鎌倉時代
元寇②
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元寇②

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かつてのモンゴルは、とてつもなく大きな力を持っていました。地球上の面積の30%近くを統治していた大帝国です。このような巨大帝国からすると日本は小さな国、しかし鎌倉時代に2度も元(モンゴル)は日本に攻めてきました。このできごとはのちに「元寇」(蒙古襲来)と呼ばれます。このときに「神風」(かみかぜ:暴風雨)により日本は助かったなどと言われていますが、実はそうではありません。鎌倉幕府の戦法が見事であったため、日本は元に侵略されずに済んだのです。さて、鎌倉幕府の戦法とはどのようなものだったのでしょうか?

元軍の撤退は神風が理由ではなかった?

まず1274年(文永11年)に起こった、第1の元寇「文永の役」についてですが、元軍が撤退したのは神風が起こったからではありません。

モンゴルや日本の歴史書にも「暴風雨が起こって元軍が撤退」とは書かれておらず、学校の教科書からもこの部分が消えつつあります。

2014年(平成26年)には、歴史学者・服部秀雄教授が、「文永の役が起こったのは11月で、台風が発生する時期ではなく、起こるとしたら寒冷前線による嵐ぐらいだ」ということ。さらに「1281年(弘安4年)に起こった2度目の元寇・弘安の役でも台風の時期であったとはいえ、沈んだ軍船はごくわずかだった」ことも発表しています。

文永の役で元軍撤退はなぜ撤退したのか?

文永の役

文永の役

1274年(文永11年)に元軍が博多湾の北部にあたる「息の浜」(おきのはま)に襲来しました。この指示を出したのは、モンゴル帝国の皇帝「チンギス・ハン」の孫にあたる元の皇帝「フビライ・ハン」です。このできごとはのちに文永の役と呼ばれています。そのとき、博多湾に集まった日本の兵はわずか3,000騎程。一方、襲来した元軍の兵力は約2万6,000です。

さらに日本と元の戦い方には、大きな差がありました。まず、日本は、開始の合図として「かぶら矢」と呼ばれる矢を放ってから、「やあやあ、我こそは」などと名乗り、1対1で戦う戦法。元軍は「銅鑼」(どら)を打ち鳴らし、集団でひとりの武士に襲い掛かるという戦法でした。

これにより、ひとりまたひとりと兵が討ち取られます。さらに、「鉄砲」(てつはう)と呼ばれる爆弾や毒矢などで元軍が攻撃してくるため、日本兵は成す術がありません。鉄砲は火薬が爆発すると鉄の破片が飛び散るとても危険な物でした。日本にはまだ爆弾や毒矢がない時代です。これにより、博多はあっという間に占領されてしまいました。

元軍が撤退したのはなぜか?

博多を占領した元軍。しかし、元軍は翌日になると日本から撤退します。一体なぜなのでしょうか?

その理由は神風が起こったからではありません。答えは、元軍が日本に来た目的にあります。元軍が襲来した真の目的は「圧倒的な強さを日本に見せ付けて国交を結ぶこと」。

実際、文永の役が起こる前に元軍から日本へ送られてきた国書にも「兵力を用いることを誰が望むだろう」という脅しとも言える内容が書かれています。

この目的により、博多は壊滅状態に。1週間後、その報告を受けた鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は兵の能力はもちろんのこと、防御力を上げることを決断します。

日本の戦法はこのように進化した!「鎌倉幕府」と「弘安の役」

異国警固版役

異国警固版役

1281年(弘安4年)5月に再び元軍が襲来しました。高麗から東路軍4万人・900隻、中国の沿岸から江南軍10万人・3,500隻が日本に向けて出発。
元軍が襲来してきた理由は、国交を結ぶためではありません。これは時宗も予測していたことです。鎌倉幕府が国交を結ぼうとやって来た元の遣いを殺したため、2度目の元寇・弘安の役は起こりました。日本は、博多が壊滅状態になったのに国交など結べないと考えたのです。

そこで、2度目の襲来までに時宗は、「異国警固版役」と称し、兵力と防御力を着々と整えました。異国警固版役としてまず行なったのは、防衛体制の構築。九州各地の沿岸に、20kmにも及ぶ高さ2mの防塁(石を積んだ防護構築物)を築きます。さらに西国の武士団が昼夜を問わず海岸沿いを警護。兵力を上げるために、朝廷や有力寺社にしたがう御家人ではない武士も幕府の指揮下に置きました。

そして、戦法を変更します。まず、元の物より射程距離の長い弓を使用。時宗は、これにより元軍の上陸を阻止しようと考えたのです。さらに、元が得意としていた集団でひとりの武士に襲い掛かる戦法を阻止するため、陸で戦うのではなく元寇船に乗り込み攻撃する作戦に変更。

また、時宗は元軍の情報収集を始めます。敵がいつ襲来するのかが分かれば、準備も行ないやすいと考え、元から国を追われて来日していた僧侶から元の情報を収集しました。1度目の屈辱をバネに日本の戦法はこのように工夫されたのです。

これらの進化した戦法や台風(暴風雨)、食糧不足などによって2度目の元軍の襲来は失敗に終わります。

実は起こっていたかもしれない3度目の蒙古襲来?

弘安の役が失敗に終わり、元軍は諦めたように思えますが、実はそうではありません。元は3度目の襲来も考えていました。

しかし、元の支配に反対する中国民衆の反乱やベトナムの抵抗などがあり、これは実現していません。もしも3度目の元軍による襲来が実現していたら、日本はそれを阻止することができたでしょうか?

沈んだ元寇船を発見!元寇の新事実が明らかに

長崎県松浦市鷹島町にある海の底で、2011年(平成23年)に琉球大学の教授らが、ある沈没船を発見しました。

この沈没船は弘安の役で沈没した元軍の船です。2012年(平成24年)には国の史跡に指定されています。さらに2014年(平成26年)にも2隻目となる沈没船を発見。沈没船の周りからは中国製の茶碗や壷なども発見。

これらは、数百年も前から海底に眠っていた歴史的な財産なので、陸に揚げることはせず調査中です。元寇船の発見により、元軍のみならず、その周辺国との関係も分かってきました。

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