場合の予備の武器。第2に、平原が少なく草木の多い日本では、柄の長い武器が扱いづらいケースがあったこと。また室内の戦闘でも槍や薙刀を使うのはかえって不利でした。

そして、第3に最も重要な理由は、首取りのため。戦国時代の戦は軍同士の総力戦であると同時に、兵士同士の個人戦でもあります。戦が終結すると、勝利した軍が褒美を分け与える論功行賞(ろんこうこうしょう)が行われましたが、褒美の量を決める判断材料となったのが敵方の首級です。

兵士は自分がどれだけ多くの、そして名のある武将を討ち取ったかを示すため、倒した敵の首を持ち帰っていました。しかし腰に多くの首をぶら下げたままでは動きづらいため、首の代わりに鼻を切り取った者もいたそうです。いずれにせよ、こうして首を切るときに日本刀が必要になったため、兵士は戦場で必ず日本刀を携帯していました。

武士の魂としての日本刀

江戸時代の武士と日本刀

大小二本差し

大小二本差し

安土桃山時代中期頃になると状況が変わります。豊臣秀吉によって「刀狩り」が行われ、武士以外の僧侶や農民が刀を所持することが禁止されたのです。

そのあとの江戸時代には、幕府によって武士が持つ大小2振の日本刀の寸法が規定されました。大が打刀(うちがたな)で、刃長は2尺(約60.6cm)以上、小は脇差(わきざし)と言い、刃長は1~2尺(約30.3~60.6cm)。打刀は屋外の戦闘用、脇差は屋内の戦闘用だと言われています。

しかし、太平の世が訪れた江戸時代には日本刀を実戦で使用することは稀になり、日本刀は武器と言うよりも武士が備える権威の象徴となっていきました。

またこの頃、刀の材料として「玉鋼」(たまはがね)が盛んに使用されるようになります。玉鋼とは、日本の古式製鉄法である「たたら製鉄」によって作られた、不純物の少ない鋼のこと。玉鋼は純度が極めて高いため、刀にすると明るく華やかな刃文(はもん)を表現できるという特徴がありました。そのため、日本刀は美術品としての価値が重視されるようになります。

こうして刀工達は「折れず、曲がらず、よく切れる」という刀の特性に加えて、武士の魂を象徴する「美しさ」を追求することになるのです。この、安土桃山時代から江戸時代にかけての1596~1615年(慶長年間)以降に作られた刀を「新刀」(しんとう)と呼びます。

時代劇の嘘

武士は常に日本刀を携行していましたが、実際に武士が刀を抜くことは滅多になかったのです。よく時代劇で「切捨御免」(きりすてごめん:無礼を働いた者を斬っても許されること)という言葉が登場しますが、実際には「無礼を働いた者が詫びることなく無礼な行為を続ける」、「切り捨てる以外の解決法がない」、「一部始終を目撃した証人がいる」などの条件がない限り、切捨御免は認められませんでした。仮に条件が揃っていても、切り捨てた武士はのちに厳しい取り調べを受けたため、実際に切捨御免が行われたことはほとんどなかったと言われています。

武士同士が刀で激しく斬り合うなどは論外で、相手が力いっぱい振り下ろした刀を刀で受けると、確実に互いの刃が欠けました。他にも「峰打ち」(みねうち:刀身の裏側、刃の付いていない側で相手を叩くこと)という言葉がありますが、日本刀の構造上、峰側に衝撃が加わると高い確率で刀身は真っ二つに折れます。

このように、現実的にはほぼ使うことができなかったにもかかわらず、武士が日本刀を腰に差していたのは、ひとえに武士の魂であったからでした。

日本の「武士道」を世界に紹介した「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)は、その著書のなかで「刀は武士に自尊心と責任の感情を与える。刀は忠義と名誉の象徴である」と表現し、実際に武器として使用するときも、「武士は刀を正しく使用し、乱用することがあってはならない」と記しています。このように、当時の武士にとって日本刀は簡単に使用してはいけない武器であったのです。

日本刀は最強の武器なのか

では、日本刀は武器としてどれほどの攻撃力があったのでしょうか。日本刀は、あくまでも相手に限りなく接近したときに最大の威力を発揮する武器です。相手に接近した状態で使用すれば、少し刃が身体に触れただけで相手に大きなダメージを与えることができます。一方、銃には残り弾数という攻撃の限界があり、弾を撃ち尽くしたら威力はほぼゼロです。ところが日本刀は刀身が折れたり刀を取り落としたりしない限り、その殺傷力は維持されました。日本刀はその保ち続けられる殺傷力と、腰に差すことができるという携帯性をかね備えた、とてもバランスの良い武器であると言えます。

刀は何度も人を切ると刀身に血脂(ちあぶら)が付き、切れなくなると言われますが、これは俗説とのこと。実際の戦場では、甲冑や衣服の上から斬ることになるため、硬い物に当たって刃こぼれすることはありました。また乱戦となった戦場では剣術の腕を十分に発揮できないことも刀を傷付ける原因になったのです。

江戸時代に「首斬り」(幕府公認の試し斬り[試し切り]と死刑執行)を職業としていた「山田浅右衛門吉睦」(やまだあさえもんよしむつ)は、刑死した罪人の遺体で日本刀の試し斬りを行い、「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)という記録のなかで、切れ味が特に良かった日本刀を「業物」(わざもの)と格付けしました。

そのなかでも、10回斬り込んで7~8回「大いに」斬ることができた「備前長船兼光」(びぜんおさふねかねみつ)や「長曽祢興里」(ながそねおきさと:初代 虎徹[こてつ])などを「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)と命名。なお、業物と呼ばれるには10回のうち3~4回斬れることが必要でした。

近年、インターネットでは日本刀は最強の武器かどうかというテーマで活発な議論が行われています。しかし時代によって戦い方も違えば、同じ戦場でも戦況は変化するため、他の武器と比較して日本刀だけの威力を論じることはできません。しかしどの時代にあっても、日本人は日本刀が不思議な力を宿していると信じていたことは確かです。そして今日でも、博物館などで凛として冴えた刀身を観ると、私達はそこに神秘的な存在を感じてしまいます。

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