徳川十五代将軍

第16代将軍候補/徳川家達

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江戸幕府15代将軍、すなわち「最後の将軍」であった「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)。そんな徳川慶喜によって、その長い歴史にピリオドが打たれた江戸幕府ですが、もし存続していたのであれば、16代将軍になっていたかもしれない人物が誰であったのかはご存じでしょうか。それは、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつ「田安家」(たやすけ)出身の「徳川家達」(とくがわいえさと)です。徳川家達は次期将軍候補に挙げられただけでなく、徳川宗家出身ではなかったのにもかかわらず、同家の家督を相続しました。これらの経緯について、徳川家達の生涯を紐解きながらご説明します。

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将軍になるはずだった徳川家達

激動の幕末期に誕生

徳川家達

徳川家達

幕末期の1863年(文久3年)、「江戸城」(東京都千代田区)内の田安(たやす)屋敷にて、「徳川慶頼/田安慶頼」(とくがわよしより/たやすよしより)の三男として生まれた「徳川家達」(とくがわいえさと)。幼名は「亀之助」(かめのすけ)と名乗っていました。

この当時は、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)など「倒幕派/討幕派」の志士達が、新政権樹立のために武力をもって政治運動を繰り広げていた時期。

一方では、江戸幕府を支持する会津藩(現在の福島県)などの「佐幕派」(さばくは)の武士達が倒幕派に徹底抗戦の構えを示し、活動していた時期でもあったのです。

徳川家達が誕生した1863年(文久3年)に、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)以来、実に229年ぶりに上洛します。これは日本を鎖国し、「攘夷」(じょうい:外敵を退け、入国させないようにすること)の実現を願っていた121代天皇孝明天皇」(こうめいてんのう)より打診を受けたことがきっかけ。

徳川家茂は鎖国攘夷について協議するために、京都を訪れたのです。将軍として政権を握っていた徳川家茂自らが、天皇のもとへ馳せ参じたこのできごとは、江戸幕府が少しずつ終焉へと向かい、政治の中心が京都へ移り変わっていくことを物語っていたと言えます。

徳川家達が次期将軍候補に挙げられた理由

徳川家達が生まれた田安家は、「一橋家」(ひとつばしけ)や「清水家」(しみずけ)と共に、徳川宗家より分立した徳川御三卿のひとつ。徳川御三卿は、徳川宗家と「徳川御三家」(とくがわごさんけ)に継嗣がいない場合に、宗家の家督を相続させる人物を提供することを目的に、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の子や孫によって創設されました。

あるとき突然に、徳川家達に次期将軍候補となるチャンスが訪れます。それは徳川家達が、まだ4歳であった1866年(慶応2年)のこと。徳川家茂が「第二次長州征伐」の最中に、滞在先の「大坂城」(現在の大阪城大阪市中央区)内において、21歳の若さで急逝したのです。

篤姫像

篤姫像

そして浮上したのが、次期将軍候補の問題でした。徳川家茂には、家督を相続させられる実子がいなかったのです。そこで白羽の矢が立ったのが徳川家達。

父が徳川家茂の後見職を務めていたこと、徳川家茂が徳川家達の再従兄弟(またいとこ)であり、将軍家に近い血筋であったことがその理由でした。

徳川家茂自身も、自分に何かあったときには徳川家達に次期将軍の座を継がせるように周囲へ伝えていたのです。

この徳川家茂の遺命に基づき、大奥の「天璋院」(てんしょういん:別称・篤姫[あつひめ])や徳川家茂の近臣達は、徳川家達に徳川宗家の家督を継がせることを主張しました。

しかし、国内では動乱が繰り返され、いくつもの外国船が往来する脅威が迫っていたなかで、4歳の徳川家達が将軍として幕政を司ることは当然ながら無理な話。そのため最終的には、もうひとりの次期将軍候補であった徳川御三家・一橋家出身の「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が15代将軍に就任したのです。

徳川家達が明治時代に歩んだ経歴

徳川宗家16代当主となる

約260年にも亘る江戸幕府の歴史が幕を閉じると、1868年(慶応4年/明治元年)に明治新政府が成立します。すると徳川家達は、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の緒戦(しょせん:始まったばかりの頃の戦い)である「鳥羽・伏見の戦い」において朝敵(朝廷に抗う敵)と見なされた徳川慶喜に代わり、徳川宗家の家督を継ぐように新政府から命じられました。

こうして徳川家達は、5歳の幼児であったのにもかかわらず、徳川宗家16代当主の座に就くことに。なお、幼い徳川家達の後見役は新政府の命により、同族の「松平斉民」(まつだいらなりたみ)らが務めていました。

そののち徳川家達は、駿河国・府中(現在の静岡市葵区)に70石で封じられ、駿府藩(すんぷはん)藩主となります。しかし、「府中」(ふちゅう)の地名が「不忠」、つまり「天皇や新政府に忠義を尽くさない」という意味に通じることから、藩名を「静岡藩」に改めたのです。

そして1869年(明治2年)6月に実施された「版籍奉還」(全国の藩が領していた土地と人民を、朝廷に返還した政治改革のこと)によって徳川家達は、静岡藩の藩知事に就任。同時に華族にも列することになりました。ところが1871年(明治4年)に徳川家達は、「廃藩置県」に伴って静岡藩知事の役職を免ぜられたため、東京へ移住して新生活を始めることとなったのです。

華族のリーダーとして活躍

1877年(明治10年)に徳川家達は、イギリスへ留学します。約5年に亘ってイギリスに滞在した徳川家達は、語学のみならず、同国の政治体制なども積極的に学び、ケンブリッジ大学などの名門校への進学を希望していました。しかし、13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の正室であり、我が子同然に可愛がってくれていた篤姫が、徳川家達の結婚を楽しみに待っているという連絡を受けます。

そのため1882年(明治15年)、20歳になっていた徳川家達は、志半ばで帰国したのです。そのあと徳川家達は、篤姫の義兄である「近衛忠房」(このえただふさ)の娘「近衛泰子」(このえひろこ)と結婚。近衛泰子は、篤姫が選んだ女性でした。1884年(明治17年)に徳川家達は、華族の爵位において最上位である「公爵」に列せられます。その6年後に「帝国議会」が開設されると、徳川家達は貴族院議員に就任。徳川宗家が再び、国政に関与するようになったのです。

そして徳川家達は、1903~1933年(明治36年~昭和8年)の30年間に亘って貴族院議長を務め、華族のリーダーとしてその才能を発揮。1914年(大正3年)に「山本権兵衛」(やまもとごんのひょうえ/ごんべえ)内閣総辞職のときには、大正天皇より組閣の大命を賜りましたが辞退しています。

ワシントン軍縮会議に参加した徳川家達

ワシントン軍縮会議に参加した徳川家達

そんな徳川家達の活躍は、議員としてだけではありませんでした。

渋沢栄一」(しぶさわえいいち)の支援によって創設した「日本赤十字社」(東京都港区)の社長や、「東京五輪組織委員会」の委員長などを歴任。

1921~1922年(大正10~11年)に開催された「ワシントン軍縮会議」では全権委員のひとりに選ばれ、国際協調に注力するなど、外交面でもその手腕を見せていました。

世間からは「十六代様」と呼ばれ、ときには揶揄されることもあった徳川家達でしたが、このような多岐に亘る活動のなかで、華族のリーダーとしての才能を存分に発揮していたのです。

徳川家の現在

徳川家正

徳川家正

江戸幕府が終焉を迎えたあとも、家名の存続を認められた徳川家。

1940年(昭和15年)に徳川家達が亡くなると、その嫡男「徳川家正」(とくがわいえまさ)が家督を継ぎ、同家17代当主の座に就きます。

父と同様、公爵に列せられて貴族院議員、及び貴族院議長に就任しただけでなく、外交官としても活躍しました。

徳川家正の跡を継いで18代当主となったのは、1940年(昭和15年)に「会津松平家」(あいづまつだいらけ)の一族に生まれた「徳川恒孝」(とくがわつねなり)さん。徳川宗家に養子として迎えられ、1964年(昭和39年)に「日本郵船株式会社」に入社したあとは、徳川宗家の当主としての責務を果たしながら、会社勤務と両立されていました。

さらに徳川恒孝さんは2003年(平成15年)に、徳川宗家に伝わる歴史的価値の高い資料や文化財を保存、修復、公開することなどを目的に「公益財団法人 徳川記念財団」を発足し、その理事長として国内外問わず、江戸時代の日本に対する理解を深めてもらうことに尽力されているのです。

徳川宗家のみならず、御三家や御三卿にまで範囲を広げれば、同家の系譜はさらに多くの人々に受け継がれていると考えられます。それはきっと徳川家達が、イギリスへ留学するなど自己研鑽を積み、貴族院議員として政治面や外交面において大いに活躍するなどして、徳川宗家存続のために弛まぬ努力を重ねていたからかもしれません。

徳川家伝来の「太刀 銘 備州長船住景光」

徳川家康」が創始した徳川宗家の系譜と同様に、徳川家康から同家に伝来し、徳川家達にまで受け継がれたと伝わるがあります。それは、「刀剣ワールド財団」が所蔵する「太刀 銘 備州長船住景光」(たち めい びしゅうおさふねじゅうかげみつ)。

太刀は、戦後に徳川宗家が手放したとされる1振です。その際の但し書きには、「権現様[ごんげんさま:徳川家康を敬って言う言葉]より伝わる太刀」との記述が見られます。

本太刀を作刀したのは、「日本刀の華」と称される「備前伝」(びぜんでん)の名門、「長船派」(おさふねは)を代表する名工景光」(かげみつ)。本太刀には「小互の目乱れ」(こぐのめみだれ)の刃文や、「小板目肌」(こいためはだ)の地鉄(じがね)に細かな(にえ)が付くなど、景光の特色が顕著に現れています。

また本太刀付属の(こしらえ)である「鶴足革包研出葵紋散 御召鐺鞘 打刀拵」(つるあしかわつつみとぎだしあおいもんちらし おめしこじりさや うちがたなごしらえ)の金具には、徳川宗家を象徴する家紋三つ葉葵」(みつばあおい)の意匠が刻まれており、本太刀が同家に伝来したことが窺える証しとなっているのです。

鶴足革包研出葵紋散 御召鐺鞘 打刀拵
鶴足革包研出葵紋散 御召鐺鞘 打刀拵
太刀 銘 備州長船住景光
太刀 銘 備州長船住景光
備州長船住景光
正和五年十月日
鑑定区分
重要文化財
刃長
75.8
所蔵・伝来
徳川家康 →
徳川家 →
徳川家達 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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