武将が広めた仏教

日本の歴史と仏教の広まり

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世界では日本人が無宗教的であると言われることもありますが、現在、主に日本で信仰されているのは、世界三大宗教のひとつである「仏教」と日本古来の「神道」の2つ。飛鳥時代に海外から日本に仏教が伝えられてから、仏教の御仏と国の成り立ちにかかわると信じられている古来の神々をどのように位置付け、仏教を受け入れていったのでしょうか。当初は国を守るための宗教としていた仏教がどのように民衆に広まっていったのか見ていきましょう。

仏教の伝来と日本人の仏教観

仏教の伝来

丁未の乱

丁未の乱

仏教がインドから中国、百済(くだら)を渡って日本に伝えられたのは、飛鳥時代のこと。

当時の百済は、仏教の伝来を外交の手段とし、日本と友好な関係を築こうとしていました。

しかし、日本には古来より信仰の対象として「八百万の神々」がいたため、当時の豪族である蘇我氏と物部氏は、仏教を受け入れるか否かで対立し、「崇仏論争」(すうぶつろんそう)を展開。

丁未の乱」(ていびのらん)を経て、日本に仏教が定着するようになりました。

この政争ののちに日本仏教の基礎を作ったのが、「聖徳太子」です。聖徳太子は、蘇我氏と結び、物部氏ら排仏派を打倒。「推古天皇」(すいこてんのう)の治世で摂政となると、仏教や国外の政治を取り入れ、「四天王寺」(大阪市天王寺区)などの建立や、「十七条憲法」などの制定に活かしました。日本の仏教は、聖徳太子がいなければ、現在のように広まっていなかったとも言われています。

本地垂迹説の広まり

仏教を受け入れることとなった日本では、国策のひとつとして仏教を利用するようになり、朝廷も仏教を信仰する動きが現れはじめました。

しかし、朝廷の中心となる天皇家は、日本古来の太陽神である「天照大神」(あまてらすおおみかみ)の子孫とされるため、天皇が仏教を信仰することは、日本古来の神が仏教の下に就くことを意味します。

このことから、日本古来の信仰である神道と仏教を両立させるため、日本の神様と仏教の御仏を同一視する、「神仏習合」(しんぶつしゅうごう:神仏混交[しんぶつこんこう]とも)がなされることになったのです。

平安時代に神仏習合で用いられた説が、「真言宗」や「天台宗」をはじめとする密教勢力が唱えた「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)という考え。本地垂迹とは、「日本古来の神々は、仏教の御仏が現世に現れる際の仮の姿である」という説で、神道側からも、本地垂迹説の立場を反転させ、「新本仏迹」(しんぽんぶっしゃく)という考え方がされるようになりました。

日本には、国の成り立ちや国主にかかわる古来の神々がいたにもかかわらず、外国の宗教である仏教を受け入れることができました。その理由のひとつとして、神道が宗教ではなかったからという見方があります。古来神道には教義はなく、キリスト教や仏教に代表されるように、何かを縛る戒律などは存在しません。

そのため、文字を介した教えがなされない神道と、学術的な要素を含んだ仏教は、自然に融合することができたのです。神仏習合によって、日本古来の神様と仏教の御仏は近しいものとなり、以降、国を挙げて仏教を信仰するようになりました。

武家の台頭と庶民仏教の広がり

末法思想

末法思想とは、仏教の開祖である釈迦(しゃか)の入滅後、ときが経つにつれて釈迦の教えが伝わらなくなり、仏法が衰退して「末法」の世が来るという歴史観のこと。末法は、釈迦の入滅から1500年、または2000年後に来ると言われ、末法では乱れた世の中となると考えられていたのです。

日本における末法は、1052年(永承7年)にはじまり、そのあと10,000年続くと信じられていました。丁度その頃の日本は、武士が台頭してきた時代で、1051年(永承6年)には、このあと10年続く「前九年の役」(ぜんくねんのえき)が勃発。さらに飢饉や災害が起こったり、朝廷の政治力が弱まったりするなど、不安定な情勢が続いていたことで末法思想が流布し、同時に仏教を深く信仰する人の数も増えていったのです。

しかし、当時の日本の仏教には学術的な側面も多く、仏法の力は国を守護するものと考えられていたため、民衆の救済という側面はほとんどなく、仏教は貴族が中心となったものでした。

鎌倉時代と仏教

阿弥陀如来

阿弥陀如来

10世紀、「空也上人」(くうやしょうにん)によって念仏が京都の庶民に広められてはいたものの、一般的に庶民に仏教が広まるのは鎌倉時代のこと。

貴族社会であった平安時代から、武士が権力を握るようになった鎌倉時代に移行をすると、貴族の文化が武家社会に取り入れられるようになり、仏教も同様に広まるようになりました。

しかし、平安時代までの仏教には文字を介した教義があり学術的な側面を含んでいたことから、信仰するためには教養が必要な宗派がほとんど。このため、鎌倉時代には、庶民仏教となる「浄土宗」や「浄土真宗」、「日蓮宗」、「曹洞宗」、「臨済宗」などの新たな宗派が誕生しました。

鎌倉時代に誕生した宗派は、平安時代の「鎮護国家」を司っていた仏教観から、民衆救済を説いたものに変化します。例えば、「阿弥陀仏」(あみだぶつ)を信じ、念仏を唱えることで救いを得ることができるとする「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)という浄土宗の教えは、読み書きができない庶民でも、容易に信仰することができるようになるものでした。

座禅

座禅

これらの鎌倉仏教は、庶民だけでなく、当然武家にも広まります。

このとき武家に広く信仰されたのが、「禅宗」と呼ばれる内の2宗である、曹洞宗と臨済宗でした。

これらの禅宗は、新しく中国から伝来した宗派で、座禅を組むことにより悟りを得ようとする教えが特徴で、貴族のように文学に優れていなくてもよかったことから、武家に広く信仰されるようになったのです。

鎌倉時代は武家や民衆が仏教を深く信仰するきっかけとなり、鎌倉時代に生まれた「民衆の救済」という側面を持ち合わせた新宗派は、現在でも広く信じられています。

江戸時代の禁教令

キリスト教の弾圧と幕府の仏教統制

「禁教令」(きんきょうれい)とは、特定の宗教を信仰することを禁じる法令のことを言いますが、日本における禁教令とは、幕府の支配制度に組み込まれることを拒否したキリスト教に対し、江戸時代初期に幕府が発令した、国民がキリスト教に帰依することを禁じた法令のこと。

一方仏教は、幕府の支配制度に組み込まれていたことから、「本末制度」(ほんまつせいど:末寺を、宗派ごとに本山や本寺により組織化させ管理する制度)や「寺檀制度」(じだんせいど:決まったの家の葬祭を永続的に担当する制度)など、寺院と国民の結び付きを強める制度が幕府から導入されます。

これらの制度は、本来キリスト教を禁じるために設けられた制度でしたが、民衆と寺院をより強く結び付ける性格を持っていたため、民衆に他の宗教が介入する隙を与えないようにする制度となり、仏教に帰依していなかった人物やキリスト教を信仰していた者を改宗させ、仏教徒を増やしていくことに繋がったのです。

幕末に開国されてからは、禁教令は緩和されましたが、明治時代には再び禁教令が発令されました。第二次世界大戦後には、日本国憲法により信仰の自由が宣言されましたが、現在の日本においても、仏教と日本古来の神道が日本の二大宗教として信仰されています。

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