戦国武将と寺

武将が深く信仰した仏像

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戦場を駆ける武将達は、現代にいる私達よりも圧倒的に死に近い場所にいました。合戦を繰り返す武将と、不殺を戒律に掲げる仏教の信仰はなじみのないもののように感じられますが、自らの手で命を奪うことも少なくなかった武将達は、御仏に手を合わせて自らの罪を懺悔していたのです。武将が愛し、信仰した仏像について紹介します。

不動明王

「不動明王」(ふどうみょうおう)は、密教特有の尊格である「明王」の1尊(いっそん)で、「大日如来」(だいにちにょらい)の化身ともされる神様です。火焔光(かえんこう)を背負い、黒もしくは青色の身体をした不動明王の仏像は、右手にはを、左手には縄を持っています。

背の低い童子型の像が多く、一様に怒ったような顔をしていますが、実は、これは慈悲の表れ。柔和な仏様で対処できない悪を、不動明王はその力で断ち切り、迷いを焼き尽くして進むべき道を示してくれるのです。

平安時代に日本へ伝えられた不動明王は、鎮護国家を司る神様でしたが、のちに山岳信仰とも結び付き、修行者から篤い信仰を受けました。屈強な姿を持っていたことから、軍神としても崇敬を集めることとなり、多くの武将達の間で篤く信仰されるようになったのです。

宮本武蔵と不動明王立像

宮本武蔵の不動明王

宮本武蔵の不動明王

不動明王像と武将と言えば、戦国の雄「武田信玄」が、自らの姿に似せて不動明王像を制作させ、胸部の漆には自分の毛髪を交ぜて塗りこめたという話が有名。

しかし、江戸時代初期の剣術家「宮本武蔵」も、不動明王像にまつわる逸話を持っています。

宮本武蔵は二刀を用いて戦う、「二天一流」の開祖で、「佐々木小次郎」との「巌流島の戦い」が有名な人物ですが、晩年には「鵜図」(うず)や「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)などの水墨画を描き、芸術や禅、茶道にも精通しました。

そのなかで、宮本武蔵が自ら手彫りをしたと伝わる木造の不動明王像が存在。宮本武蔵の不動明王像は、一般的な不動明王像とは異なり、両手で剣を握り、正面を鋭く見据えた像容をしています。剣術における「八相の構え」(はっそうのかまえ)を彷彿とさせる勇猛な不動明王像は、宮本武蔵の精神と威容がよく表された作品だと言えるでしょう。

摩利支天

摩利支天

摩利支天

「摩利支天」(まりしてん)とは、元々はインドの女神「ウシャス」であるとされ、陽炎や日の光を神格化した神様です。

陽炎は実体がないため、捉えることも、焼くことも、傷付けることもできないとされ、自在の神通力を持っていたことから、日本においては武芸の神様として崇敬されるようになりました。

摩利支天像は、猪に乗った三面六臂(さんめんろっぴ)の男神や、一面二臂の天女型で表されることが多く、や剣などの武具を手にしていることも。

武士達は、摩利支天の小像を必勝祈願のお守りとして合戦に携帯したとされ、南北朝時代の武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)も、の中に摩利支天の小像を入れていたとされます。

山本勘助と摩利支天像

山本勘助

山本勘助

武田信玄の部下で、「武田二十四将」のひとりに数えられる「山本勘助」(やまもとかんすけ)は、「第4次川中島の戦い」において、「啄木鳥の戦法」(きつつきのせんぽう)を発案したことで知られる武田軍の伝説的軍師

武田軍に入ったのは50歳前後だったと言われ、若い頃は武者修行の旅をしていました。

山本勘助は旅の途中、25歳の頃に、高野山にある摩利支天堂で瞑想をしていた際、夢の中に弘法大師が現れ、摩利支天像を授けられたという伝承があります。

以降、山本勘助はこの摩利支天像を自身の守護仏とし、襟にかけて諸国を歴遊しました。この摩利支天像は現在、山本勘助の墓がある、「長谷寺」(ちょうこくじ:愛知県豊川市)に所蔵されています。

摩利支天は山本勘助の他にも、「毛利元就」(もうりもとなり)や「立花道雪」(たちばなどうせつ)が旗印とするなど、多くの武将達の信仰を集めていました。

毘沙門天

毘沙門天

毘沙門天

「毘沙門天」(びしゃもんてん)は、仏界の北方を守護する神様で、「四天王」の1尊に数えられています。

別名を「多聞天」(たもんてん)と言い、四天王として寺院に安置する場合は多聞天、独尊として安置する場合は毘沙門天と呼び分けられるのが通例。

仏界の守護神となる四天王の中でも最強の武神として崇敬されており、武将達の間で多くの信仰を集めました。

毘沙門天像は、甲冑を着た屈強な男神として表され、左手に宝塔、右手には戟(げき:枝刃のある[ほこ])などの宝棒を持った姿。七難を退け七福を与える武神として、足元に邪鬼を踏み付けていることもあり、多くは悪を払うために忿怒相(ふんぬそう:怒った顔)をしています。

上杉謙信と泥足毘沙門天

上杉謙信

上杉謙信

「戦の天才」や「義の人」として知られる越後国(現在の新潟県)の戦国武将「上杉謙信」は、幼少時に寺院に預けられていたことから武将の中でも一際信心深く、自らを毘沙門天の化身と信じ篤く信仰していました。

居城である「春日山城」(新潟県上越市)には、毘沙門天像を安置し、上杉家の重大な取り決めや契約事を行う際には、この毘沙門堂を利用したと伝えられています。

多くの合戦に暮れる日々を過ごしていた上杉謙信は、あるとき、久々に毘沙門堂へ赴くと、堂内には泥の付いた足跡がありました。この足跡が毘沙門天像まで続いていたことから、上杉謙信は、「毘沙門天が、戦場を上杉軍と共に駆けてくれたのだ」と喜び、この毘沙門天像を「泥足毘沙門天」(どろあしびしゃもんてん)と呼ぶようになったのです。

八幡大菩薩

八幡神像

八幡神像

「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)は、本来「八幡神」(はちまんしん/やはたのかみ)という、神仏習合がなされた日本の神様です。

15代天皇の「応神天皇」(おうじんてんのう)と同一視される皇祖神としても知られ、古くは大和朝廷の守護神とされましたが、河内源氏の祖である「源頼信」(みなもとのよりのぶ)により源氏の氏神となってからは、全国の武家から武運勝運の神として広く信仰されるようになりました。

鎌倉幕府初代将軍となる「源頼朝」は、八幡神の加護にあやかり、「奥州合戦」では八幡神の神号が入れられた錦の御旗を用いたとされます。

八幡神像は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ:神仏習合思想のひとつで、八百万の神々が仏の姿を借りて日本の地に現れたとする説)により、剃髪し、袈裟(けさ)を身に付け、錫杖(しゃくじょう)を持って蓮華座に座った僧の姿として表された、僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)が一般的。

なお、八幡神は「弓矢八幡」(ゆみやはちまん)として、多くの武将から崇敬を集めていたことから、兜の頂点に存在する「天辺の座」(てへんのざ)に八幡神を勧請することで、武運や戦勝を祈願しました。天辺の穴に装飾を施し、八幡神を勧請した部位は「八幡座」(はちまんざ)と呼ばれ、重要な意味を持つようになったのです。

戦国時代に天下人となった「豊臣秀吉」は、死後に自らを「新八幡」として祀るように遺言をしたとされますが、死後は、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)により神号が下賜され、「豊国大明神」(とよくにだいみょうじん)として「豊国神社」(京都市東山区)に祀られました。

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