戦国武将と寺

武将と寺院のつながり

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平安時代まで仏教を信仰するのは貴族が中心で、その祈りについても安産祈願や病気平癒といった内容でした。それが鎌倉時代以降、武士社会となっていくなか、武士達の間で仏教を崇拝する人々が増加。そして戦が続くようになった戦国乱世の時代では、社寺への戦勝祈願や、戦の守護神として念持仏(ねんじぶつ)を持つことが当たり前になっていきます。さらに武将達は、自身の躍進や先祖の霊を弔うため菩提寺の建立や、領民達のために寺院再興を行うようになりました。武将達とつながりのある寺院の歴史について追って行きましょう。

斎藤道三の国盗り開始の地「常在寺」

斎藤道三

斎藤道三

斎藤道三」(さいとうどうさん)は、「戦国の梟雄」(きょうゆう)や「策謀家」と言った異名の多い武将です。

下剋上の代表格として挙げられることの多い斎藤道三ですが、もともとは京都にある日蓮宗の「妙覚寺」(みょうかくじ:京都市上京区)で得度し「法連坊」(ほうれんぼう)と名乗る僧侶でした。

しかし、20歳で還俗(げんぞく:僧から俗人に戻ること)。京都の油問屋の娘と結婚し「松波庄五郎」(まつなみしょうごろう)と名乗る商人になります。そして油売りとして諸国をめぐり美濃国(現在の岐阜県)に辿り着きました。

美濃国には、妙覚寺での僧侶時代に兄弟弟子でもあり学友でもあった「南陽坊」(なんようぼう)が「常在寺」(岐阜県岐阜市梶川町)で「日運」(にちうん)と名乗る住職となっていたのです。日運の兄「長井利隆」(ながいとしたか)は、美濃国の守護・土岐氏の重臣であったことから、長井利隆を通じて「土岐頼芸」(ときよりのり)に仕えるようになりました。

のちに松波庄五郎は、斎藤道三と名乗るようになり、守護であった土岐氏を上回る権力を身に付け、土岐一族を追放し美濃国を支配するようになります。

常在寺

常在寺

常在寺

常在寺は、正式名称を「鷲林山常在寺」(じゅりんざんじょうざいじ)と言い、妙覚寺の末寺で、本尊は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)です。

1450年(宝徳2年)の室町時代に、土岐家守護代として権力を持ち、当時、美濃国を支配していた「斎藤妙椿」(さいとうみょうちん)が建立。

のちに斎藤道三が美濃国を支配するようになると、斎藤道三が常在寺を保護し発展させました。以後、斎藤家当主3代の菩提寺となっています。

そして常在寺は、国の重要文化財に指定されている「斎藤道三肖像画」と「斎藤義龍肖像画」(さいとうよしたつしょうぞうが)を所蔵。毎年4月の第1土曜日に開催される「道三まつり」に合わせて「道三公追悼式」が営まれ、斎藤道三とその偉業を偲びます。

織田信長が安土城に築いた「摠見寺」

織田信長

織田信長

織田信長」とは、天下布武を目指し、歴史を大きく変えた戦国武将として今も人気の高い人物。

先進的な物の考え方をする一方で、神仏を冒涜する「魔王」のようにも見える面を持っていました。

事実、「比叡山焼き討ち」や「長島一向一揆」、「石山合戦」などの宗教勢力への過酷な弾圧を行っています。

しかしそれは宗教勢力の堕落や腐敗を正す戦であり、織田信長自身は「熱田神宮」(愛知県名古屋市熱田区)への戦勝祈願や、「津島神社」(愛知県津島市)への寄進などを積極的に行っているのです。

摠見寺

摠見寺 仁王門

摠見寺 仁王門

織田信長が近江国(現在の滋賀県)に築いた「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市)の城郭内には、臨済宗妙心寺派の「摠見寺」(そうけんじ:滋賀県近江八幡市)が建立されています。

摠見寺は、安土城の外に架かる「百々橋」(どどばし)からすぐの場所にありました。

百々橋からの道は、安土城天主を訪れる人々が利用した通用口であったと言われ、その途中にあった摠見寺への参道にもなっていたのです。「信長公記」にも、この百々橋からの登城道が書かれています。

摠見寺の開山は、初代住職は織田信長の遠縁にあたる「織田信安」(おだのぶやす)の三男「剛可正仲」と伝わりますが、実際の創建時の住職は別の人物であるとされています。安土城は1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」で燃えてしまいましたが、摠見寺は延焼を免れたものの1854年(安政元年)、江戸時代後期の火災によりほぼ全焼。

現在の摠見寺は1929年(昭和4年)に宮内庁より「京都御所」(京都市上京区)の一部を賜り、安土城の敷地内にあった「徳川家康邸」跡地に「仮本堂」と称して移築されています。

創建当時の面影を残すのは「三重塔」と「木造金像力士像」の安置された「仁王門」です。三重塔と仁王門のいずれも織田信長が作らせた訳ではなく、甲賀(現在の滋賀県南東部)にある寺院より移築した建造物だとされていますが、どちらも国の重要文化財に指定されており貴重な美術品として今も大切にされています。

徳川家康が死を踏み留まった「大樹寺」

徳川家康

徳川家康

徳川家康」は、戦国乱世を生き延び、ついには天下統一を果たし、約260年も続く江戸幕府の礎を築いた戦国武将です。

徳川家康は織田家今川家において13年間も人質として生活を送っています。幼い頃に人質となったことで、忍耐力や洞察力を養い、何事にも辛抱強く耐え抜く精神を鍛えました。

そんな徳川家康に訪れた転機は、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で「今川義元」(いまがわよしもと)が織田信長に敗れたことにはじまります。今川軍の配下となっていた徳川家康は、この機に乗じて今川家を離脱。以降は、織田信長と手を結び、巧みな用兵術と優れた政治手腕で東海地方での勢力を強めていくようになります。

大樹寺

大樹寺

大樹寺

大樹寺」(だいじゅじ:愛知県岡崎市)は、徳川家(松平氏)の菩提寺であり、浄土宗の寺院です。

1475年(文明7年)に4代当主「松平親忠」(まつだいらちかただ)が、戦死者供養のため創建したのがはじまり。

「大樹」とは、「征夷大将軍」の中国での呼び名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈って命名されたと伝わります。

大樹寺には、桶狭間の戦いで今川軍から離脱した徳川家康が、今川家の追手から逃げながら駆け込んだ場所でもありました。今川家の追手から逃げられないと覚悟を決めた徳川家康が、自害しようとしたところを大樹寺の住職が「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を説いて思い留まらせた逸話が残ります。

厭離穢土欣求浄土とは「汚れたこの世を厭い離れ、極楽浄土を目指す」という意味で、以来、徳川家康は厭離穢土欣求浄土を旗印にするようになりました。

大樹寺は徳川家(松平氏)の菩提寺でもあることから、歴代江戸幕府将軍の位牌が安置されています。位牌の大きさは将軍達が亡くなったときの身長に合わせて作られているため、すべてが安置されている「位牌堂」は圧巻の光景。また、国の重要文化財や、愛知県や岡崎市の文化財などに指定された建造物や工芸品が多数残ります。

伊達政宗が師と共に再興した「瑞巌寺」

伊達政宗

伊達政宗

「独眼竜」の異名を持つ「伊達政宗」は、17歳で伊達家の家督を継ぎ、破竹の勢いで奥州(現在の東北地方)を平定し覇者として君臨。

豊臣秀吉」、そして徳川家康へと支配者が交代していくなかで、伊達政宗は江戸幕府で仙台藩620,000石の大名として仙台発展の礎を築きました。

後世に語られる伊達政宗は溌剌とした印象が残りますが、幼い頃に病気にかかり右目を失明したことで精神的に不安定になり、内向的な性格をしていました。子の将来を案じた父「伊達輝宗」(だててるむね)は、臨済宗の僧「虎哉宗乙」(こさいそういつ)を招き伊達政宗の学問の師としたのです。

以後、虎哉宗乙からは、学問だけではなく仏道や兵法などの薫陶を受けて、伊達政宗は精神的に大きく成長していきました。

瑞巌寺

瑞巌寺 庫裡

瑞巌寺 庫裡

瑞巌寺」(ずいがんじ:宮城県宮城郡松島町)とは、伊達政宗が虎哉宗乙の勧めで再興した寺院です。

もともと瑞巌寺は、創建当時の平安時代は天台宗「延福寺」と称していたところ、鎌倉時代に臨済宗に改宗し「円福寺」と改名。

隆盛を極めた寺院でしたが、戦国時代を経て次第に衰退していったと言います。

そこで伊達政宗が仙台に移った頃に、藩政を安定させるため築城城下町の整備をし、宗教政策として主要な社寺の造営、再建を進めてきました。円福寺は1604年(慶長9年)、再興に着手をして5年をかけて改修、完成後に寺名を瑞巌寺と改めました。

瑞巌寺は10室もの部屋を構えた大規模な本堂があり、障壁画や襖絵、欄間などに桃山文化の粋を凝らした豪華な絵画や彫刻が施されています。本堂は1953年(昭和28年)に国宝に指定され、その他の建造物も重要文化財に指定。

また宝物館には、1652年(承応元年)の伊達政宗の17回忌に合わせて正室「愛姫」(めごひめ)が作らせた「伊達政宗甲冑像」が安置されているのです。27歳時の姿形を等身大で作らせた像で、伊達政宗の遺言により両目が備わっています。

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戦国武将を育てた寺の教育

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仏教に由来する戦国武将の名前

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武将が深く信仰した仏像

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