歴史上の人物と日本刀

幕末維新のキーパーソン・孝明天皇と刀 無銘 伝正宗

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幕末(1853~1869年)に活躍した歴史的人物と言えば、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「坂本龍馬」(さかもとりょうま)など、階級の違いはあれど、武士出身の「志士」(しし:社会や国家のために、自らを犠牲にして尽くそうとする高い志を持つ人)たちを思い浮かべる方が多いかもしれません。 しかし、朝廷側にも幕末における日本の行方を左右する鍵を握る人物がいました。それは、幕末時代の朝廷側のトップであった「孝明天皇」(こうめいてんのう)。江戸時代最後の天皇が、理想の日本を守るために行なったこととは?孝明天皇の佩用していた刀「無銘 伝正宗」と共に、その詳細についてご紹介します。

常識を覆した!?孝明天皇が幕府に取った前代未聞の行動

孝明天皇

孝明天皇

1831年(天保2年)、「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の第4皇子として生まれた孝明天皇。1846年(弘化3年)1月に仁孝天皇が崩御したことにより、同年2月16歳で即位しました。

この当時の世界情勢は、アメリカやイギリスといった列強諸国が、アジア進出に乗り出していた時期。例えば、孝明天皇が即位する以前の1840~1842年(天保11~13年)には、日本にとって大国であった清(しん:現・中国)とイギリスの間で「アヘン戦争」が勃発。

その結果清が敗北し、イギリスと不平等条約を締結したことから、鎖国体制下で「攘夷論」(じょういろん:外国との通商に反対し、外国を排撃しようとした思想)が主流となっていた日本において、江戸幕府内では開国を主張する気運が少しずつ高まり始めていました。

実際に江戸幕府は、1825年(文政8年)に発令された、日本の沿岸に接近してくる外国船を打ち払うことを命じた「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を1842年(天保13年)に廃止。日本に漂着した外国船に薪や食料などを与えて出国してもらう旨を定めた「薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を新たに発布したのです。

そんな中、1844~1846年(弘化元~3年)にかけて、フランス船やイギリス船が琉球に来航。孝明天皇が即位した1846年(弘化3年)には、択捉(えとろふ)島にアメリカ捕鯨船が漂着。さらには、アメリカ・東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀へ来航して日本との通商を求めたり、フランス・インドシナ艦隊司令官のセシュが水と燃料を求めて長崎に来航したりと、多くの外国船が日本を訪れるようになっていました。

「攘夷派」を貫いていた孝明天皇は、日本を取り巻くこの状況を鑑みて、列強諸国が日本に侵攻してくることを危惧。そして、当時の常識では考えられなかった行動に出たのです。それは幕府に対して、外国船に関する「勅書」を下すこと。その内容を要約すると、「最近、外国船が来航しているという噂を耳にする。幕府の面々は、外国を侮らず恐れず、日本の恥とならないように十分に対処し、朕を安心させるように」という物。

江戸時代において幕府のトップである征夷大将軍は、天皇を中心とした朝廷から任命される官職でした。しかし、実質的な権力を握っていたのは幕府側。つまり、天皇が勅書を出して幕府の政策に意見することは、有り得ないことだったのです。

戸惑いを隠せない幕府でしたが、京都所司代(きょうとしょしだい:京都に駐在し、京都の警備や、朝廷・公家の監察などにあたった行政機関)の「酒井忠義」(さかいただあき)を通じて、外国船渡来についての状況を孝明天皇に報告。攘夷論者や倒幕派が台頭してきたこともあり、幕府にとっての朝廷は無視できない存在になってきつつあったのです。

攘夷論者でありながら、「倒幕派」ではなく「公武合体派」

ペリー来航で幕府により開国を強行

ペリー来航

ペリー来航

度重なる列強諸国の日本近海への接近により、アヘン戦争における清の二の舞になることを恐れていた幕府。しかしながら、その外圧にどのように対抗していけば良いのか、考えあぐねていました。

そして遂に1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が、開国と通商を求めて浦賀(うらが:現・神奈川県横須賀市)に来航し、翌年には「日米和親条約」を締結。このときの孝明天皇は幕府に対して、朝廷のあった京都を含む関西地方の警備強化を約束させるだけに留まり、和親条約に関する苦言は特に呈していません。

それは、和親条約が日本とアメリカの友好関係を約束するためだけのものであり、通商を許可して完全に開国することを謳っているものではなかったからです。

しかし、1858年(安政5年)アメリカの総領事・ハリスから、「日米修好通商条約」の調印を迫られます。その内容は、「日本の関税自主権の放棄」や「アメリカの治外法権の認可」など、日本にとって不利な取り決めばかり。それにもかかわらず、結果としては幕府の大老「井伊直弼」(いいなおすけ)が、ハリスの要求に応じる形で、孝明天皇の勅許を得ずに通商条約に調印することになりました。

この調印は井伊直弼が独断で行なったと思われがちですが、実は井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ることを最後まで粘っていた立場。そのため、老中「堀田正睦」(ほったまさよし)を参内(さんだい:宮中に参上すること)させ、直々に条約締結の勅許を求めましたが、孝明天皇は「アメリカの思い通りになってしまっては、天下の一大事。朕の代にこのようなことになるのは、後代までの恥となる」として、アメリカが望むのであれば戦争も辞さない意志を表明し、条約締結による開国を断固拒否したのです。

しかしながら、ハリスから申し渡された回答の期日が迫っていたため、老中「松平忠固」(まつだいらただたか)により、強引に条約を締結する方向に推し進めたということが真実だと言われています。

妹「和宮」を徳川家へ降嫁させた理由

勅許なしでの条約締結によって激怒した孝明天皇は、譲位を表明してまで抗議に出ることに。勅許を得ずに通商条約に調印したことの責任追及、その経緯の説明などを幕府に求めようとしました。

しかし、すでに幕府に不信感を抱いていた孝明天皇は、本来ならば関白を通じて幕府に話を通すべきところを、徳川家の御三家のひとつで将軍選定の決定権を持っていた水戸(みと)藩に直接勅書を下賜。のちに「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)と呼ばれる事件ですが、これは1858~1859年(安政5~6年)にかけて井伊直弼主導で断行された、戊午の密勅の関係者、及び攘夷論者を大弾圧した「安政の大獄」(あんせいのたいごく)の引き金となりました。

安政の大獄を始めとした井伊直弼の恐怖政治により、倒幕を志す「尊王論」(そんのうろん:天皇を第一に敬う思想)と攘夷論が結び付いた「尊王攘夷論者」の反発が激化。そして幕府内だけでなく、外部においても、「開国派」と「尊王攘夷派」で二分することになったのです。

この混乱を鎮め、幕府がもう1度諸藩の大名の信頼を回復するためには、幕府と朝廷の結び付きを再び強固なものにする「公武合体」の政策が必要。そう考えた幕府はその証しとして、10年の間に軍備を整備して攘夷を実行し、鎖国体制に戻すことを条件に、孝明天皇の異母妹・和宮(かずのみや)の降嫁(こうか:皇族の娘が、臣下など皇族以外の男性に嫁ぐこと)を申し入れました。

6歳のときにすでに「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していた和宮はこれを嫌がり、妹思いの孝明天皇も当然拒否。しかし、孝明天皇は一貫した攘夷論者でありながらも倒幕の意志はなく、むしろ幕府の武力を借りて鎖国することを望んでいたため、1861年(万延2年)に、第14代将軍「徳川家茂」(いえもち)のもとへ和宮を泣く泣く降嫁させたのです。

和宮の降嫁をきっかけに、朝廷のほうが幕府よりも優位な立場になり、攘夷が実行されるようにも思われました。しかし、1865年(慶応元年)イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヵ国連合が、数隻の軍艦と共に大阪湾へ来航。「日米通商条約」、及びその他の列強諸国の条約に対する勅許を求めたのです。このときには世界情勢を悟り、また、4ヵ国による京都砲撃の可能性も示唆された孝明天皇は、遂に条約勅許を下しました。

そして、1866年(慶応2年)12月25日、孝明天皇は36歳の若さで崩御。その原因は、天然痘の悪化とも、孝明天皇が公武合体派であったことから、倒幕派によって暗殺されたのではないかとも言われています。

どちらにしろ、攘夷論者でありながら倒幕の意志は示さず、むしろその存在を認めていた孝明天皇の突然の崩御により、江戸幕府は終焉への道を一気に突き進むことになるのです。

孝明天皇にとっての刀「無銘 伝正宗」の存在

「朝夕に 民やすかれと思ふの身の 心にかかる異国(とつくに)の船」。これは、孝明天皇の御製(ぎょせい:天皇が作った詩歌)。1854年(安政元年)に詠まれた物ですが、同年には日米和親条約が締結され、日本各地で大地震が発生するなど、日本全体が大混乱に陥っていました。

孝明天皇が頑なに開国を拒んだのは、単なる西洋嫌いであったからと揶揄されることがありますが、この御製からは孝明天皇がどれほど日本国民のことを思い、胸を痛めていたのかが窺えるのです。

そのような不安な状況の中、孝明天皇の心の拠り所になっていたかもしれない物が日本刀。刀と言えば武士が戦で用いる武具、もしくは武家に伝来する家宝のような物というイメージを持たれるかもしれません。しかし、天皇家における刀剣は、世継ぎが生まれると新しい刀剣を作って「守り刀」として贈り、また皇室行事では「神宝」として納められるなど、武家にとっての刀と同じくらい重要な物だったのです。

天皇家に伝来している刀剣は数多くありますが、その中で孝明天皇が佩刀していた物が、刀「無銘 伝正宗」。「正宗」の生没年は不明ですが、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍したとされています。正宗は、父「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)と同様に、鎌倉時代中期に相模国(さがみのくに)で興った伝法相州伝の祖「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)に学び、相州伝の作風を完成させました。

刀 無銘 伝正宗

刀 無銘 伝正宗

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
(無銘) 特別重要刀剣 68.3cm 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

伝正宗は無銘になっていますが、正宗が鍛えた太刀や刀のほとんどには銘が見当たりません。その理由には、正宗が「日本刀中興の祖」と仰がれるほどの名工であり、彼自身も作刀技術に絶対的な自信を持っていたため、銘など切る必要はないと考えていたとする説や、貴人に直接納入する日本刀に銘を切ることは、失礼にあたるとされていたためという説があります。

しかしながら、伝正宗の刃文は、小湾れ(のたれ)乱れに互の目(ぐのめ)乱れが交じる、正宗の作風の特徴をよく示していることから、正宗作であると見極めることが可能。また、相州伝の真髄とも言える焼き入れ法が、強く輝くように冴えた沸(にえ)によって表現されています。

幕末維新のキーパーソン・孝明天皇と刀 無銘 伝正宗

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