戦国武将と寺

仏教に由来する戦国武将の名前

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全国でいくつもの争乱が頻発していた戦国時代、現代よりも死が近くあったことで、多くの人が篤く宗教を信仰していました。戦国武将達も例外ではなく、晩年には仏道に帰依し、出家をすることで隠居する武将も多くいたのです。多くの武将が深い信仰を持っていたことが、名前にも反映されることがありました。仏教用語や神様が名前の由来となった戦国武将を紹介します。

仏門に入った名前が知られる戦国武将

仏教を篤く信仰し、仏門に入った戦国武将は名前を「戒名」(かいみょう)に改め、名乗っていました。戒名とは、仏道に帰依した人物が与えられた名前のこと。現在では、亡くなった人物に贈られるものとして知られていますが、本来は死後に戒名を与えられるより、生前に名乗ることの方が何倍も縁起が良いとされているのです。そのため、現在よりも死が近くにあった戦国時代には、多くの武将が生前に出家し、戒名を名乗りました。

実名よりも戒名で知られる戦国武将を紹介します。また、実名と戒名を見分けるポイントは、読み仮名。一般的に、名前が訓読みの場合は実名、音読みの場合は戒名であるとされているため、今回紹介する武将の名前も読み方に着目してみて下さい。

武田信玄

武田信玄

武田信玄

「甲斐の虎」と呼ばれ、戦国最強の武将としても知られる「武田信玄」は、甲斐国(現在の山梨県)を拠点とした戦国大名です。

最盛期には戦国最大の勢力を築き、ライバルである「上杉謙信」と、5度に亘る「川中島の戦い」を起こしたことで知られています。

そんな武田信玄の名前は、実は出家後に名乗った戒名。武田信玄の出家前は「晴信」(はるのぶ)という名でしたが、1559年(永禄2年)の「第3次川中島の戦い」ののちに出家し、「法性院信玄」(ほうしょういんしんげん)という戒名が与えられたのです。

武田信玄が出家した理由は明らかにされていませんが、信濃(現在の長野県)をほぼ平定し、信濃守護に任命されたことを契機に、僧の最高位とされる「大僧正」(だいそうじょう)の地位を得るために出家したのではないかとされています。

武田信玄は、禅宗の一派である臨済宗に帰依していたことから、「信玄」の由来は、臨済宗の開祖である「臨済義玄」(りんざいぎげん)より1文字取ったとする説や、臨済宗妙心寺派の開山「関山慧玄」(かんざんえげん)より1文字取ったとする説などがありますが、詳しいことは分かっていません。

上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信

義を重んじ、天才的な戦術家として知られる上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)を拠点とした戦国武将です。

7歳の頃に禅宗の一派である曹洞宗の「林泉寺」(りんせんじ:新潟県上越市)に預けられ、養育された上杉謙信は、他の戦国武将と比べても信心深く、のちに自らを毘沙門天の化身と信じ、篤く信仰するようになりました。

上杉謙信が信仰した毘沙門天とは、仏界の北方を守護する四天王の1柱で、七難を退け七福を与える軍神として名高い神様です。上杉謙信は居城である春日山城(新潟県上越市)内に毘沙門堂を造り、何か誓約をする際は、必ず毘沙門堂内で行っていたと言います。

上杉謙信の名前も、出家した際に与えられた戒名です。元服をしたのちに名乗っていた名前は「景虎」(かげとら)と言いました。上杉謙信が出家をしたのは40歳でしたが、「第2次川中島の戦い」が起こった1556年(弘治2年)には、長引く合戦と家臣団の不和を理由に、出家をして隠居する旨を記した手紙を城へ残し、高野山へ出奔する事件を起こしました。

協調を取り戻した家臣の説得により戻った上杉謙信でしたが、この一連の出家騒動は、家臣を取りまとめるための方便だったのではないかとも言われています。

斎藤道三

斎藤道三

斎藤道三

美濃国(現在の岐阜県)を権謀術数で乗っ取ったことで知られる「斎藤道三」(さいとうどうさん)は、「美濃のマムシ」と呼ばれ恐れられた「下克上大名」です。

斎藤道三は、11歳のときに京都の寺院に入り、20歳で還俗(げんぞく:出家をした者が俗人に戻ること)。

そのあと商人として成功しましたが、一念発起して武芸を学び、武士となったとされています。

このため、斎藤道三は殺害した主家の名前や継いだ名跡の名を名乗り、次々と名を変えていきました。何度も名前を変えた斎藤道三の実名で特に知られているのは、「利政」(としまさ)という名前です。

戒名となる「道三」の名が初めて確認できたのは、1536年(天文5年)の書状で、「斎藤新九郎入道道三」(さいとうしんくろうどうさん)の署名が確認できます。斎藤道三がこの頃までに出家をして戒名を受けたことは明らかですが、詳細な時期やその理由は分かっていません。

幼名が仏教に関する戦国武将

幼名とは、主に平安時代から江戸時代にかけて、貴族や武士の子が成人の儀を終え、諱(いみな:実名)を付けるまで名乗っていた、幼少時の名前のこと。戦国時代においては、幼児が病などで命を落とすことも多かったため、幼名には、無事に成人を迎えられるようにという祈りが込められていました。

また、大切な子供が魔物に魅入られないようにするために、幼名には一般的に嫌われるものや神仏の名前を幼名に使い、厄除けの意味も込められていたのです。そのなかでも、仏教に関する幼名を持った戦国武将を見ていきましょう。

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗

東北地方を拠点とし、「奥州の独眼竜」の異名を持つ戦国武将である「伊達政宗」は、あと10年生まれてくるのが早ければ、日本の歴史が変わっただろうと言われるほどの才覚を持った武将です。

型破りな行動で、「伊達者」(だてしゃ:派手な服装や風流、粋を好む人)の語源となった伊達政宗は、晩年には仙台藩(現在の宮城県仙台市)の初代藩主となり、優れた為政者として民に愛されました。

そんな伊達政宗の幼名は、「梵天丸」(ぼんてんまる)と言います。梵天とは、インドにおける創造神「ブラフマー」が仏教に取り入れられた姿で、仏法護持の代表となる神様です。梵天丸の名前は、伊達政宗の母「義姫」(よしひめ)が、文武の才と忠孝の誉れを持った男子を祈願した際に、夢枕に立った白髪の僧より梵天と呼ばれる幣束を授かり、目が覚めると伊達政宗を懐妊していたことが由来。

なお、「丸」とは、当時の幼名に付けられる一般的な名ですが、その語源は「おまる」だとされます。伊達政宗の幼名・梵天丸は、仏法の加護と、人が嫌うものの双方を含んだ、健康にたくましく育つことを願われた名前だったのです。

織田信長

三英傑のひとりに数えられる「織田信長」は、「天下布武」を掲げて天下統一に乗り出した尾張国(現在の愛知県西部)出身の戦国武将です。若いときは、その型破りな行動から「尾張の大うつけ」とも称された人物でしたが、新しい戦術や政策で勢力を伸ばし、天才的な戦略家として知られるようになりました。

そんな織田信長の幼名は、「吉法師」(きっぽうし)と言います。詳細な意味は明らかにされていないものの、名に付く「法師」とは、一般的に、人の師となれるほどの高い学識や経験を持った僧侶に対する呼称です。また、僧侶が剃髪することと、男子が髪を剃っていたことをかけて、男子のことを指す言葉としても用いられます。このため、織田信長の幼名・吉法師は、縁起の良い「吉」を持った男子に育つようにと願われた名前であると考えられるのです。

加藤清正

豊臣秀吉」子飼いの武将として「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられる「加藤清正」は、のちに築城の名手としても名を馳せた戦国武将です。朝鮮の役において虎退治をした伝説が残るなど、勇猛果敢な猛将のイメージの強い加藤清正ですが、実は政治の上でこそ能力を発揮する人物であったと言い、晩年まで豊臣家の行く末を案じた忠義に厚い武将でした。

加藤清正の幼名は「夜叉丸」(やしゃまる)。丸は伊達政宗の幼名と同じく、おまるを語源とするものです。「夜叉」とは、元々インド神話に登場する鬼神のことでしたが、仏教に取り入れたことで、八部衆と呼ばれる仏界の守護をする異形の神となった神様。

インドにおけるバラモン教の精舎の前には1対の夜叉像が置かれていたことが、寺院の門に金剛力士像が置かれたことの由来となっているとされます。加藤清正は、幼名に込められた願いの通り、豊臣家や徳川家を守護する勇猛な武将へと成長しました。

他にも、時代は上がりますが、南北朝時代の武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)の幼名は、上杉謙信が信仰したことで知られる軍神「多聞天」(たもんてん:毘沙門天とも)にあやかり、「多聞丸」(たもんまる)という名を付けられています。

仏教に由来する戦国武将の名前

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