歴史上の人物と日本刀

太刀 包永は本多忠刻と千姫の愛の証し!?

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美男美女のカップルは、いつの時代も周囲から羨望のまなざしを浴びていますが、戦国時代にもまた、そのようなカップルが何組もいました。「徳川家康」の孫娘「千姫」(せんひめ)と彼女の2番目の夫「本多忠刻」(ほんだただとき)も、容姿端麗でお似合いであったと伝えられる夫婦。しかしながら、その幸せは短く儚い物でもありました。今回は、数奇な運命に翻弄された千姫の生涯と、彼女が忠刻の形見として持っていたとされる太刀「包永」(かねなが)についてご紹介します。

徳川家と豊臣家の間で揺れる千姫

千姫

千姫

1597年(慶長2年)、徳川家康の三男で江戸幕府第2代将軍でもある秀忠(ひでただ)の長女として生まれた千姫

1603年(慶長8年)に「豊臣秀吉」の三男・秀頼(ひでより)のもとへ嫁ぐことになりますが、このとき千姫はわずか7歳、秀頼は11歳。現代で考えると2人ともまだ子どもの年齢であり、さらにいとこ同士でもありましたが、この婚姻は秀吉の遺言。秀吉が亡くなる以前は、徳川家は豊臣家の家臣でありその従属関係を約束するための、いわゆる政略結婚だったのです。

秀吉没後の1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」の勝利により、征夷大将軍となった家康が江戸幕府を開きます。これにより、徳川家と豊臣家の立場は逆転することになりましたが、家康は秀吉の遺言通りに、秀頼と千姫の婚姻を実現。その裏には、豊臣家、及び豊臣方に付いていた大名達を懐柔し、幕府による支配を確固たるものにしようという家康の思惑がありました。そのため、秀頼の母、千姫にとっての姑「淀殿」(よどどの)は、千姫のことをあまり良く思っていなかったとする説もあります。

しかし、秀吉に重用された安土桃山時代を代表する絵師、「長谷川等伯」(はせがわとうはく)に手ほどきを受けたと見られる千姫が描いた猿の絵が残っており、豊臣家の跡取りの嫁にふさわしい女性になれるように、淀殿が千姫に質の高い教育を施そうとしていたとも考えられているのです。

敵方の姫とは言っても、淀殿にとって千姫は自身の妹「お江」(おごう)の娘、すなわち血の繋がった姪。息子である秀頼と同様に可愛がっていたという見方もできるのではないでしょうか。

千姫の運命を変えた「大坂夏の陣」

政略結婚で結ばれた秀頼と千姫でしたが、仲睦まじい夫婦であった2人。千姫が16歳のとき、成人を祝う「鬢削ぎ」(びんそぎ:女子の垂れ髪の鬢、耳ぎわの毛の先を婚約者や父兄が切り削ぐこと)の儀式の際、秀頼が自ら切り揃えたというエピソードが知られています。

しかし、そんな2人の仲を切り裂くような事件が1615年(慶長20年)に勃発。それは、戦国時代における天下統一の決定打となった合戦大坂夏の陣。徳川家と豊臣家が対立した戦いで、1度目となる「大坂冬の陣」は1614年(慶長19年)に起こっています。

1615年(慶長20年)5月7日には、千姫が秀頼や淀殿と共に暮らしていた大坂城が、徳川方の猛攻により落城。このとき、千姫は秀頼らと共に自害する覚悟でいました。そんな中、豊臣家の重臣「大野治長」(おおのはるなが)に、秀頼と淀殿の助命を嘆願するように頼まれた千姫は、豊臣方の武将「堀内氏久」(ほりうちうじひさ)を護衛に付けて城を脱出。そして、徳川方の武将「坂崎直盛」(さかざきなおもり)の陣のもとに送り届けられ、家康の本陣へ辿り着いたのです。

祖父・家康に、必死になって秀頼と淀殿の命を救うように嘆願した千姫でしたが、家康はこれを断固拒否。大坂城落城の翌日、秀頼と淀殿は自害しました。千姫の脱出劇は、豊臣家が滅亡する結末を迎えましたが、千姫は秀頼と側室の間に生まれた娘「奈阿姫」(なあひめ:名前には諸説あり)の助命を勇敢にも訴え、養女として引き取ることに。奈阿姫は、のちに「天秀尼」(てんしゅうに)の名で「東慶寺」(とうけいじ)に出家します。そして、夫との離縁を望む妻の駆け込み寺の住職として、悩める女性達の救済に尽力しました。

きっかけはひと目惚れ!?本多忠刻との出会いから別れまで

本多忠刻

本多忠刻

家同士の争いにより、夫・秀頼と別れることになった千姫。まだ19歳であった千姫のことを可愛がっていた家康は、新しい嫁ぎ先を探すように坂崎直盛に依頼します。そして直盛は、とある公家との縁談をまとめ、縁組みの日取りまで決めるところまで話を進めました。

しかし突然、家康からその縁談を取りやめる連絡が直盛のもとへ届きます。家康は、自身の功臣として「徳川四天王」に数えられた武将で、桑名藩初代藩主であった「本多忠勝」の孫・忠刻と千姫を結婚させることにしたのです。

家康が忠刻を千姫の再婚相手に選んだ理由には諸説ありますが、そのひとつが、忠刻の母「熊姫」に懇願されたからというもの。熊姫は、息子・忠刻と千姫に婚姻関係を結ばせることで、徳川家と本多家の関係をより強固な物にしようと考えたのです。と言うのも、熊姫は家康の嫡男・信康(のぶやす)の娘。すなわち、徳川家と本多家は血縁関係にありました。

しかし熊姫は、「織田信長」の命令であったとは言え、自身の父・信康が家康に自害させられたという辛い経験をしています。このことから、徳川家の血縁というだけでは、いつお家が取り潰しになるか分からない、と懸念したのではないでしょうか。

そして、もうひとつ興味深い逸話として残っているのが、千姫が忠刻にひと目惚れをしたという説。これは、1615年(慶長20年)7月、大坂城から徳川家へ身元を引渡されることになった千姫が、江戸へ向かう道中、「七里の渡し」(東海道における宮宿:現・名古屋市熱田区と桑名宿:現・三重県桑名市を結ぶ海路)の船中で、忠刻と乗り合わせたことがきっかけになったというもの。

眉目秀麗な忠刻をひと目見て恋に落ちてしまった千姫の思いを、家康が叶えてあげたとされています。家康は、政略結婚の犠牲になった千姫の本当の幸せを願っていたのかもしれません。

1616年(元和2年)、晴れて忠刻と夫婦になった千姫は、桑名城へ輿入れ。その翌年に忠刻の父・忠政(ただまさ)が姫路藩に移封になると、千姫も共に姫路城へ。そして1618年(元和4年)には千姫の初めてとなる出産で、長女「勝姫」(かつひめ)が誕生。さらに1619年(元和5年)には、本多家の跡取りとなる長男「幸千代」(ゆきちよ)が生まれたのです。

そんな幸せな日々も束の間、1621年(元和7年)に幸千代が早世します。それに続いて、1626年(寛永3年)5月7日、忠刻が結核のために死去。奇しくも大坂城が落城したときと同じ日付でした。

千姫の失意の日々を見守った太刀「包永」

忠刻がこの世を去った同じ年の6月には、千姫の義母である熊姫が、そして9月には実母お江が亡くなってしまいます。立て続けに愛する人々を失い、また本多家においても跡取りの正室の立場から一転し、悲しみにくれていた千姫。そんな千姫の心を支えていたかもしれない物が、太刀「包永」だったのです。

太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
包永(金象嵌)
本多平八郎忠為
所持之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
本多忠刻→
千姫→徳川家光→
徳川綱吉→
松平忠周→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

この太刀はもともと、忠刻が所持していた物(金象嵌銘にある忠為は忠刻の別名)。忠刻が亡くなってから失意の日々を過ごしていた千姫でしたが、江戸幕府第3将軍で実弟であった「徳川家光」の申し出により、江戸城に呼び戻されます。このとき、千姫は太刀「包永」を忠刻の形見として、将軍家に持ち帰ったのです。

この太刀を作刀した初代「包永」は、鎌倉時代末期の正応年間(1288~1293年)に活躍した大和国(やまとのくに:現・奈良県)の刀工。東大寺転害門(てがいもん:境内の西北側にある門)の門前に住んでいた「手掻派」(てがいは)の始祖。大和国の中でも有数の名匠として知られ、こちらの太刀は、しっかりとした優美な太刀姿で鎬地が広く、刃文は直刃に互の目が交じる「大和伝」を代表するような作風になっています。

太刀「包永」は、将軍家に受け継がれていく中で、第5代将軍「徳川綱吉」より、若年寄(わかどしより:老中に次ぐ重職で、将軍に直属して政務に当たった)であった信州上田藩初代藩主「松平忠周」(まつだいらただちか)に拝領。その後は家宝として信州上田藩松平家に伝来しました。

その一方で、江戸城に戻った千姫は、のちに出家して「天樹院」(てんじゅいん)と号し、娘勝姫と穏やかな日々を過ごしました。千姫がそのような余生を送れたのも、太刀「包永」を形見としていたことで、最愛の夫・忠刻が見守っていたからかもしれません。

太刀 包永は本多忠刻と千姫の愛の証し!?

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