徳川慶喜の基礎知識

徳川慶喜の子孫と家系図をわかりやすく紹介

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「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)のひとつである「一橋徳川家」(ひとつばしとくがわけ)から徳川宗家を相続した人物です。もともと徳川慶喜は、「徳川御三家」のひとつに数えられる「水戸徳川家」(みととくがわけ)の出身でしたが、一橋徳川家へ養子として入っていました。 なぜ徳川慶喜は、御三家、すなわち宗家に次ぐ地位にあった水戸徳川家を出て、一橋徳川家の養子となる必要があったのでしょうか。 また徳川慶喜と言えば、「江戸幕府最後の将軍」といったテーマで語られることの多い人物ですが、実は明治になってから多くの子孫を残しています。 徳川慶喜の血統を受け継いだ子孫は、どのように家系を繋いでいったのか、明治における「徳川慶喜家」を中心に、徳川慶喜の子孫と家系図をご紹介しましょう。

徳川宗家を相続した徳川慶喜の家系とは

徳川慶喜

徳川慶喜

1837年(天保8年)に、水戸藩9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の子として誕生した徳川慶喜は、幼名を「松平七郎麻呂」(まつだいらしちろうまろ)と名付けられました。

水戸徳川家であるにもかかわらず、なぜ父親とは違う松平姓なのでしょうか。

その理由は、当時の御三家御三卿では、当主と嫡男以外は、徳川姓を名乗ることができず、松平姓を用いることが命じられていたためです。

そののち、父・徳川斉昭から偏諱(へんき:貴人などの2字名のうちの1字)を賜り、「松平昭致」(まつだいらあきむね)と名乗るように。徳川慶喜は、一橋徳川家へ養子に入るまでこの名を使用していました。

1847年(弘化4年)に、江戸幕府の老中「阿部正弘」(あべまさひろ)から、松平昭致を一橋徳川家の養子とする命令が水戸藩(現在の茨城県)へ下ります。当時幕府では、一橋徳川家の血筋である12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の後嗣(こうし)に四男の「徳川家定」がいましたが、幼少期から病弱だったため、その先の将軍後嗣を案じていました。

このような背景により徳川家慶は、自身の後嗣候補として、松平昭致を養子に迎えることを決めたのです。これを受けて松平昭致は、11歳で水戸徳川家を離れ、一橋徳川家の養子となります。そして、将軍・徳川家慶から「慶」の字を授かり、「徳川慶喜」と名乗りました。

徳川宗家・水戸徳川家の家系図

徳川宗家・水戸徳川家の家系図

一説によると、徳川慶喜の一橋徳川家への養子入りは、水戸にいた徳川慶喜の英名(えいめい:優れた評判)を徳川家慶が聞き付けたためだと言われていますが、徳川慶喜が幼い頃から聡明であったとは言え、まだ11歳という子どもの段階で、後嗣にすることを決められるでしょうか。

当時、将軍後嗣候補となる一橋徳川家以外の御三卿や御三家にも、徳川慶喜より年上の当主がいたため、本来ならば彼らが先に候補に挙がるはずです。彼らを差し置いて、徳川慶喜を将軍候補として養子に迎え入れたのは、それなりの理由があったと考えられます。

当時幕府は「攘夷論」(じょういろん:外敵を追い払い、国内に入れないようにする思想)を主張する水戸藩を冷遇しており、藩主の徳川斉昭に隠居謹慎の処分を下していました。しかし、徳川斉昭の改革は全国的に支持され、名声を得ていたのです。

この徳川斉昭に対する幕府からの処罰に疑問を抱く者も多かったため、幕府は、諸大名からの信頼を得るために方針を変えて、徳川慶喜を将軍後嗣とすることで、水戸徳川家との融和を図る対策に出たとも考えられます。

徳川家慶や幕府の本来の意図は明確には分かりませんが、どちらにせよ、徳川慶喜の養子入りは、対外問題を抱える幕府が安定を図るためだったことに間違いはありません。また徳川慶喜が、徳川家康の血を引く直系子孫であったことも理由のひとつとして考えられます。

こうして徳川慶喜は、1866年(慶応2年)に徳川宗家を相続しました。

徳川慶喜は子沢山だった?

徳川慶喜は、将軍就任前の1858年(安政5年)に、正室である「一条美賀子」(いちじょうみかこ)との間に一女を儲けました。しかし、生後すぐに娘は夭折(ようせい:若くして亡くなること)してしまいます。

そののち、徳川慶喜は、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の将軍後見職に就き、長期間にわたって一条美賀子と離れた生活を送ることに。およそ10年間の別居生活を経て、明治維新後に一条美賀子との生活が再開しましたが、一条美賀子との間に子どもを授かることはなかったのです。

一条美賀子との子どもができない一方で、徳川慶喜は、明治時代に抱えた側室の「新村信」(しんむらのぶ)と「中根幸」(なかねさち)との間に21人もの子宝に恵まれました。

新村信は10人、中根幸は11人の子を授かり、合計で10男11女をもうけました。これは歴代の徳川将軍の中でもトップ3に入る子供の数で、すでに将軍を辞してからの子供ですが、徳川慶喜は子沢山な人物だったと言えるでしょう。側室が産んだ子どもは、一条美賀子を生母として育ったと言われています。

このように、徳川慶喜の血を引く大勢の子孫は、全員側室から生まれた子だったのです。正室との間に子が生まれなかったのは、一条美賀子が虚弱体質であったことに加え、若い間に長い別居生活を強いられてしまったことも一因だと考えられます。

長男として扱われた四男「徳川厚」

徳川慶喜と側室のもとに生まれた男児を見てみると、長男から三男までが皆1年ほどで早世しています。

1874年(明治7年)に中根幸との間に生まれた四男「徳川厚」(とくがわあつし)は健やかに成長したため、実質長男として育てられ、55歳まで生きました。

徳川厚は学習院を卒業後、貴族院議員となり、「東明火災保険」(現在の東京海上ホールディングス子会社の日新火災海上保険株式会社)の取締役にも就任しています。1917年(大正6年)に飲酒運転でひき逃げ事件を起こすなど、問題行動のある人物でもありましたが、徳川慶喜同様に多趣味で多才な人物だったと評されてもいるのです。

なお、徳川厚は徳川慶喜が晩年に興した徳川慶喜家当主を継承していないため、嫡流の子ではありません。

五男「池田仲博」の活躍

池田仲博

池田仲博

徳川慶喜の子孫のなかで明治期に活躍した人物と言えば、五男の「池田仲博」(いけだなかひろ)。池田姓を名乗っていることからも分かるように、池田仲博は、徳川家から「池田家」へ婿養子に入りました。

徳川慶喜の異母兄に、鳥取藩(現在の鳥取県)歴代藩主・池田家の養子となった「池田慶徳」(いけだよしのり)という人物がいます。

同藩最後の藩主であった池田慶徳の家系は、その次男「池田輝知」(いけだてるとも)が、1875年(明治8年)に家督を相続して15代当主となったものの、1890年(明治23年)に跡継ぎがいないまま亡くなってしまいました。これに伴い、叔父である徳川慶喜の五男・池田仲博が、池田輝知の次女「池田亨子」(いけだみちこ)と結婚して婿養子となり、鳥取藩主家・池田家当主を継いだのです。

池田家を継いだ池田仲博は、「学習院初等科」在学中に、北海道中川郡の広大な原野を開墾して池田農場を開き、この地の開拓を進めました。さらには「陸軍士官学校」を卒業後、陸軍歩兵少尉に任官され、1902年(明治35年)に貴族院議員となっています。

仁風閣

仁風閣

1907年(明治40年)に池田仲博は、「鳥取城跡」(鳥取県鳥取市)の敷地に、自身の別邸となる洋館を建設。

この洋館は、「皇太子嘉仁親王」(こうたいしよしひとしんのう:のちの「大正天皇」)が山陰地方に来られる際の御宿所としても用いられました。

「仁風閣」(じんぷうかく)と名付けられ、明治期以降には迎賓館としても使用されていたのです。

仁風閣は、1973年(昭和48年)に国の「重要文化財」に指定され、現在も鳥取県の名所として親しまれています。

また池田仲博は、徳川慶喜と同様に俳句を好み、近代俳句の様式を築いた「正岡子規」(まさおかしき)の弟子、「高浜虚子」(たかはまきょし)に指導を受けていました。池田仲博は高浜虚子を食事に招き、俳句好きな父・徳川慶喜とも対面させています。このとき徳川慶喜が、「先生、お酌いたしましょう」と言って、恐縮する高浜虚子に酒を注いだという逸話も残っているのです。池田仲博は、晩年の徳川慶喜とも俳句を通じて交流していたことが分かります。

徳川厚、池田仲博の他に、昭和まで生きた男児は、徳川慶喜家を継いだ七男「徳川慶久」(とくがわよしひさ)、「浅野セメント」(現在の太平洋セメント株式会社)で監査役を務めた九男「徳川誠」(とくがわまこと)、「勝海舟」の養子となった十男「勝精」(かつくわし)がいます。

徳川慶喜家の継承者

明治の始まりと共に明治新政府より謹慎を命じられた徳川慶喜は、静岡で謹慎生活を約1年送りました。1869年(明治2年)に謹慎を解かれたあとも、徳川慶喜はしばらく静岡で隠棲生活を送り、外部との交流を遮断していたように見受けられます。

そして、正室の一条美賀子が亡くなると、1897年(明治30年)に徳川慶喜は東京へ移住し、母方の親族である「有栖川宮威仁親王」(ありすがわのみやたけひとしんのう)を通じて皇族との関係を深めていくことになるのです。

1902年(明治35年)に公爵に叙任され、華族となった徳川慶喜は、徳川宗家から分家して徳川慶喜家を興しました。その後、1910年(明治43年)に家督を七男・徳川慶久に譲り、徳川慶喜は74歳で再び隠居生活に入ります。徳川慶喜家の2代当主・徳川慶久は、家督継承前の1908年(明治41年)に有栖川宮威仁親王の次女「實枝子女王」(みえこじょうおう)と結婚しました。

貴族院議員であった徳川慶久は、父・徳川慶喜に似て聡明で、何でも器用にこなす人物だったと言われています。また、「映画俳優にしてもおかしくはない」と評されるほど眉目秀麗でもあったため、しばしば華族の子女から憧れのまなざしを向けられました。

徳川慶久は實枝子夫人との間に1男4女をもうけ、このうち長男の「徳川慶光」(とくがわよしみつ)が徳川慶喜家の継承者となっています。

1922年(大正11年)に徳川慶久が急死したことで、徳川慶光は10歳で徳川慶喜家を継ぐこととなりました。

徳川慶光は、大学時代に中国哲学を専攻し、卒業後に国家の書物を管理する宮内省図書寮(くないちょうずしょりょう)に勤務します。1938年(昭和13年)に会津松平家12代当主の娘「徳川和子」と結婚。戦後に華族制度が廃止されると、徳川慶光は高額な財産税を支払うために、徳川慶喜時代から住み続けてきた邸宅を国に物納します。そして静岡や東京を転々としたのち、徳川慶久の家族は1972年(昭和47年)に東京都町田市の建売住宅へ転居。その後、徳川慶喜家は徳川慶久の長男が継承しましたが、子孫を残さず亡くなったため、平成に断絶することとなりました。

井出久美子氏が徳川慶喜家に関する本を出版

明治維新から150周年となった2018年(平成30年)、徳川慶喜の孫である「井出久美子」氏が徳川慶喜家の生活をつづった自叙伝を出版。この自叙伝は、孫娘の目線で徳川慶喜家が描かれており、戦前まで住んでいた約3,000坪の広大な敷地での暮らしや、夫との死別、戦後に一変した日常生活など、井出久美子氏の波乱万丈な人生が記されています。

井出久美子氏は、1922年(大正11年)に徳川慶久の四女として誕生し、1901年(明治34年)から徳川慶喜が住処としていた東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日)の邸宅で育ちました。広大な敷地に建てられた邸宅には、家族を含め50人もの同居人がいたと言われています。

母は有栖川宮の實枝子女王で、姉は「大正天皇」の第3皇子である「高松宮宜仁親王」(たかまつのみやのぶひとしんのう)の妃となった「宜仁親王妃喜久子」であり、井出久美子氏は皇族と深くかかわる家系の中にいました。当時は、井出久美子氏自身もお姫様のような存在だったのでしょう。

祖父・徳川慶喜が亡くなった9年後に誕生したため、井出久美子氏は徳川慶喜に直接会ったことはありませんが、当時の徳川慶喜家では家族の日常の中に徳川慶喜が生き続けていたと語られています。

少女時代から明るく活発だった井出久美子氏は、華族でありながら、おてんばだった日常を送っていたことから、自叙伝のタイトルを「徳川おてんば姫」と題しました。「徳川おてんば姫」は、徳川慶喜の孫娘によって語られる徳川慶喜家の歴史や、当時の生活を写真と共に振り返ることができる貴重な1冊となっています。

徳川慶喜の子孫と家系図をわかりやすく紹介

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