徳川慶喜の基礎知識

徳川慶喜が二条城で行った大政奉還

文字サイズ

「大政奉還」(たいせいほうかん)は、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が政権を返上し、260年以上続いた江戸幕府を終わらせ、新たな時代の転換点となったできごとです。皆さんはこの大政奉還が、土佐藩(現在の高知県)の構想「大政奉還論」だったということをご存知でしょうか。徳川慶喜は、一体どのような経緯で土佐藩から大政奉還論を受け入れ、どのような目論見で大政奉還を実行したのでしょうか。徳川慶喜が大政奉還した理由、なぜ表明場所が京都の二条城となったのか、立役者「坂本龍馬」についてなど、大政奉還の真相を分かりやすく解説します。

大政奉還における徳川慶喜の目論見と誤算

徳川慶喜に建白された大政奉還論

「大政奉還」(たいせいほうかん)とは、1867年(慶応3年)10月14日に江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が、朝廷の「明治天皇」に政権を返上したことを言います。1866年(慶応2年)に14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が亡くなり、徳川慶喜が新たな征夷大将軍に叙任されてから、わずか1年後のことでした。

山内容堂

山内容堂

将軍就任後の徳川慶喜は、幕府の権威が低下していたことを危惧し、制度改革に注力。

徳川慶喜の尽力によって幕府に復権の兆しが見えると、倒幕を企む諸藩は、「早く倒幕を実行しないと、幕府が再び強い力を持つようになる」と警戒を強めます。

そこで、徳川慶喜から実権を奪うために、薩摩藩主・島津忠義の父「島津久光」(しまづひさみつ)が中心となり、前・越前藩主「松平春嶽」(まつだいらしゅんがく)、前・土佐藩主「山内容堂」(やまうちようどう)、前・宇和島藩主「伊達宗城」(だてむねなり)の有力大名4名は、「四候会議」(しこうかいぎ)を開きました。

ところが聡明な徳川慶喜は、諸藩の倒幕の企みをかわして、四候会議を名ばかりの体制とさせることに仕向けます。これを機に、徳川慶喜を懐柔させるのは難しいと悟った薩摩藩(現在の鹿児島県)は、武力行使による倒幕へと方針を変えていったのです。

一方で、四候会議に参加した前・土佐藩主の山内容堂は、倒幕派から幕府擁護派に転じます。なぜなら、土佐藩家老「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)によって、「大政奉還論」が提案されたから。これは、幕府が朝廷から委任された政権を返上するという画期的な案でした。山内容堂は、この大政奉還論が、徳川家を守りながら新体制を構築するための最良策であると考え、徳川慶喜に進言することを決意。

こうして、1867年(慶応3年)10月3日、山内容堂は土佐藩の構想として「大政奉還建白書」を、幕府筆頭老中「板倉勝静」(いたくらかつきよ)へと託し、徳川慶喜に提出したのです。

徳川慶喜が描いた大政奉還のシナリオ

徳川慶喜と二条城大広間に集められた諸藩重臣

徳川慶喜と二条城大広間に集められた諸藩重臣

徳川慶喜は、土佐藩から提出された大政奉還建白書を受け取ると、9日後の10月12日に幕府内で政権奉還の書付を示しました。

そして、翌日の13日に、「二条城」(京都市中京区)の大広間に100,000石以上の諸藩重臣を集め、大政奉還上表を提示し、幕府が政権を返上する意向であることを宣言したのです。

これに意見がある者は、同日中に徳川慶喜が別室で面会するという方法が採られましたが、諸藩は大政奉還に賛成する形となり、朝廷へ大政奉還を奏上する準備が整いました。そして、諸藩への表明が行われた翌日の10月14日、大政奉還上表が朝廷に提出され、10月15日に正式に受理されたのです。こうして徳川慶喜は政権を朝廷へ返上しました。

しかし、大政奉還上表を受けたところで、朝廷側は政権を運営する力を持っていません。そのため朝廷は、「引き続き将軍として政務を行うように」と徳川慶喜を頼り、これまで通り、徳川慶喜が国政を動かすことになったのです。

この意外とも言える結果を、徳川慶喜は予測していました。つまり、大政奉還を行えば、260年以上続いた江戸幕府は消滅してしまうけれども、朝廷から再び大政を委任され、新たな政治体制を築くことができると読んでいたのです。

実際に、徳川慶喜は幕府の限界を感じていたこともあり、早い段階で政権返上を決意していたと晩年に語っています。さらに、土佐藩から大政奉還建白書を受けた時点で、政権返上の好機会だと考えていたことも明かしました。当時の状況から見ても、土佐藩の大政奉還建白書を拒否すれば、倒幕の危機に晒されることは確実でした。幕府は政治的な理由からも、土佐藩の大政奉還建白書を受け入れるしかなかったと考えられます。

このように、大政奉還後も変わらず国政に携わるという状況のもとで、徳川慶喜は今後も徳川宗家が一定の権限を持ち続けるであろうと期待していました。しかし、徳川慶喜の目論見は、薩摩藩などの倒幕派によって大きく崩れ去ることとなるのです。

大政奉還後の徳川慶喜

大政奉還後も、変わらず徳川慶喜主導の国政が行われることを知った薩摩藩などの倒幕派は、公家の「岩倉具視」(いわくらともみ)のもとで、王政復古に向けたクーデターを画策します。

そして、大政奉還が受理されてから約2ヵ月後の12月8日、徳川慶喜不在で朝議が行われ、諸藩士が御所を封鎖。翌日9日、岩倉具視によって王政復古の決行が奏上され、天皇から新国家の樹立が宣言されました。

この「王政復古の大号令」では、徳川慶喜の将軍辞職、幕府の廃止が定められ、倒幕派に協力的であった「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)を総裁とした新政権の設立が公表されています。さらに、そのあとの小御所会議で、徳川慶喜の内大臣の官位返上と、徳川家による幕府領の返納を求める「辞官納地」が決定されたのです。

徳川慶喜は、この一連のクーデターを事前に知らされていましたが、対応に動くことはなく、静観する姿勢を見せ続けました。反発する旧幕府勢をなだめながら、徳川慶喜は「何事も朝命のままに服従せよ」と諭したのです。

しかし、徳川慶喜は辞官納地に応じることはなく、強大な権力を持ち続けました。そして拠点を「大坂城」(現在の大阪城大阪市中央区)に移すと、外交権を保持したままイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、イタリアなどの公使を引見します。これを知った薩摩藩は、徳川慶喜と旧幕府の権力を粉砕するため、武力で挑発行動を繰り返しました。

これを見かねたのが、徳川慶喜です。ついに1868年(明治元年)1月に、薩摩討伐軍を京都へと送り、「戊辰戦争」の初戦「鳥羽・伏見の戦い」が開戦しました。

ところが、旧幕府軍はあっけなく敗北。さらに徳川慶喜は、薩摩側(新政府側)から天皇による「錦の御旗」(にしきのみはた)が挙がるのを見て戦意を失い、江戸へと逃亡します。徳川慶喜は、「天皇にを引くことは許されない」という水戸徳川家の教えに反することができなかったのです。

同年2月、江戸に到着した徳川慶喜は、上野の「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区上野)大慈院にて謹慎の意を表します。そのあと、新政府の命によって、江戸城(現在の東京都千代田区)を明け渡し、水戸での謹慎、次いで静岡で謹慎を言い渡されるのです。この間も、旧幕臣と新政府軍による戦い・戊辰戦争は続いていました。しかし、徳川慶喜はひたすら恭順の意を表し続けて戦いにかかわることはなく、1869年(明治2年)9月まで謹慎生活を続けたのです。

徳川慶喜が大政奉還を行ったときの年齢は31歳とまだ若く、将軍としても政治家としても、これからといったところでした。それにもかかわらず、徳川慶喜は沈黙を続け、謹慎解除後も長い隠居生活を送ったのです。

徳川幕府の始まりと終わりを見届けた二条城

二条城の歴史

二条城

二条城

京都の観光名所で世界遺産にも登録されている二条城は、徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還を表明した場所として有名です。

二条城の正式名称は「元離宮二条城」(もとりきゅうにじょうじょう)。江戸幕府の始まりと共に、初代将軍「徳川家康」が創建しました。

しかし、もともとは室町時代後期に足利将軍家が御所としていた場所。

室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が、歴史上最初にこの地に城郭を築いたのです。戦乱の世の中で、幕府の実権を握る三好氏を信頼できなかった足利義輝は、元幕府管領の斯波氏屋敷跡に新たな居城を建築。二条という地名であったことから「二条御所」と呼ばれました。

ところが、1565年(永禄8年)「永禄の変」が起こるのです。これは、二条御所で、足利義輝が三好氏から襲撃されて命を落とした事件。築城したばかりの二条御所は、将軍殺害の現場となってしまったのです。

次に、この二条御所跡に城郭を築いたのが、戦国の世を統一する前の「織田信長」。室町幕府最後の将軍となった「足利義昭」(あしかがよしあき)を守るために、織田信長が二条御所跡から土地を拡張して広大な城郭を築き、足利義昭の本拠としました。

しかし、このあとすぐに2人は対立し、織田信長によって足利将軍家は終焉を迎えたのです。そして、織田信長は二条御所とは別に、京都での滞在場所として新たな二条を築き、これを皇太子「誠仁親王」(さねひとしんのう)に献上しました。

1582年(天正10年)「本能寺の変」で織田信長が討死すると、「豊臣秀吉」が天下を統一します。豊臣秀吉は大坂を本拠地とする一方で、1583年(天正11年)に京都の拠点を二条に築きます。「二条第」(にじょうてい)と呼ばれたこの城郭は、のちに豊臣秀吉が大坂から京都へ移って本拠「聚楽第」(じゅらくだい)を築くまで使用されました。

さらにそのあと、徳川家康によって創建されたのが現存する二条城です。徳川家康は、1601年(慶長6年)から築城に着手し、1603年(慶長8年)に完成した二条城に入城。このとき徳川家康は、征夷大将軍叙任による「祝賀の儀」を二条城で行っています。この儀式は、2代将軍「徳川秀忠」、3代将軍「徳川家光」も行いましたが、そのあと、徳川家が二条城から離れたため、幕末まで荒廃したまま放置されたのです。

再び、徳川将軍が二条城に足を踏み入れたのは、1862年(文久2年)の14代将軍・徳川家茂の時代。天皇から大政委任(国政が朝廷から幕府へ委任されていること)の勅諚(ちゃくじょう:天皇からのご命令)を受けるために上洛した徳川家茂は、京都での宿所として二条城を改修しました。このとき、徳川慶喜も将軍・徳川家茂に付き添い上洛したのです。

時を経て、15代将軍に就任した徳川慶喜は、1867年(慶応3年)にこの二条城で大政奉還を表明。明治時代になって、二条城は京都府庁舎として使用され、宮内省(現在の宮内庁:東京都千代田区)管轄の「二条離宮」となっています。こうして、表舞台に立つことになった二条城は、1939年(昭和14年)に京都市に恩賜(おんし:天皇・君主から物を賜ること)され、1940年(昭和15年)から元離宮二条城として一般公開されたのです。

大政奉還はなぜ二条城で表明された?

14代将軍・徳川家茂と共に上洛した徳川慶喜は、征夷大将軍に就任したあとも江戸に帰ることなく、京都で政権を動かしました。一方、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬って外敵を撃退すること)派の薩摩藩と長州藩(現在の山口県)は、朝廷から幕府を倒す密勅(みっちょく:秘密の勅命)を受けようと京都で秘密裏に動きだしていたのです。

朝廷から討幕を命じられた薩長軍との戦いを避けるために、徳川慶喜は一刻も早く策を講じる必要がありました。そのため徳川慶喜は、京都で監視を続けたまま、大政奉還の準備を進めて、京都の拠点である二条城に諸藩重臣を集め、大政奉還の表明を行ったのです。

江戸に帰還することなくスピード感を持って、徳川慶喜が大政奉還を受け入れたからこそ、一触即発の危機を脱することができました。これが、二条城という場所で大政奉還が表明された理由だと考えられます。

二条城を舞台に描いた「大政奉還図」

大政奉還図

大政奉還図

徳川慶喜による大政奉還と言えば、教科書でもお馴染みの「大政奉還図」をイメージされる方が多いのではないでしょうか。

大政奉還図は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した歴史画家「邨田丹陵」(むらたたんりょう)の代表作で、徳川慶喜が二条城大広間に集められた諸藩重臣に大政奉還上表を表明する様子が描かれています。

しかし、当時の記録によると、大政奉還の表明は筆頭老中・板倉勝静によって書面で伝達。そのあと、意見のある者だけが残り、6名の重臣が徳川慶喜に早々に大政奉還をするよう進言したとあるのです。

この記録が正しければ、実際には大政奉還図のような場面はなかったと考えられます。また、大政奉還図をよく見てみると、障壁画に桜が描かれています。実際の二条城大広間の障壁画は「狩野探幽」(かのうたんゆう)による松の木で、桜が描かれているのは「桜の間」として知られる黒書院という小広間です。このため大政奉還図は、徳川慶喜が重臣に大政奉還を表明した場面ではない可能性もあると言われています。

新しい時代を切り拓く幕末の志士・坂本龍馬

坂本龍馬は大政奉還の立役者

  • 坂本龍馬
    坂本龍馬
  • 後藤象二郎
    後藤象二郎

約260年続いた江戸幕府を終わらせた大政奉還は、もともとは朝廷と幕府が一体となる公武合体の政治思想を持つ、土佐藩から幕府に建白された案でした。1867年(慶応3年)10月3日に、公武合体派を先導した土佐藩士・後藤象二郎が、前・土佐藩主の山内容堂に大政奉還論を進言したことが始まり。

そののち藤象二郎が進言した大政奉還は、実は元・土佐藩士「坂本龍馬」が示した「船中八策」(せんちゅうはっさく)をもとに構築されたと言われています。

船中八策とは、大政奉還の基礎になったと言われる、坂本龍馬が後藤象二郎に提案した策のことで、長崎から京都へ向かう土佐藩船の上で、幕府政権の返還、議会の設置、経済政策などの8つの策が口頭で伝えられたことから、この名で呼ばれるようになりました。この船中八策は、後年に歴史小説で語られるようになりましたが、原本が実在していないため、現在は史実ではなく創作上の話とされています。

しかし、後藤象二郎と坂本龍馬が交流を深めていたことは事実で、土佐藩は坂本龍馬の影響を受けていたことに間違いありません。坂本龍馬は、新しい国家をつくるために、大政奉還実現に強い決意を持っていたと言われています。

坂本龍馬の生涯

坂本龍馬は、1836年(天保7年)に土佐藩の下級武士「坂本直足」(さかもとなおたり)の末っ子として誕生しました。子どもの頃から剣術が得意だった坂本龍馬は、19歳で土佐国(現在の高知県)を出る許可を貰い、江戸で道場の門を叩いて1年間の剣術修行に励みました。

剣術の腕を上げて帰ってきた坂本龍馬は、「ジョン万次郎」を寄宿させていた「河田少龍」(かわだしょうりょう)から外国の話を聞き、次第に世界へと夢を広げるようになります。そののち、土佐藩士として活動するなかで、日本を良くするためには自らが立ち上がらなければいけないと悟り、1861年(文久元年)に土佐藩を脱藩。

しかし坂本龍馬は、この頃相次いでいた脱藩志士らのように、尊王攘夷運動に傾倒することはありませんでした。坂本龍馬は、下関を出て九州へ向かったあと、江戸を目指して修行先であった道場に滞在します。この頃、幕府三大要職のひとつである政事総裁職に就く松平春嶽と対面し、幕府の軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)であった「勝海舟」を紹介されます。

そして、勝海舟が開設した「神戸海軍操練所」に付属する「海軍塾」に入門し、海軍の修行に励むなかで、坂本龍馬は勝海舟の右腕として台頭していったのです。しかし、海軍操練所に所属する者達が騒動を起こしたことで、勝海舟は江戸に呼び戻されたため、海軍塾も閉鎖され、坂本龍馬は再び行き場をなくします。

坂本龍馬をはじめとする脱藩浪士達は、1866年(慶応2年)に生活のために協力し合い、長崎で「亀山社中」(かめやましゃちゅう)という商社を興します。この組織を動かしながら、坂本龍馬は同年に薩長同盟を成立させるなど、幕府に対抗する力を付けていきました。

薩長同盟が成立した2日後、坂本龍馬は宿泊先の「寺田屋」(現在の京都市伏見区)で伏見奉行所の役人に襲われます。手にケガを負った坂本龍馬は、ここで働く「お龍」(おりょう)の機転によって命を救われることに。2人は親しい仲となり、「西郷隆盛」の仲立ちで晴れて夫婦となったのです。西郷隆盛の勧めで新婚旅行に出かけた2人は、坂本龍馬の手に負った傷を癒すため、鹿児島で温泉を巡るなど楽しい時間を過ごしました。

しかし、2人の幸せな生活は、ある日突然失われることとなるのです。

坂本龍馬の暗殺

再現された暗殺現場の近江屋

再現された暗殺現場の近江屋

薩長と交流を深める坂本龍馬の活躍を聞き付けた土佐藩は、坂本龍馬のもとに土佐藩・後藤象二郎を送り、会談を実現させます。

これを機に、亀山社中は土佐藩連携の組織とすることが認められ、坂本龍馬は脱藩の罪を免除されることとなったのです。

そのあと、坂本龍馬による大政奉還案が土佐藩で採用され、1867年(慶応3年)10月に大政奉還が成立。坂本龍馬は、大政奉還の立役者となりました。

しかし、大政奉還成立から1ヵ月後の11月15日の夜、京都河原町の宿泊先「近江屋」(おうみや)で、坂本龍馬は暗殺されてしまいます。当時、近江屋の2階で土佐藩郷士・陸援隊隊長「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)と談話していたところ、突然、数人の刺客が坂本龍馬らの部屋に押し入ってきたのです。帯刀していなかった2人は、抵抗する間もなく、斬り殺されたと言われています。

暗殺の実行犯は、京都の治安維持部隊であった「京都見廻組」(きょうとみまわりぐみ)による説が有力視されていますが、いまだ明らかにはされておらず、現在も諸説語られています。生前に「ちょっとやそっとでは死なんぞ」と語っていた坂本龍馬ですが、大政奉還を実現させ、新政権発足に尽力していたなかで、悲惨な最期を迎えることとなったのです。

徳川慶喜が二条城で行った大政奉還

徳川慶喜が二条城で行った大政奉還をSNSでシェアする

「徳川慶喜の基礎知識」の記事を読む


徳川慶喜の趣味・写真撮影とカメラマンのひ孫

徳川慶喜の趣味・写真撮影とカメラマンのひ孫
将軍辞職後、政治の表舞台から姿を消した「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、長い隠棲生活のなかで趣味へと没頭していきます。多芸多才な人物であった徳川慶喜は、あらゆる趣味を持っていましたが、なかでも熱を注いだ趣味が「写真撮影」です。静岡と東京で隠居生活を送るなかで、徳川慶喜は将軍時代から好んでいた写真を通して、外の世界を覗いていました。激動の幕末を駆け抜けた徳川慶喜は、趣味人として静かに暮らした後半生をカメラとともに歩んでいたのです。また、徳川慶喜が愛した写真撮影は、徳川慶喜の血を引くひ孫にも受け継がれました。徳川慶喜が趣味の域を超えて没頭した写真撮影と、隠居生活のなかで撮られた作品のこと、またプロのカメラマンとして活躍した徳川慶喜のひ孫「徳川慶朝」(とくがわよしとも)氏についてご紹介します。

徳川慶喜の趣味・写真撮影とカメラマンのひ孫

徳川慶喜の子孫と家系図をわかりやすく紹介

徳川慶喜の子孫と家系図をわかりやすく紹介
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつである「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)から徳川宗家を相続した人物です。もともと徳川慶喜は、「徳川御三家」のひとつに数えられる「水戸徳川家」(みととくがわけ)の出身でしたが、一橋徳川家へ養子として入っていました。 なぜ徳川慶喜は、御三家、すなわち宗家に次ぐ地位にあった水戸徳川家を出て、一橋徳川家の養子となる必要があったのでしょうか。 また徳川慶喜と言えば、「江戸幕府最後の将軍」といったテーマで語られることの多い人物ですが、実は明治になってから多くの子孫を残しています。 徳川慶喜の血統を受け継いだ子孫は、どのように家系を繋いでいったのか、明治における「徳川慶喜家」を中心に、徳川慶喜の子孫と家系図をご紹介しましょう。

徳川慶喜の子孫と家系図をわかりやすく紹介

徳川慶喜の父「徳川斉昭」と嫁「一条美賀子」

徳川慶喜の父「徳川斉昭」と嫁「一条美賀子」
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府最後の将軍、そして日本最後の征夷大将軍となった人物です。父は「烈公」(れっこう)の異称で知られる水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)で、徳川斉昭は徳川慶喜の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。また、徳川慶喜は10男11女と言う子宝に恵まれたことでも知られており、正室「一条美賀子」(いちじょうみかこ)は多くの子ども達を「自らの子」として育てました。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜を幼少期から厳しく教育してきた父・徳川斉昭とは、どのような人物だったのか。また、正室・一条美賀子の生涯とは、どのようなものだったのか。徳川慶喜と深いかかわりを持つ2人の人物・徳川斉昭と一条美賀子の生涯をご紹介します。

徳川慶喜の父「徳川斉昭」と嫁「一条美賀子」

徳川慶喜のすごい功績とその評価

徳川慶喜のすごい功績とその評価
日本史上の歴史人のなかでも、江戸幕府において「最後の将軍」となった「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、評価が大きく分かれる人物だと言えます。「大政奉還」を行い、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)における最初の合戦「鳥羽・伏見の戦い」では敵前逃亡して江戸幕府を終わらせた「暗君」という悪評がある一方で、江戸の治安を守り日本の近代化に貢献した「名君」だと称える評価も少なくありません。特に、近代以降は徳川慶喜を再評価する傾向にあり、大政奉還後に「江戸無血開城」を行ったことで、血を流さずに新しい国家の創設を進めたことなどが評価されています。幼少期から英明だった徳川慶喜の人物像を振り返り、幕末から明治時代にかけての功績を辿りながら評価が分かれる理由についてご説明すると共に、明治維新後、謹慎していた徳川慶喜が復権に至った経緯や、晩年に趣味人として生きた徳川慶喜の最期についても見ていきます。

徳川慶喜のすごい功績とその評価

徳川慶喜と勝海舟

徳川慶喜と勝海舟
「徳川家康の再来」と称される「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)と、「幕末の三舟」(ばくまつのさんしゅう)のひとりに数えられる知恵者である「勝海舟」は、幕末の歴史において欠かすことのできない人物。時勢を読むことに優れ、非常に頭が切れると言われた2人は共に幕府側の人間で、開国論者でありましたが、根本的な思想の違いにより、お互い嫌いあっていた微妙な関係と言われています。徳川慶喜と勝海舟の関係がどのようなものであったのか見ていきましょう。

徳川慶喜と勝海舟

注目ワード
注目ワード