「青江派」(あおえは)とは、備中国青江(びっちゅうのくにあおえ:現在の岡山県倉敷市)で活躍したとされる刀匠の一派です。隣国である備前国邑久郡長船(びぜんのくにおくぐんおさふね:現在の岡山県瀬戸内市)の「備前長船派」とほぼときを同じくして共に繁栄し、平安末期から鎌倉・南北朝時代にかけて名声を上げました。その後、松山(現在の高梁市)や備中片山庄(現在の総社市周辺)で栄えた豪族の「上神氏」などのもとで武士と刀鍛冶を兼任していた背景から、南北朝時代に入って起こった政争の影響を受け、豪族達と共に衰退の運命に巻き込まれていったのです。
吉備国(きびのくに:現在の岡山県を中心とする地域)は、古来良質な鉄の産地として知られ、多くの刀匠を産出した備前国(びぜんのくに:岡山県の南東部)の発端となりましたが、隣国である備中国(びっちゅうのくに:岡山県の南西部)でも刀匠集団が栄えました。
「備中鍛冶」(びっちゅうかじ)として「安次」(やすつぐ)を祖とする「青江鍛冶」と、「則高」(のりたか)を祖とする「妹尾鍛冶」(せのおかじ)に分かれ、活躍を広げました。
開祖は安次で、その後安次の子である「守次」(もりつぐ)を祖とする「守次一派」と、隣接地である「万寿」(ます)を基点とした則高を祖とする「則高一派」が生まれました。
守次一派は「御番鍛冶」(ごばんかじ)を務めた「貞次」、「恒次」、「次家」などの名匠を多数輩出し、則高一派からも「常遠」、「正恒」、「常依」などの名匠を輩出しています。
青江派と古備前派の両者は、「古備前鍛冶」(こびぜんかじ)の分流が祖と考えられており、作風が非常に似ているため混同されがちです。
平安時代から鎌倉時代中期の青江鍛冶を「古青江」(こあおえ)、鎌倉時代中期から南北朝時代初期の青江鍛冶を「中青江」(ちゅうあおえ)、南北朝時代末期以降の青江鍛冶を「末青江」(すえあおえ)と呼びます。
後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた名匠ばかりの一門です。
年号を切るものは見られず、太刀の銘は佩表(はきおもて)と言う刃を下に向けた状態の表側に切るのが通常であるのにもかかわらず、佩裏(はきうら)という反対側に銘を切る裏銘の物が多く見られます。
地鉄(じがね)は鍛えの模様がはっきりと表れ、沸(にえ)という粒子の粒が目立ち、青く澄んだ地鉄の中に黒く色の異なる地斑(じふ)という斑点が見られるのが特徴です。これを澄肌(すみはだ)、または墨肌(すみはだ)と呼びます。刃文は直刃仕立ての小乱れ交じりです。
※近年の研究により、数珠丸恒次はこの備中国の「古青江恒次」ではなく、備前国の「左近将監恒次」(さこんのしょうげんかねつぐ)の作とする説もあります。
当時は青江鍛冶の全盛期で刀匠が多かったため、多くの名刀が残されています。
最古の物は1313~1316年(正和年間)。また、居住地や官名を切る者も現れます。
「蒙古襲来」の背景もあり、武士好みのしっかりとした姿が重用されたのです。前代の作風を引き継ぎ、地鉄には澄肌が見られ、刃文は直刃調を主としますが、古青江には見られなかった丁子乱(ちょうじみだれ)の物も見られるようになりました。
猪首鋒/猪首切先
「太刀 銘備中国住吉次/重要文化財」徳川家達公爵が藤島神社に奉納。
当時の政争の影響を受け、武士と共に衰退し四散していった一派。青江らしい作風は減少します。
大太刀
地肌には澄肌はほぼ見られなくなり、刃文は沸の多い中直刃で、乱れ刃も見られます。また、この時代の刀の特徴である刃長3尺(およそ90cm)を超える太刀、大太刀(おおたち)が登場しました。