安土桃山時代
関ヶ原の戦い③
安土桃山時代
関ヶ原の戦い③

文字サイズ

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という「徳川家康」の川柳通り、チャンスが巡り天下は家康の手に。チャンスの切符を手に入れたのは1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」です。家康側から関ヶ原の戦いを見てみると、いかに計画的な人物だったかも明らかになります。さて、計画的な家康の戦略とは?

2つの派閥が天下分け目の始まり!?「文治派」と「武断派」

石田三成

石田三成

「豊臣秀吉」の死後、豊臣家の家臣たちは、文治派と武断派という派閥に分かれました。これが、徳川家康の天下統一計画にとても有利に働くこととなります。

文治派は、戦いよりも新田開発や治水、検地などを行ない、国を平和にという思想を持つ派閥。この派閥は、豊臣秀吉の考えを尊敬し、豊臣政権で最も力を持っていた徳川家康を嫌っていたグループです。その派閥にいたのは、「石田三成」、「長束正家」、「増田長盛」、「前田玄以」(まえだげんい)など。

そしてもう一方の武断派は「親徳川派」ではなく、戦場での功績によって出世を目指してきた武将達です。この派閥にいたのは「加藤清正」、「浅野幸長」、「黒田長政」、「福島正則」、「池田輝政」、「細川忠興」らの武将。家康は反徳川派とも言える文治派を潰そうと考え、ある行動を起こします。

すべては家康の計画通り!秀吉の「遺言状」を利用したある行動とは!?

前田利家

前田利家

秀吉は死を目前としたときに、遺言状を書きました。諸大名が勝手に誓紙を取り交わしたり、縁組したりすることを遺言によって禁じたのです。これは、まだ幼い跡取りの豊臣秀頼(5歳)と豊臣家の存続・安泰を願っての遺言。しかし、家康は平然とこれを無視しました。

この行動については、家康が文治派を挑発するためだったという説があります。家康の持っていた石高は約256万石。そのため、誰も家康に対して文句が言えません。

しかし、家康の行動に抗議した者がいました。秀吉の重鎮であった「前田利家」です。石高が83万石でありながら家康に次ぐ実力を持っていたと言われています。

しかし1599年(慶長4年)6月に病死。これにより、もはや家康をけん制できる力を持っている武将は1人もいなくなりました。利家の死後、家康の天下統一計画は着々と進みます。

「上杉謙信」の跡取りが火付け役?「直江状」と「上杉討伐」

直江兼続

直江兼続

このような家康の行動に待ったをかけたのは、1598年(慶長3年)に「春日山城」(新潟県上越市)から会津(福島県会津若松市)へ移封となった「上杉景勝」。のちに関ヶ原の戦いを勃発させたのは、景勝です。景勝は、有名な戦国武将である上杉謙信の養子にあたり、上杉の家督を継いだ人物。

そして景勝に賛同し、手を結んだのが石田三成でした。景勝は会津に戻って諸城を修理し、道路を開き、食料を蓄え、浪人を召し抱え、準戦体制を整えます。

そして、上杉家(上杉景勝)の家老であった「直江兼続」(なおえかねつぐ)が、詰問形式の書状直江状を家康に送りました。「勝手に誓紙を取り交わしたり、縁組したりすることは、秀吉様が遺言によって禁じていたのに、それをしたのはどこのどなた様ですか?」というような内容に、石高も位も上だった家康は激怒。景勝に詰問状を送り返し、「大坂城」への上洛を促します。それを景勝が一蹴。これにより、家康は上杉討伐(会津征伐)を決意し大坂城から会津へ出向きます。

西軍と東軍の集結!関ヶ原の戦いは家康の計画通り?

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

大坂城から会津へ向かうため、会津より西は家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは三成をはじめ、「毛利輝元」や「宇喜多秀家」など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡 関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。

家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を家康は予測していたのです。そのため、これは家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、上杉討伐(会津征伐)をあっさりと中止しています。

1600年(慶長5年)7月、家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。

「いざ西へ!」というとき、家康は「結城秀康」を上杉に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、家康には天下への切符が見えていたのでしょう。

ちょっと豆知識 「西軍」・「東軍」と呼ばれたのはこの頃ではない?

ちなみに、西軍・東軍と呼ばれるようになったのは、この頃からではありません。明治の後期、日本の陸軍軍令を司っていた「参謀本部」と呼ばれる機関が戦史を作成しており、江戸を基準に西と東が認識されていたため、西軍・東軍と付けられました。

泰然自若な天下人!家康率いる東軍の完勝とその後

東西主力がぶつかりあったのは、1600年(慶長5年)の9月15日。初めは、東軍と西軍の兵力は7万から8万とほぼ互角でした。

しかし、西軍には東軍と内通している者が多数存在。内通者は「小早川秀秋」、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、毛利輝元、「吉川広家」などです。さらに、「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)、「長束正家」がほとんど戦わないまま戦場を離脱。これにより、東軍が有利となりました。

実際に西軍として関ヶ原の戦いで戦ったのは、石田三成、「島津義弘」、「小西行長」、宇喜多秀家、「大谷吉継」の3万余りの兵にすぎません。

戦いは午前8時頃に始まったと言われています。しかし、午後12時に松尾山を陣取っていた小早川秀秋が西軍の陣地に攻め込みました。これにより西軍側は大きなダメージを受け、天下分け目の合戦は、家康率いる東軍の完勝となったのです。

慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

  • 武将・歴史人のエピソードや、関連のある日本刀(刀剣)をご紹介!

関ヶ原の戦い③

関ヶ原の戦い③をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「安土桃山時代」の記事を読む


長篠の戦い

長篠の戦い
1575年(天正3年)4月、織田信長が名実ともに天下人となった、歴史上非常に重要な合戦「長篠の戦い」が起こりました。織田・徳川連合軍が、戦国最強と言われた武田軍を相手に圧勝した戦いです。

長篠の戦い

文禄の役

文禄の役
天下統一を成し遂げた「豊臣秀吉」。貧しい農民から天下人にまで上り詰めた男の目は、日本国内に止まらず、海の向こうに向けられていました。そんな天下人が目を付けたのは明(みん:現在の中華人民共和国)。まずは明の柵封国(明を宗主国とした従属国)だった朝鮮に服属を求めますが、朝鮮は拒否します。これを受けた秀吉は、朝鮮半島への出兵を決断。釜山経由で、西国の大名を中心に編成した大軍を朝鮮半島に送り込んだのでした。これが「文禄の役」です。

文禄の役

慶長の役

慶長の役
「文禄の役」において明と交わした講和による休戦状態は、長くは続きませんでした。講和内容が、両国の交渉担当者が通謀して自国に都合の良いように書き換えられた物だったからです。これに基づいて行なわれた和平交渉が上手く行くはずはなく、決裂。これを受け、秀吉は1597年(慶長2年)に西国(主に九州・中国・四国地方)の諸大名に対して動員令を発令。朝鮮半島に向けて約14万人の大軍を送り込み、「慶長の役」が始まりました。

慶長の役

関ヶ原の戦い①

関ヶ原の戦い①
1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは誰もが知っていることですが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか?この謎を解くために必要なキーワードは「豊臣秀吉」。戦いは、ここから始まります。

関ヶ原の戦い①

関ヶ原の戦い②

関ヶ原の戦い②
1600年(慶長5年)9月15日、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が始まり、わずか6時間弱でその勝敗は決まりました。この戦いで「徳川家康」の率いる東軍と最後まで戦い抜いた武将の名は「石田三成」。三成は豊臣秀吉からも「天下にはばかる程の知恵者」と言われていました。では、なぜ石田三成と三成率いる西軍は、勝利できなかったのでしょうか?その謎に迫るため、三成と秀吉の出会いから関ヶ原の戦いに至るまでの経緯をご紹介します。

関ヶ原の戦い②

本能寺の変

本能寺の変
1582年(天正10年)6月2日、日本の歴史上屈指の大事件が発生しました。「本能寺の変」です。明智光秀が13,000人もの大軍を率いて、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲。防戦空しく対抗し切れないと悟った信長は、寺に火を放って自害しました。

本能寺の変

山崎の戦い

山崎の戦い
1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」で命を落とした織田信長。それを知った羽柴秀吉は信長の敵を討つために中国遠征を中断し、約2万の全軍で京を目指しました。そして約10日後の6月13日、摂津国と山崎国の境に位置する山崎において明智光秀と激突。退却を余儀なくされた光秀は、坂本城を目指して落ち延びていましたが、その後、命を落としました。これにより、戦国乱世は終焉へと向かい、秀吉による天下統一への道がスタートすることになったのです。

山崎の戦い

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い
1582年(天正10年)6月13日に起こった「山崎の戦い」で、織田信長の仇を討った羽柴秀吉。 「清洲会議」で織田信長の後継者争いをした柴田勝家と徐々に対立が深まっていき、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)まで発展しました。これに勝利した秀吉は、天下人へと大きく前進したのです。

賤ヶ岳の戦い

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い
「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)3~11月に行なわれた、「羽柴[豊臣]秀吉」陣営と「織田信雄[おだのぶかつ]・徳川家康」陣営の間の戦いです。合戦があったのは、尾張北部、南部、美濃西部、東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地。北陸や四国、関東でも連動して戦が起こり、戦乱は全国規模となりました。

小牧・長久手の戦い

注目ワード

ページトップへ戻る