徳川慶喜の基礎知識

徳川慶喜の趣味・写真撮影とカメラマンのひ孫

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将軍辞職後、政治の表舞台から姿を消した「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、長い隠棲生活のなかで趣味へと没頭していきます。多芸多才な人物であった徳川慶喜は、あらゆる趣味を持っていましたが、なかでも熱を注いだ趣味が「写真撮影」です。静岡と東京で隠居生活を送るなかで、徳川慶喜は将軍時代から好んでいた写真を通して、外の世界を覗いていました。激動の幕末を駆け抜けた徳川慶喜は、趣味人として静かに暮らした後半生をカメラとともに歩んでいたのです。また、徳川慶喜が愛した写真撮影は、徳川慶喜の血を引くひ孫にも受け継がれました。徳川慶喜が趣味の域を超えて没頭した写真撮影と、隠居生活のなかで撮られた作品のこと、またプロのカメラマンとして活躍した徳川慶喜のひ孫「徳川慶朝」(とくがわよしとも)氏についてご紹介します。

写真を通して見えてくる徳川慶喜

徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、水戸藩(現在の茨城県)9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男で、のちに一橋徳川家9代当主となり、そののち15代将軍となった人物です。

江戸幕府が握っていた政権を天皇に返上するために「大政奉還」を行い、「勝海舟」に「江戸無血開城」を実行させたことで知られており、「大隈重信」(おおくましげのぶ)からは「徳川慶喜がいなければ、明治維新は成功していなかっただろう」と評された他、「日本資本主義の父」と称される「渋沢栄一」からは「明治維新最大の功労者のひとり」と評価されました。

一時は貴族院議員を務めた徳川慶喜ですが、任期を終えると、様々な趣味に没頭。当時珍しい自転車を乗り回した一方で、弓道手裏剣術などの鍛錬は欠かなかったと言われています。

その人柄から、地元の人々には「けいき様」や「けいきさん」と呼ばれて親しまれ、徳川慶喜自身も「けいき」と呼ばれることを好んでいました。

被写体としての徳川慶喜

西洋からの新しい文化が日本に入ってきた頃、新しい物好きで「西洋かぶれ」と揶揄されていた徳川慶喜は、新技法による油絵や、写真撮影に興味を示していました。特に写真撮影においては、度々自身がモデルとなって撮影をさせるなど、幕末期からすでに強い関心を寄せていたことが分かります。

将軍就任前の1864年(元治元年)から1866年(慶応2年)、徳川慶喜が京都御所を護衛する禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられていた時代に、2枚の肖像写真を撮影させています。現存する徳川慶喜の写真では最も古い物で、徳川慶喜と言えば、この写真を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

1枚は、机に肘をついて煙管を咥える徳川慶喜の写真で、愛読書の「資治通鑑」(しじつがん:中国の編年体の歴史書)が傍らに置かれています。もう1枚は、アメリカ製の元込式ライフル銃を置いて撮影した物。どちらの写真も、政治家としての自身を演出しているかのような肖像写真となっています。この写真の撮影者は判明していませんが、当時、一橋徳川家は数人の写真師を抱えていたと言われています。

そののち将軍時代の徳川慶喜は、フランスの軍服姿の肖像写真を撮影させていました。そこには、フランスの「ナポレオン3世」から贈られた軍服やケピ帽(フランス軍で用いられた帽子)に身を包み、外国から献上されたアラビア馬に跨る徳川慶喜の姿が見られます。軍制改革に果敢に取り組んでいた徳川慶喜の意志を感じられる1枚です。

徳川慶喜は、新しい時代の到来をイメージさせるために、このような肖像写真を撮らせていたのではないでしょうか。

水戸徳川家の一族とともに写真撮影にのめり込む

将軍辞任後、水戸で隠棲生活を送っていた徳川慶喜は、自らカメラを手にして写真撮影を楽しむようになりました。徳川慶喜が写真撮影を始めたきっかけは諸説ありますが、最後の水戸藩の藩主で、兄弟で最も仲の良かった弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)が写真を撮り始めており、その影響を受けたためだと言われています。

徳川昭武

徳川昭武

徳川慶喜の使用人によって記された「徳川慶喜家扶日記」(とくがわよしのぶかふにっき)によると、1893年(明治26年)以降の徳川慶喜は、特に写真撮影に熱中していることが分かります。

この頃、徳川慶喜は静岡に写真スタジオを構えていた写真師「徳田孝吉」(とくだこうきち)を自宅に招き、写真撮影の指導を受けていました。

そして、静岡の久能山(くのうざん)や清水港、安倍川などで頻繁に写真撮影を行っていたことが記録されています。

このとき、徳川慶喜は弟の徳川昭武や、水戸藩10代藩主で長兄の「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)、その息子の「徳川篤敬」(とくがわあつよし)と帯同して写真撮影に出かけていました。静岡で外部との交流を絶っていた徳川慶喜にとって、写真撮影は一族と交流をするひとつの機会だったと考えられます。

また、徳川慶喜の甥にあたる徳川篤敬は、当時、「大日本写真品評会」の会頭を務めていました。徳川慶喜に限らず水戸徳川家は、写真に造詣が深かった一族だったのでしょう。徳川慶喜家扶日記には、徳川慶喜が徳川篤敬を頼って写真撮影に必要な機材などを購入していたことも記録されています。この頃、日本でガラス乾板(かんぱん)による写真撮影技術が普及し始めたこともあって、徳川慶喜はさらに写真撮影にのめり込んでいったのです。

あらゆるテーマで写真作品を撮影

徳川慶喜が撮影した子ども

徳川慶喜が撮影した子ども

徳川慶喜は撮影する上で、様々な被写体を写真におさめていました。

静岡で写真撮影に没頭していた頃の作品としては、清水港波止場風景や、安倍川の鉄橋を走る蒸気機関車など、名所を撮影した風景写真が多く残されています。

1897年(明治30年)に東京に移転してからは、「靖国神社」(東京都千代田区)の境内で、「大村益次郎」(おおむらますじろう)の銅像を撮影したり、東京博覧会場でも積極的に写真撮影をしたりしていました。

また、徳川慶喜の自宅近くで子ども達を撮影した写真を見ると、3人の子どもがはにかんでいる様子から、撮影を楽しむ徳川慶喜の姿を想像することができます。さらに、徳川慶喜はカメラを持って王子や板橋にも足を伸ばし、農作業をする庶民の生活や農村の風景も写真におさめていました。

1902年(明治35年)に公爵となった徳川慶喜は、写真撮影という趣味を通じて華族社会で交流を深めていきます。当時、華族の写真愛好家によって発行されていた「華影」(はなのかげ)という写真投稿誌に、徳川慶喜も何度か作品を投稿していました。華影内で、徳川慶喜は9点の作品を発表しており、そのなかには見事二等に入選した作品も。公爵になっても、写真への情熱は失われることなく、徳川慶喜はさらに撮影の腕を上げていったのです。

徳川昭武が撮影した、写真撮影をする徳川慶喜

徳川昭武が撮影した
写真撮影をする徳川慶喜

晩年は、徳川昭武の隠居場所であった松戸の戸定邸(とじょうてい:現在の千葉県松戸市松戸)に頻繁に訪れており、松戸周辺でも撮影を行っていました。

1905年(明治38年)に戸定邸の下を流れる坂川で、写真撮影をする徳川慶喜の様子を徳川昭武がおさめた1枚が残されています。

歳を重ねても、写真撮影を楽しむ2人の親密な関係が伝わってくる、味わい深い作品と言えるでしょう。

このように徳川慶喜は、政界を去ってから晩年に至るまで、およそ40年という月日をカメラとともに過ごし、徳川慶喜の目に映った明治時代の生活を、多くの作品に投影していったのです。

徳川慶喜の写真集「将軍が撮った明治」

徳川慶喜は明治時代以後、歴史の表舞台から姿を消したため、晩年の消息を伝えるものは少ないと言われています。徳川慶喜がどのような生活を送っていたのか、それを示す貴重な資料として挙げられるのが「将軍が撮った明治」です。

本書は、徳川慶喜のひ孫である「徳川慶朝」(とくがわよしとも)氏が、屋敷に残る徳川慶喜が撮影した写真をまとめ、1986年(昭和61年)に出版した写真集です。白黒写真が多いですが、着色された物も数点見られ、写真そのものは日常を切り取ったような平凡な物が大半です。

江戸城(現在の東京都千代田区)が開城した日、徳川慶喜は謹慎しました。そして、「戊辰戦争」終結後に謹慎を解かれますが、政界には復帰しようとはせず、表面には全く出ない生活を送ります。徳川慶喜は、戊辰戦争において国内が大乱になるのを防ぐため、自らの評価よりも国を思っての決断をしました。それほどまでに世の中を客観的に見る目があったのです。

この写真集には「会津飯盛山白虎隊の碑」や「九段 靖国神社 大村益次郎の銅像」なども掲載されています。戊辰戦争の際は、お互いに「味方」と「敵」同士だった人達にまつわる被写体です。徳川慶喜は、これらの物をどのような気持ちで撮影したのでしょうか。

客観的に物事を捉えようとする視点が、ステレオカメラやパノラマカメラを使っていた事実からも感じられるため、徳川慶喜がカメラ越しにどのような世界を見ていたのか興味がある人にはおすすめできる1冊となっています。

写真を愛した徳川慶喜とひ孫・徳川慶朝

徳川慶喜のひ孫・徳川慶朝はカメラマンとして活躍

徳川慶朝氏

徳川慶朝氏

徳川慶喜のひ孫である徳川慶朝氏は、プロのカメラマンとして活躍。

徳川慶朝氏は、徳川慶喜が亡くなってから37年後、1950年(昭和25年)に静岡市郊外で誕生しました。

父は徳川慶喜の孫「徳川慶光」(とくがわよしみつ)で、元貴族院議員。母は会津松平家出身の「徳川和子」です。

徳川慶朝氏が生まれる前、1947年(昭和22年)に華族制度が廃止。父・徳川慶光が爵位と貴院の議席を失ったことに伴い、徳川慶喜家は東京の自邸から静岡県へ移住しました。住居は、徳川慶光の義兄「高松宮宜仁親王」(たかまつのみやのぶひとしんのう)が所持していた静岡県庵原郡興津町(現在の静岡県静岡市清水)の「坐魚荘」(ざぎょそう)。

一時的にこの邸宅に居住し、また坐魚荘から庵原郡瀬名(いはらぐんせな:現在の静岡市葵区瀬名)へ転居した際に、徳川慶光氏が生まれたのです。さらに、1、2ヵ月後、東京都港区高輪に移住しました。父・徳川慶光の転職に合わせ転居をくり返したあと、徳川慶喜家は東京都町田市に居を構えたのです。

徳川慶朝氏は、1972年(昭和47年)に成城大学経済学部を卒業したあと、カメラマンとして広告制作会社「株式会社東京グラフィックデザイナーズ」に入社。主要取引先であった「本田技研工業株式会社」のバイクや自動車を撮影し、ホンダ製品の広告写真を撮影するカメラマンとして活躍しました。また、東京グラフィックデザイナーズで20年間勤務したあとは、カメラマンとして独立。曾祖父・徳川慶喜の歴史を辿り始めるのです。

まずは、徳川慶喜家に由来する遺跡や建造物を周り、自身のルーツとも言える場所を作品に収めていきました。また、自身の作品を撮るだけではなく、カメラ好きな徳川慶喜が撮影していた写真や、徳川慶喜家秘蔵の写真作品の修正作業、及び保存活動も行っています。

フリーのカメラマンとなってからの徳川慶朝氏は、徳川慶喜家の子孫という目線で、写真にかかわっていきました。

徳川慶喜家最後の当主・徳川慶朝

徳川慶朝氏は、フリーのカメラマンとして活躍しながら、徳川慶喜の写真集以外の書籍も数冊上梓。なかでも、2003年(平成15年)に出版された「徳川慶喜家へようこそ」は、売上100,000部以上のベストセラーとなりました。

このなかで、徳川慶喜家には徳川慶喜が子孫に遺した家範があり、当主と家族だけが読むことができたと伝えられています。徳川慶朝氏はこの家範を受け継ぎつつ、「徳川慶喜家」という特別な家柄に縛られることなく、人生を謳歌していたと語っているのです。

晩年の徳川慶朝氏は、東京から茨城県ひたちなか市へ移住し、「徳川将軍珈琲」というオリジナルのコーヒーの焙煎にも力を注ぎました。徳川将軍珈琲は、かつて徳川慶喜が欧米公使に振る舞ったコーヒーをイメージして、コーヒー好きな徳川慶朝氏が自ら焙煎した物で、2004年(平成16年)に商品化されています。

徳川慶朝氏が茨城県へ移住したのは、この徳川将軍珈琲をともに製造する「サザコーヒー」に通うためでしたが、じつは茨城県ひたちなか市は、徳川慶喜が育った水戸藩ゆかりの地としても著名。

ここでも、コーヒーを通じて、曾祖父・徳川慶喜とひ孫・徳川慶朝氏が引き寄せられたのでしょうか。徳川慶朝氏が焙煎した徳川将軍珈琲はヒット商品となり、現在もサザコーヒーで販売されています。

なお、徳川慶朝氏は徳川慶喜家最後の当主となりましたが、独身だったため、跡を継ぐ子孫はいませんでした。しかし、このことに関しても晩年の徳川慶朝氏は悲観しておらず、自分の人生を好きに生きることが大切だと語っています。

そして、2017年(平成29年)9月に徳川慶朝氏は茨城県水戸市の病院で亡くなりました。徳川慶喜家の嫡流は途絶えてしまいましたが、徳川慶喜は十男十一女と子沢山だったため、現在もその子孫は政治家を務めたり、神社の宮司を務めたり等、各界で活躍しています。

徳川慶喜の趣味・写真撮影とカメラマンのひ孫

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