安土桃山時代
関ヶ原の戦い②
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関ヶ原の戦い②

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1600年(慶長5年)9月15日、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が始まり、わずか6時間弱でその勝敗は決まりました。この戦いで「徳川家康」の率いる東軍と最後まで戦い抜いた武将の名は「石田三成」。三成は豊臣秀吉からも「天下にはばかる程の知恵者」と言われていました。では、なぜ石田三成と三成率いる西軍は、勝利できなかったのでしょうか?その謎に迫るため、三成と秀吉の出会いから関ヶ原の戦いに至るまでの経緯をご紹介します。

「三献の茶」が気づかせた石田三成の才能

石田三成の才能

石田三成の才能

滋賀県米原市の大原観音寺。この寺には秀吉がまだ「羽柴秀吉」だった頃の石田三成との出会いが逸話として伝えられています。

秀吉が鷹狩りをする際に立ち寄った寺が大原観音寺でした。1574年(天正2年)、佐吉と言う名前でこの寺に仕えていた三成にお茶をお願いしたのです。

1杯目は、大茶碗にたっぷりの、少し温かいくらいのお茶を。2杯目は、1杯目よりも少し熱く、量を半分くらいにして出した物。3杯目は、小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧め、お菓子と共に提供しました。

この繊細な心配りに才能を感じ、秀吉は三成を傍に置くことを決意。このエピソードは、三献の茶として大原観音寺に伝えられています。

家臣たちがうらやむ豊臣秀吉と石田三成の関係

石田三成

石田三成

秀吉の領国経営(検地による領内や家臣達をまとめながら領地拡張していくこと)を深く尊敬していた石田三成。

「自分もあんな風になりたい!」と夢を抱き、当時18歳で秀吉に仕官しました。

高額なお小遣いを渡す、気前が良すぎる豊臣秀吉

三成の才能を高く評価していた秀吉は、若くて武将としての経験もなく、仕官して間もない三成に300石の高禄を与えています。

高禄はいわゆるお給料のことで、1両は約10万円。300石=約3,000万円をわずか18歳で与えられたということ。これは、石田家のことが書かれている「霊牌日鑑」(れいばいにっかん)に残されています。

戦いはヘタでも出世できるの!?秀吉のお気に入りだった石田三成

柴田勝家

柴田勝家

1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった羽柴秀吉と、同じく家臣であった「柴田勝家」の権力争いが激しく衝突しました。「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いです。

この戦いでは秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「福島正則」(ふくしままさのり)、「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。

彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達。もちろん、三成も大活躍したであろうと思いきや、その戦いぶりはそれ程でもありませんでした。三成は「戦下手」だったのではないかと言われています。

石田三成が関ヶ原の戦いに負けた原因は嫌われていたから?

三成は上司である秀吉には好かれていたかもしれませんが、周りにはあまり好かれていなかったようです。これは、三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だったようです。

石田三成に不満が勃発したのはこの頃から!?朝鮮出兵

秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)で、三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていました。

朝鮮で日本兵は大変苦戦。朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発します。内容は、「戦略を変えてほしい」というものでした。三成はそれを素直に秀吉に伝えます。

しかし、それを聞いた秀吉は激怒。戦略の変更を三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。これが原因で三成を良く思わない人がちらほら出てきます。

ちなみに、朝鮮へ出兵した武将の多くはのちに起こる関ヶ原の戦いにて、東軍と西軍に分かれます。東軍と西軍に分かれた原因が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)であったかどうかについては、定かではありません。

朝鮮出兵武将の不満なのか?関が原の戦い東軍と内通者

朝鮮出兵の武将 関ヶ原の戦い 東軍派と内通者
吉川広家 西軍として参戦 のちに東軍と内通
加藤清正 不参加 石田三成暗殺未遂事件に加わる
黒田長政 東軍として参戦 石田三成暗殺未遂事件に加わる
福島正則 東軍として参戦 石田三成暗殺未遂事件に加わる
蜂須賀家政 東軍として参戦 石田三成暗殺未遂事件に加わる
小早川隆景 養子の小早川秀秋が西軍へ のちに東軍と内通
毛利輝元 西軍の総大将 東軍にあっさり降参する
(内通者?)

豊臣秀吉の死が知らされなかった!?石田三成は益々恨まれる存在に!

秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に、豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、三成は朝鮮へ出兵している武将達に秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。

不満が大爆発!七将による石田三成暗殺未遂事件

1599年(慶長4年)、文禄・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。

七将とは、①「福島正則」(尾張清洲城主)、②「加藤清正」(肥後熊本城主)、③「池田輝政」(三河吉田城主)、④「細川忠興」(丹後宮津城主)、⑤「浅野幸長」(甲斐甲府城主)、⑥「加藤嘉明」(伊予松山城主)、⑦「黒田長政」(豊前中津城主)の7名です。

実際はこれに、「蜂須賀家政」(阿波徳島城主)、「藤堂高虎」(伊予宇和島城主)も加わったとされています。

この暗殺未遂事件が起こったことにより、三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。これにより、三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居することになります。家康への好感度が上がったことは言うまでもありません。

関ヶ原の戦いへ!仕掛けたのは誰?

三成の暗殺未遂事件の黒幕は、家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも家康が仕掛けたのではないかと言われています。

この理由は、三成が隠居したあとの家康の行動。三成の隠居後、家康は三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。

これは、遠く離れた三成の耳にも届くことになります。家康が秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と家康への不信感を募らせる三成。

直江状が関ヶ原の戦いが始まる原因!?家康を怒らせたその内容とは?

直江兼続

直江兼続

三成以外にも、家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将たちがいました。会津の「上杉景勝」とその家老「直江兼続」です。そこで、秀吉に一通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。

「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」

これが関ヶ原の戦いを勃発させることになった「直江状」です。この一通の手紙が、家康を怒らせてしまいました。家康は、三成や景勝よりもはるか上の位です。家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」と言うことになります。

この手紙がきっかけで、上杉景勝が持っていた領地・会津は攻められました。これを「会津征伐」と言います。

この征伐では、家康との力差が明らかとなりました。なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。これは、「自分は目上の立場であるぞ!」という周りへの見せしめでもありました。

関ヶ原の戦いで西軍の総大将になった人物

毛利輝元

毛利輝元

反家康派(西軍)と家康派 (東軍)に分かれて戦いが勃発。これが1600年(慶長5年)9月15日に起きた関ヶ原の戦いです。ここでも三成は人に恵まれず、総大将としての器もなく、6時間弱で東軍に負けてしまいます。

三成は戦術に優れていた訳でも、人徳があった訳でもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、三成が持っていた領地は19万石。そのため、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名「毛利輝元」に決まりました。

しかし、輝元は関ヶ原の戦いで、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引渡してしまいます。このようなことから、毛利輝元は東軍の内通者だったのではないかという説もあります。

表向きの西軍の総大将は輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは三成です。やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。これが敗因となってしまいます。

関ヶ原の合戦と西軍・石田三成の大誤算

まず、三成の重臣として大きな信頼を得ていた「嶋左近」が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」が進路妨害。これはのちに、宰相殿(=秀元)の空弁当と呼ばれた出来事です。「いざ出陣なり」と西軍と東軍が争っているなか「今、弁当を食べているから」と西軍の進路を妨害したことからこう名付けられました。このように、味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。

小早川秀秋」も西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではなく、藤堂高虎なども内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くつきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは三成にとって大誤算でした。

その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり処刑されてしまったのです。

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