歴史上の人物と日本刀

短刀 来国光と塩河国満・本多忠政

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鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)で活躍していた刀工集団「来」(らい)派は、「粟田口」(あわたぐち)派と並ぶ、「山城伝」(地域別に5つに分けられた作刀の伝法・五箇伝[ごかでん]のひとつ)の一大勢力でした。 来派の中でも、「来国光」(らいくにみつ)が作刀した日本刀は最も多く残っていると言われており、太刀・短刀共に見られますが、太刀には「名物」(めいぶつ:日本刀の世界で特に姿が優れている物)とされた物はなく、国光の名物は短刀であることがほとんどです。今回は、それらの短刀のうち、重要文化財にも指定されている「塩河来国光」と、それを所持していた2人の人物、「塩河国満」(しおかわくにみつ)と「本多忠政」(ほんだただまさ)についてご紹介します。

めまぐるしく変わる支配者を渡り歩いた摂津国の有力者・塩河氏

信長の上洛で火蓋が切られた摂津国の領主争い

多田神社

多田神社

塩河来国光の名称は、もとの所持者が戦国時代の摂津国多田庄(せっつのくにただのしょう:現在の兵庫県川西市)の国人領主・塩河国満であったことに由来しています。

塩河氏は、代々「多田院」(ただいん:現在の多田神社)を護衛するなどの奉仕にあたっていた武士団「多田院御家人」の家柄であり、国満はその筆頭格で、彼の時代に塩河氏の最盛期を迎えました。

1568年(永禄11年)、織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して、上洛を果たします。このとき、摂津国を含む近畿地方は、その地域一帯を制していた武将「三好長慶」(みよしながよし)亡きあと、長慶に仕えていた「三好三人衆」と呼ばれる3人の重臣、「三好長逸」(みよしながやす)・「三好宗清」(みよしむねきよ)・「岩成友通」(いわなりともみち)と「松永久秀」(まつながひさひで)の配下に置かれていました。しかし、上洛に際し、信長は彼らの放逐を試みて成功します。これに伴い国満は2万石で旧領を安堵され、信長に従属することになったのです。

国満以外の摂津国人もこれに乗じて信長に通じ、「伊丹親興」(いたみちかおき)・「池田勝正」(いけだかつまさ)・「和田惟政」(わだこれまさ)という3人の武将が「摂津守護」に任じられ、三好氏に代わって摂津国を統治することに。

しかし、この「摂津三守護」の配下時代であった1570年(元亀元年)、池田勝正の弟・知正(ともまさ)が、池田家の重臣であった「荒木村重」(あらきむらしげ)と共に三好三人衆に通じて信長を裏切り、国満も三好方として参戦した「野田城・福島城の戦い」が勃発。池田家当主であった勝正を追放します。

さらに、翌年の「白井河原の戦い」(しらいかわらのたたかい)では和田惟政を敗死させ、信長からその性格を気に入られた知正は、一時的に摂津国を配することになったのです。

荒木村重の台頭から謀反、それに付従った塩河国満の結末

1573年(天正元年)頃になると、信長と足利義昭の仲が次第に険悪に。このとき、知正は周囲の反対を押し切って義昭方に属するようになります。しかし荒木村重は、知正のもとを離れ織田氏側に寝返りました。のちに知正が信長に降伏して村重の家臣となったことで、池田家は村重に乗っ取られてしまったのです。

1574年(天正2年)、村重は摂津国人・伊丹(いたみ)氏が配していた「伊丹城」(別称:有岡城[ありおかじょう])を陥落。自身が伊丹城主となり、摂津国を一任されます。この頃の国満は、村重の娘婿となり、村重の配下に組み込まれていました。

その後も、織田氏側であった村重に属していた国満。1570年(元亀元年)から約10年間にわたり、「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)で浄土真宗本願寺の勢力と信長が対立した「石山合戦」では、塩河氏の居城「山下城」(別称:一蔵城[ひとくらじょう])を守備し、本願寺の救援を阻止。そして、1577年(天正5年)には、本願寺に内通していた者がいた多田院御家人衆との戦にも積極的に応じるなど、武功を重ねていったのです。

しかし、村重は突如、信長に対して反旗を翻します。それは、1578年(天正6年)10月のこと。織田氏と播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)の戦国大名・別所氏による「三木合戦」で羽柴(豊臣)秀吉軍に参陣していた村重でしたが、本願寺側に寝返り、伊丹城に籠城。この謀反にも国満はしたがい、村重の籠城と織田軍の攻防は1年もの間続きましたが、荒木一族を徹底的に皆殺しにするなどの信長からの追及により、最後に村重は伊丹城を脱出し、毛利氏に亡命したのです。

村重が敗北した大きな要因は、自身の側近で主戦力であった「高山右近」(たかやまうこん)・「中川清秀」(なかがわきよひで)が織田氏側に寝返ってしまったこと。

これに伴い国満もまた、信長に帰順。自身(息子・長満[ながみつ]の説あり)の娘を信長の嫡男・信忠(のぶただ)の側室にまで上らせて、信長の嫡孫となる秀信(ひでのぶ)が生まれるなど、塩河氏は織田政権下の摂津国で、一定の地位を着実に確立していきました。

徳川氏の功臣・本多家の名に恥じない活躍を見せた本多忠政

本多忠政

本多忠政

1582年(天正10年)の「本能寺の変」で信長が倒れると、同年に起こった「山崎の戦い」では羽柴秀吉軍に属して参戦。それ以来、秀吉に従った塩河氏。これまでのことからも、塩河氏は誰が次の天下人になり得る存在なのかを見通す力があったことが分かります。

そんな先見の明を持つ塩河氏は、自身が所持していた短刀・塩河来国光にも高い価値があることを、すでに見抜いていたかもしれません。

のちにこの来国光は、徳川氏の功臣として「徳川四天王」の1人にも数えられる戦国武将「本多忠勝」(ほんだただかつ)の嫡男・忠政(ただまさ)が入手します。

忠政の初陣は、1590年(天正18年)、豊臣方が後北条(ごほうじょう)氏を討った「小田原征伐」。以降、父と共に数々の合戦に参加し、武勲を立てていきました。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、江戸幕府第2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に従軍して中山道(なかせんどう:江戸時代の五街道のひとつ)を進行。そして、信濃国(しなののくに:現在の長野県)の上田城において、徳川氏と真田氏の間で繰り広げられた「第2次上田合戦」に参戦し、真田勢に猛攻を仕掛ける役目を果たします。

1609年(慶長14年)に忠勝が隠居すると、家督を継ぎ、伊勢国桑名藩(いせのくにくわなはん:現在の三重県桑名市)の第2代藩主となった忠政。1614年(慶長19年)に豊臣家と江戸幕府が対立した「大坂冬の陣」では徳川方の先鋒を命じられ、翌年の夏の陣と通して、292もの敵首を討ち取ったと言われています。

この武功が認められ、1617年(元和3年)、西国の押さえとなるべく播磨国の姫路城主として、15万石で封じられました。その翌年に忠政によって改修された姫路城は、今でもその当時の姿を留めています。

名物・短刀「塩河来国光」とはどんな日本刀?

戦乱の信長統治時代を経て、太平の世となった江戸時代には本多家に伝来した塩河来国光。第8代将軍・徳川吉宗が「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)とその一族に編纂させた刀剣台帳「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に所載された名物で、1937年(昭和12年)に重要美術品に指定され、1952年(昭和27年)には重要文化財に格上げされています。

短刀 塩河来国光

短刀 塩河来国光

鑑定区分 刃長 所蔵・伝来
来国光 重要文化財 8寸3分(25.3cm) 本多美濃守
忠政所持→
本田家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
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来国光は、諸説ありますが、来派を代表する名刀工「来国俊」(らいくにとし)の子とされ、彼の短刀の作風は様々な物が見られながらも、いずれもやや強い沸(にえ)が全体に付いて覇気があるのが特徴。制作年代が鎌倉時代後期から南北朝時代と見られるこちらの短刀も、その特徴通り地沸が厚く、小互の目(こぐのめ)乱れになっている刃文には小沸がよく付き、匂口が明るくなっています。

また、付属されている金無垢の二重鎺(ふたえはばき)の上貝(うわがい)に切られているのは、「うめたゝ寿斎」(うめただじゅさい)という銘です。これは、桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した刀工でありながら、桃山時代の3大名鐔(つば)工でもあった「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)の孫、「埋忠寿斎重長」の物。つまり、名刀工・来国光によって作られた刀身だけでなく、鎺、すなわち「拵」(こしらえ:日本刀の刀装具)の一部分に至るまで価値が高い物であることが窺えます。

短刀 来国光と塩河国満・本多忠政

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立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊

立花宗茂の刀 無銘 伝二字国俊
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「徳川家康」(とくがわいえやす)は、1542年(天文11年)に三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)「岡崎城」で生を受けました。岡崎城は、徳川家康の祖父である「松平清康」(まつだいらきよやす)が戦国時代中期に「西郷氏」(さいごうし)から奪取した場所で、岡崎平野が広がる豊穣な地でありながら、交通の要衝でもあったため、争奪が繰り広げられる場となっていたのです。江戸時代、岡崎藩は徳川家康誕生の地として厚遇され、徳川家にとって特別な場所となっていました。今回は岡崎藩の歴史を振り返ると共に、岡崎藩最後の藩主家となった「本多平八郎家」(ほんだへいはちろうけ)に伝来した名刀「則房」(のりふさ)をご紹介します。

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朝香孚彦と靖国刀の靖光

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1876年(明治9年)、明治新政府が発した「廃刀令」によって、それまで「武士の魂」とされていた日本刀の実用品としての需要は衰退。刀匠や金工師、鞘師など日本刀制作にかかわってきた大多数の職人は廃業を余儀なくされるなど、日本刀は「冬の時代」を迎えていました。大正時代に入ると、日本刀の材料である「玉鋼」(たまはがね)を精製する日本古来の「たたら製鉄法」が廃絶。しかし、風前の灯となっていた刀剣文化が息を吹き返しました。そのきっかけは、皮肉にも戦争の拡大。昭和初期、日本が軍国主義の道を進むにつれて、刀剣は「軍人の魂」として、需要が拡大。「日本刀鍛錬会」が創設され、「靖国神社」の境内に鍛錬所が設置されました。そこで制作された軍刀が「靖国刀」です。見た目が美しく、実用性の高い靖国刀は、恩賜刀(天皇から与えられる日本刀)としても用いられました。 ここでは、昭和初期の刀剣をめぐる状況と共に、元皇族で陸軍軍人の「朝香孚彦」(あさかたかひこ:元皇族・朝香宮孚彦王)に贈られた靖国刀「靖光」(やすみつ)についてご紹介します。

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織田有楽斎(織田長益)と短刀「有楽来国光」

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織田有楽斎(おだうらくさい)は織田信長の弟で、本名は織田長益(おだながます)と言います。武将として合戦に参戦し、大草城や深志城の城主になるほどの手腕を発揮。しかし、温厚な性格だった織田有楽斎(織田長益)は茶道に励むのでした。 「本能寺の変」で織田信長が自害したのち、織田有楽斎(織田長益)は豊臣秀吉に仕え、茶人として頭角を現します。ついには「わび茶」の完成者・千利休の高弟「利休十哲」に数えられるまでになり、武家茶道「有楽流」を確立します。さらには織田有楽斎(織田長益)の屋敷があったとされる町に「有楽町」(東京都千代田区)という名まで付けられました。 幾度も合戦に参戦しながらも、茶人として生きた織田有楽斎(織田長益)。 織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三英傑に仕えるなど波乱に満ちた織田有楽斎(織田長益)の人物像に迫ると共に、彼が愛用した日本刀「有楽来国光」(うらくらいくにみつ)についてご紹介します。

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日本刀 山鳥毛の写しと愛刀家上杉謙信

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山名宗全と堀川国広の薙刀 磯波

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「凡そ例といふ文字をば向後は時といふ文字にかへて御心えあるべし」 この一文は、室町時代の説話集「塵塚物語」(ちりづかものがたり)に記載されている「山名宗全」(やまなそうぜん)の台詞で、「今現在の時勢こそ大切なのだ」という宗全のモットーが語られています。宗全が生きた時代は、室町幕府における守護大名の体制が変化していった時代で、諸国各地で対立や争いが勃発していました。そして何より宗全こそが、日本を戦乱の世へと導いた象徴的人物だったのです。 今回は、室町時代に勢力を拡大した守護大名・山名宗全をご紹介すると共に、彼の子孫が刀匠に注文したとされる薙刀について見ていきます。

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