渋沢栄一の関連情報

渋沢栄一記念館、東商渋沢ミュージアムの紹介

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「実業界の父」や「日本資本主義の父」とも呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。日本初の銀行設立をはじめ、様々な企業創立に携わった人物として昨今はドラマや新札で話題になることもしばしばです。出身地である埼玉県深谷市には、そんな渋沢栄一の成した偉業を称えて「渋沢栄一記念館」を開館。そして日本経済の発展を目指して渋沢栄一が設立した「東京商工会議所」(東京都千代田区)には、「東商渋沢ミュージアム」があるのです。ここでは上記の施設紹介と、渋沢栄一が日本実業界のために設立した東京商工会議所についてご紹介していきます。

渋沢栄一の出身地にある「渋沢栄一記念館」

渋沢栄一記念館

渋沢栄一記念館

渋沢栄一記念館は、1995年(平成7年)に深谷市公民館に併設して開館しました。館内は、1階・2階のエリアに分かれています。

1階には、渋沢栄一本人による墨書や写真など、渋沢栄一にゆかりのある品々が展示されている資料室。2階には渋沢家が家業にした藍玉(藍染の染料)作りについての展示が続きます。

そしてさらに2階資料室では、2020年(令和2年)に設置されたという本物そっくりの「渋沢栄一アンドロイド」から2~3分ほどの講義を受けることが可能。アンドロイドは、渋沢栄一の肉声をもとにしていることから、本当に渋沢栄一から講義を受けているような気持ちになれます。

なお見学につきまして現在は、事前予約制となっており公式ホームページ、または電話にて予約が必要です。

渋沢栄一を顕彰するための「東商渋沢ミュージアム」

東商渋沢ミュージアムは、「東京商工会議所」の本部ビル6階にあります。東京商工会議所は、商工業者達の意見を取りまとめるために渋沢栄一が設立し、初代会頭を務めた団体です。

東商渋沢ミュージアムとは

東商渋沢ミュージアムには、渋沢栄一の手による書物や掛け軸、銅像などを展示。そして、様々な関係資料を通じて、東京商法会議所の創立や活動、今もなお受け継がれている渋沢栄一の思想をパネルなどで紹介しています。

その他、東商ミュージアムオリジナルの渋沢栄一グッズとなる箸や湯呑、ノート、ピンバッジなどを販売。土日祝日は休館、入館は無料です。

東京商工会議所の成り立ち

渋沢栄一と東京商工会議所

東京商工会議所

東京商工会議所

東京商工会議所は、1878年(明治11年)に三井財閥の「益田孝」(ますだたかし)や、ジャーナリストの「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)、海外視察経験を持つ実業家の「大倉喜八郎」(おおくらきはちろう)などと共に経済団体の設立準備を進め、東京府知事に請願しました。

同年、認可されて東京商法会議所(現在の東京商工会議所)が設立。その初代会頭には渋沢栄一が就任しました。

日本の商人達による団体は、実は鎌倉時代の「座」や江戸時代の「株仲間」まで制度を遡ることができます。そのあと、「江戸町会所」、「東京営繕会議所」、「東京会議所」といった多くの変動の過程を経て、ヨーロッパ諸国から「商業会議所」のスタイルを導入し、今日の商工会議所の原点を築きました。

不平等条約撤廃に必要だった

日本が江戸時代末期から明治時代前期にかけて、欧米諸国と結んだ条約が多数ありますが、そのどれもが日本にとって不利なものばかりでした。

例えば、江戸幕府が1858年(安政5年)にアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)では、以下のような内容になっています。

・在留者の領事裁判権(在留しながら本国の裁判権を行使すること)や、犯罪者を日本の法律で裁かない治外法権を認めること。
・日本に関税自主権(輸入品にかかる税金を決める権限)がなく、取引を行う国の協定税率に従うこと。
・条約締結国を無条件で優先する「最恵国待遇条款」を承認すること。

こうした欧米との間で結ばれた不平等条約を撤廃するため、明治政府は欧米諸国と交渉を重ねていました。その際に「不平等条約は日本の世論が許さない」と主張していた明治政府側でしたが、イギリス公使の「ハリー・パークス」から「日本には多数が話し合いをする民間の組織がない、だから世論というものはない」と反論されてしまいます。

当時の内務省長官「伊藤博文」(いとうひろぶみ)と大蔵省(現在の財務省)長官「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、欧米と対等な交渉を行うためには、「まず民間による世論をまとめなくてはいけない」と痛感。そこで伊藤博文達が意見を求めたのが、欧州での視察経験があった渋沢栄一でした。

渋沢栄一が欧州で見た商業会議所は、国の法律とは関係なく一般商人の意見で団体組織が作られ産業発展のため運営されていました。「日本でも同じことができるはず」と判断した渋沢栄一は、商工業者達の意見を取りまとめる団体東京商法会議所の設立を提案したのです。

民間外交によってアメリカ合衆国前大統領をもてなす

東京商法会議所が60名もの会員で構成されるようになると、商工業に関する議論が交わされ、それによる調査報告により「日本の世論」がまとまりつつありました。そうした折の1879(明治12)年に、アメリカ合衆国の前大統領「ユリシーズ・グラント」が来日。

東京商法会議所は、東京を訪問したユリシーズ・グラントを手厚くもてなすと、ユリシーズ・グラントは、その丁寧な歓迎に感激したと言います。こうした民間外交は不平等条約の改正を目指す上で大きな役目を果たすことになり、これ以降も国際的な結びつきを持つことが東京商法会議所の運営にとって重要な核となっていくのです。

帝国ホテル

帝国ホテル

また渋沢栄一が創立した「帝国ホテル」(設立当初は有限責任東京ホテル会社:東京都千代田区)も諸外国と対等な外交関係を築く場所として作られました。

当時、外国人との重要な社交場であった「鹿鳴館」に隣接する形でホテルの建設を開始。着工から2年後の1890年(明治23年)11月3日、接遇所をかねた「日本の迎賓館」として、帝国ホテルが開業しました。なお明治政府が目指した不平等条約は、のちに「陸奥宗光」(むつむねみつ)が一部を回復させ、1911年(明治44年)に「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)によって完全に回復させることができました。

現在の東京商工会議所

1928年(昭和3年)1月から現在の名称となる東京商工会議所となり、1999年(平成11年)には会員数100,000人突破。現在も東京商業会議所は民間の総合経済団体として、商工業を発展させるために経営支援や地域振興などの活動を中心に行っています。

渋沢栄一記念館、東商渋沢ミュージアムの紹介

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渋沢栄一賞

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「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)は、明治時代から大正時代にかけて約500社もの企業設立に携わり、実業界を牽引するリーダーとして日本の近代化に最も貢献した人物だと言えます。現代においても「実業界の父」、あるいは「近代日本経済の父」と称えられる渋沢栄一ですが、ただ経営手腕が優れていただけではありません。渋沢栄一は、福祉や教育といった社会貢献活動や、国際交流でも自身の力を発揮し、人々のために尽くす慈善家としての顔も持っていました。私益よりも公益を大切にしていた渋沢栄一のように、社会事業に尽力した企業経営者には「渋沢栄一賞」という賞が贈られています。

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