動物・植物大集合

戦国武将と猫の逸話

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人間にとって最も身近な動物のひとつでありながら、十二支にも登場せず、釈迦の死を弟子や様々な動物が嘆き悲しむ様子を描く涅槃図(ねはんず)にもほとんど描かれることがない猫。日本へ入ってきたのは飛鳥、奈良時代の頃で、仏教伝来とともに中国から渡ってきたと言われる。猫は船上で経典を食い荒らす鼠を捕獲すると言う重要な役割を担っていた。平安時代に入ると高貴な人々の間でペットとして可愛がられ、宇多天皇(うだてんのう)は墨のように真っ黒な猫に乳粥(にうのかゆ)を与えたことを日記に書き留めている。では、戦国武将と猫はどのようなつながりがあったのだろうか。

豊臣秀吉の愛猫が行方不明に!?

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉は日常でも飼い猫をたいそう可愛がっていたようだ。こんな逸話が残されている。

1593年(文禄2年)のある日、豊臣秀吉の愛猫が大坂城内で行方不明になった。豊臣政権の最大大名である、奉行の浅野長吉(あさのながよし、晩年は浅野長政を名乗っていた)はその捜索を命じられるが、猫は一向に見付からない。

そこで、伏見城の普請に従事していた野々口五兵衛(ののぐちごへえ)に「あなたのところにいる美しい虎毛の猫を借りたい」と言う書状を送るのである。豊臣秀吉の可愛がっていた猫は虎毛であったのだろうか。その結末は記録されておらず真実は闇の中であるが、猫の一件で浅野長吉が首を切られることはなかった。

織田信長

織田信長

浅野長吉は豊臣家の家臣として手腕を高く評価され、太閤検地の実施や、諸大名から没収した金銀山の管理を任されるほどの人物。それほどの重役がその日は終始慌てふためいていたのだろうか。微笑ましいエピソードである。

この愛猫の話と相反する猫の残忍な扱いも史料に残る。大の鷹好きであった織田信長のもとには、伊達家北条家など各地の大名から鷹が贈られた。織田信長はその鷹の生き餌のために猫を所望したと言う。

奈良県興福寺の僧侶、長実房英俊(ちょうじつぼうえいしゅん)が書いた「多聞院日記」(たもんいんにっき)には、安土から奈良へ餌用の猫を捕獲に来ると言うので、興福寺の僧坊に隠したと当時の様子が残されている。猫好きと言われた豊臣秀吉もまた、に使用するための狛(犬や猫などの小動物)を奈良に捕獲に訪れたようで、多聞院日記に「なんと不憫なことか」と長実房英俊の嘆きが綴られている。

徳川家康をお守りする眠り猫

眠り猫(日光東照宮)

眠り猫(日光東照宮)

1617年(元和3年)に建立された日光東照宮徳川家康を御祭神として祀るこの地にも有名な猫がいる。奥宮に通ずる入口上の蟇股(かえるまた)でうたた寝をする、国宝「眠り猫」の彫刻である。制作したのは、凄腕の彫刻家として名を馳せた伝説的人物、左甚五郎(ひだりじんごろう)。

日光東照宮では「左甚五郎の作 牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫が転[うた]た寝しているところで日光を現わす絶妙の奥義を極めている」と説明されており、この猫が日光と言う地名とのかかわりを示す物であることが分かる。

徳川家康

徳川家康

それだけでも十分、興味深いが、眠り猫にまつわる話はまだ続く。眠り猫と呼ばれているが、実は徳川家康公をお守りするために薄目を開けており、敵が攻め入って来たときにはいつでも飛びかかれるような前傾姿勢を取っているのだと言う。

また、眠り猫の裏側には2羽の雀が彫られ、あろうことか喰う者と喰われる者が一対になって装飾されているのである。そこには猫が雀を追いかけることなく眠っているほどの平和な世であってほしいと言う願いが込められているのだとか。

さらに毎年、大晦日と元旦には大阪府にある四天王寺の猫門の猫と日光東照宮の眠り猫が鳴きあったとも言われ、眠り猫に関する噂は尽きないのである。

招き猫に招かれた井伊直孝

豪徳寺山門

豪徳寺山門

招き猫発祥の地として有名な大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)。東京都世田谷区の閑静な住宅街にたたずむ古寺は、第2代彦根藩主・井伊直孝(いいなおたか)の菩提寺である。

井伊直孝は大坂冬の陣で徳川家康から井伊家の大将に指名され、大坂夏の陣では敵将・木村重成(きむらしげなり)と長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)を討ち取る(八尾・若江の戦い/1615年)など、徳川家康にその能力を高く買われていた。さらに徳川家光徳川家綱からの信頼も厚く、生涯徳川家の重鎮として幕政を主導した。

その井伊直孝と猫にまつわる話が同寺に伝わる。豪徳寺がまだ弘徳院(こうとくいん)と言う小さな庵であったころ。鷹狩に出かけていた井伊直孝が庵の前を通りかかると1匹の猫が井伊直孝を寺に招くように前足を上げていた。不思議に思い近寄ってみると、急に辺りの雲行きが怪しくなり、間一髪で雷雨の難を逃れることができたのである。

雨宿りをしながら和尚の説法を聞き、すっかり心奪われた井伊直孝はその小さな庵を菩提寺に定め、のちに伽藍(がらん:寺院建物の総称)の整備に努めた。井伊直孝の死後、庵は井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」から「豪徳寺」へと寺号を改め、今日まで猫とゆかりの深い寺として人々に親しまれている。

そして豪徳寺の招き猫から派生したのが、ゆるキャラブームの火付け役ともなった滋賀県彦根市のキャラクター「ひこにゃん」である。井伊軍団のシンボルである赤備えの兜を被った白い猫のキャラクターは、日本のみならず世界でも知られており、人気の高さがうかがえる。彦根では、日本で最初に猫に招かれた人として、井伊直孝が紹介されているのだとか。

ちなみに、戦国武将にちなんだ猫のゆるキャラには他に、伊達政宗を模した「独眼竜ねこまさむね」(宮城県仙台市)や真田幸村と三毛猫をミックスさせた「ゆきたん」(長野県上田市)などもいる。

招き猫誕生の伝説

同じ東京都内、浅草近辺にも招き猫の伝説がいくつか伝えられている。そのひとつが「今戸焼[いまどやき]の招き猫」である。浅草の花川戸に住んでいた老婆は貧しさゆえにどうにも生活が立ち行かなくなり、他人の家にお世話になることになった。

老婆は1匹の猫をたいそう可愛がっていたが、一緒に連れていくことができず泣く泣く手放すことにした。ある晩のこと、老婆の夢枕にその猫が現われ、「自分の姿を作って祀れば福徳が訪れる」と告げた。

そのお告げの通りに猫の姿の土人形をつくったところ、たちまち良いことが起き、もとの家に住めるようになったと言う。この噂が広まり、浅草の参道では次第にこの猫の人形を売り出すようになった。これが今戸焼の招き猫の始まりである。

他にも吉原の遊女にまつわる招き猫の話としてこんなものもある。吉原の遊女である薄雲太夫(うすぐもたゆう)は「玉」と言う1匹の三毛猫を可愛がっていた。あまりの溺愛ぶりに周りからはいぶかしがられるほどであった。猫もまた薄雲太夫のそばを片時も離れることなく、寄り添っていた。

あるとき、玉が厠にまで付いて行くので、見かねた店の主人が刀で玉の首をはねてしまった。するとその首は宙を舞い、厠に潜んでいた大蛇に食らいついたのである。玉は大蛇から薄雲太夫の命を守るためにいつもそばにいたのであった。

檀王法林寺

檀王法林寺

猫の死を嘆き悲しむ薄雲太夫に、贔屓の客が贈ったのが伽羅木に彫った猫であったと言う。その一連の事件とともに評判が広まり、浅草寺あたりで類似の品が売られるようになった。これが招き猫の起こりともされる。

さらに京都の檀王法林寺(だんのうほうりんじ)は、右手を挙げた黒猫の招き猫が夜の恐怖を除く神「主夜神」(しゅやじん)の使いとして古くから信仰されている。

その人気から一時は右招きの猫は他で作ることが禁止されるほどであった。寺社関連の招き猫としては最古の物とも言われている。

太田道灌を勝利に導いた黒猫

江戸城を建築したことで知られる戦国武将、太田道灌(おおたどうかん)にも猫にまつわる伝説が伝わる。新宿区にある自性院(じしょういん)は「猫寺」と呼ばれ親しまれているが、そこには2体の猫地蔵が安置されており、そのひとつが太田道灌に由来する物である。

1477年(文明9年)に太田道灌と豊島勘解由左衛門尉(としまかげゆさえもんのじょう)との間で起きた江古田原の戦い(えごたはらのたたかい)でのこと、道に迷った太田道灌の前に1匹の黒猫が現われたと言う。その黒猫に導かれるようにたどり着いたのが自性院であった。太田道灌はその猫のおかげで寺での一夜を過ごすことができ、兵を整え戦いに勝利したと伝わる。

太田道灌は勝利をもたらした黒猫を江戸城に持ち帰り、末永く可愛がったと言う。そして死後は丁重に葬り、黒猫を供養するため猫地蔵を奉納したのである。

現在、猫地蔵が見られるのは毎年2月3日の節分の日のみ。秘仏である猫地蔵の御開帳には朝早くから多くの人で賑わう。また、同寺には猫供養の猫塚もあり、現在でも猫にまつわる信仰の場となっている。

新田のお殿様は猫絵の天才

清和源氏の血を引く上野国新田郡下田嶋村(現在の群馬県太田市)の新田氏。宗家である岩松氏は参勤交代も行うほどの格式高い大名家であったが、石高はわずか120石しかなく、財政は厳しいものであった。その財政を補うための副収入となっていたのが、お殿様自らが描いた「猫絵」であった。上野・信濃・武蔵は当時から養蚕の盛んな地域で、蚕や繭を食べてしまう鼠を捕るために猫が非常に大切にされていた。

しかし、鼠捕りに長けた猫を飼いたくとも、そう簡単に手に入る時代ではなかった。そこで、重宝したのが猫絵である。養蚕を行う農民は鼠除けとしてこぞって猫絵を求めたと言う。赤い首輪が可愛らしい猫絵は、岩松義寄(いわまつよしより)から、岩松徳純(いわまつよしずみ)、岩松道純(いわまつみちずみ)、岩松俊純(いわまつとしずみ)と代々引き継がれた。

新田のお殿様が描いた猫の絵はご利益があるともてはやされ、その人気からまがい物が登場するほどであった。さらに、明治時代に入っても新田の猫絵の人気は衰えず、男爵となった新田俊純は「バロン・キャット」と呼ばれ、諸外国でも知られるようになった。

戦国武将と猫の逸話

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