安土桃山時代
慶長の役
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慶長の役

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「文禄の役」において明と交わした講和による休戦状態は、長くは続きませんでした。講和内容が、両国の交渉担当者が通謀して自国に都合の良いように書き換えられた物だったからです。これに基づいて行なわれた和平交渉が上手く行くはずはなく、決裂。これを受け、秀吉は1597年(慶長2年)に西国(主に九州・中国・四国地方)の諸大名に対して動員令を発令。朝鮮半島に向けて約14万人の大軍を送り込み、「慶長の役」が始まりました。

偽りの講和

日本・明両国にとって「文禄の役」がズルズルと長引くのは、いたずらに消耗するだけで好ましい状況ではない。このように考えた両国の講和交渉担当者(日本:小西行長ら、明:沈惟敬ら)は、休戦に向けて謀略を巡らせます。具体的には、日本側には明が降伏した旨の報告をし、明側には日本が降伏した旨の報告をすること。もっとも、実情は両国トップ(日本:豊臣秀吉、明:朝廷)の認識とは大きくかけ離れたもので、ウソの上にウソを塗り固めた講和でした。これにより、両国のトップは自国の勝利と認識し、文禄の役後に行なわれた和平交渉においては強気の条件を提示することになりました。

両国の交渉担当者が、主君に忖度(そんたく:他人の心をおしはかって相手に配慮すること)して取り繕った講和。ウソがばれるのに時間はかかりません。1596年(文禄5年)、秀吉に謁見した明の使節の口から伝えられた明朝廷からのメッセージは、秀吉にとって信じられないものでした。「秀吉に対して順化王(日本国王)の称号を与え、金印を授与する」。これは明を宗主国とした柵封体制に、日本を組み入れるということを意味していました。秀吉は、このとき初めて明が降伏などしていなかったことを知ったのです。この返答に対して怒り心頭に発した秀吉は、再度朝鮮半島への出兵を決意したのでした。

当然、明においても同様の事態が発生。明側の交渉担当者だった沈惟敬は、日本から帰国次第、処刑されました。

蔚山城の戦い

蔚山城の戦い

蔚山城の戦い

怒り心頭で再度の朝鮮半島への出兵を決めた秀吉でしたが、冷静に作戦を組み立てていました。「全羅道(ぜんらどう)を残さず悉(ことごと)く成敗し、さらに忠清道(ちゅうせいどう)やその他にも進攻せよ。」西国の諸大名に対して発した「朱印状」には、このようなことが書かれています。秀吉がこのような記述をしたのは、文禄の役において、唯一制圧できなかった「全羅道」の制圧を最優先にすることで、いち早く朝鮮半島全土を制することができるという計算からであったと考えられます。

また、秀吉からは全羅道(朝鮮八道のひとつ)制圧の目標を達したあとは、朝鮮半島の沿岸まで撤収して日本式の城(倭城)を築き、主に九州の大名が城を守り、その他の大名は帰国するよう指示が出されていたと言われています。これは文禄の役において、朝鮮半島に渡った諸将が長期間の滞在と食糧不足などで精神的に疲弊し、軍全体に厭戦感が漂っていたことに対する反省があったとも考えられるのです。朝鮮式の城に比べ、防御力に優れている日本式の城であれば、外敵からの攻撃に対して対処が容易で、朝鮮半島の滞在期間において領国にいるときに近い生活が可能。文禄の役の反省を十分に生かした物でした。

「慶長の役」での最大の激戦となったのが蔚山(いさん)城の戦い。清正が自ら縄張りをするなど、中心となって築城を進めていた「蔚山城」を明・朝鮮連合軍が襲撃したことが始まりです。当時、明は清正を秀吉軍の最大の敵と考えており、清正を倒すことで秀吉軍の士気が大きく低下し、一気に攻め落とすことができると考えていました。このような目論見から蔚山城が標的になったのでした。

明・朝鮮連合軍の襲撃を受けたとき、蔚山城には、清正は不在。「浅野長政」らが防戦に追われました。当時、「西生浦倭城」(せいせいほわじょう)に滞在していた清正は、一報を聞くと軍船に乗って蔚山入り。城内に入ると、籠城戦の指揮を執ったのでした。清正率いる部隊は、籠城準備が整っていなかったこともあり苦戦を強いられましたが、開始から10日後に日本から援軍が到着。「毛利秀元」(もうりひでもと)が率いた援軍は、明・朝鮮連合軍に壊滅的な打撃を与え、漢城まで撤退させたことで、戦いが終了しました。これが「第一次蔚山城の戦い」となりました。

第一次蔚山城の戦いから約8ヵ月後。約10万人に軍を増強した明・朝鮮連合軍は、再び蔚山城を襲撃します。清正のとった作戦は、前回と同じく籠城戦。しかし前回とは異なり、準備万端だったこともあり、明・朝鮮連合軍の攻撃を跳ね返し続けました。蔚山城攻略の糸口も見つからず、別働隊が「泗川の戦い」(しせんのたたかい)で「島津義弘」(しまづよしひろ)に、「順天の戦い」(じゅんてんのたたかい)で「小西行長」(こにしゆきなが)に敗れたこともあり、明・朝鮮連合軍は、やむなく撤退の準備を始めたのです。この「第二次蔚山城の戦い」は、秀吉軍の完勝と言っても良い結果で幕を閉じたのでした。

秀吉の死~朝鮮からの撤退~

第二次蔚山城の戦い前、日本では大事件が発生していました。秀吉の死去です。これにより、「豊臣秀頼」が跡を継ぎましたが、当時満5歳。周囲の手助けなしで政権運営を行なうことは不可能でした。また、天下人・秀吉の死去によって、タガが外れた形となった国内は不穏な空気が蔓延。有力大名が互いにけん制し合うような、足元がグラついた不安定な状況に陥っていたのです。このような状況にあっては、目を国外に向けている場合ではありません。すぐにでも兵を引き上げさせ、国内統治に専念すべき状況だったと言えます。

もっとも、日本の統治者・秀吉が他界したという知らせは、朝鮮半島に出征中の諸大名にとって、衝撃が大きすぎます。場合によっては、秀吉軍の士気が急激に低下する危険性があったことから、秀吉死去の事実はしばらくの間伏せられました。そして第二次蔚山城の戦いで明・朝鮮連合軍を撃退したのち、日本から秀吉軍に対して撤退命令が発せられたのでした。撤退命令に際しても、秀吉の死については触れられない程の極秘事項。こうして、秀吉軍にとっては消化不良のまま、慶長の役が終わったのです。

朝鮮出兵がその後の日本に与えた影響

徳川家康

徳川家康

日本にとって、「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)以来、およそ930年ぶりとなった外征は、戦局を優位に進めながらも撤退という結果に終わりました。

秀吉の死を受けての内情不安が原因とは言え、豊臣政権への影響は小さくはありませんでした。慶長の役においては、九州の大名を除く西国の諸大名を一時帰国させるなど、疲弊に対する配慮がなされましたが、戦場に赴いた諸大名の遠征費用等は手弁当。重い負担を強いられましたが、戦果がなかったため、見返りはありません。肉体的、精神的にはもちろん経済的にも疲弊し、朝鮮半島に出征しなかった東国の諸大名とは対照的な状況に陥ったことで、西国大名の豊臣政権内における力は相対的に低下していきました。

朝鮮半島に出征しなかった東国大名には、当然「徳川家康」も含まれていました。「名護屋城」(なごやじょう)に滞在し、過度の負担を免れたことで、豊臣政権における家康の力はそれまで以上に強大に。加えて、文禄の役において表面化した豊臣政権内における「文治派」と「武断派」の分裂による分断は、その後の「関ヶ原の戦い」、さらには「大坂の役」へとつながる暗い影を落としたのです。

秀吉の死後、「五大老」の筆頭格として実質的に豊臣政権の運営者となっていたのは、戦場に赴かなかった家康。事実上、秀吉の次の天下人への道を歩み始めたのでした。豊臣政権にとって、「文禄・慶長の役」は、秀吉が自ら崩壊への引き金を引いてしまった外征という位置付けも可能であると言えます。

江戸時代の落首(らくしゅ:匿名で公開した世相を風刺した狂歌)にこのような物があります。「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」。この歌の意味は、「織田信長」が天下統一を推し進め、(羽柴:はしば)秀吉が天下統一を実現したが、最後のおいしいところは、座っていただけの(何もしなかった)(徳川)家康が持っていってしまったというもの。詠み人は分かりませんが、当時の人も、秀吉の自滅で家康が天下人となったことを直感的に感じていたのかもしれません。

慶長の役

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