徳川家を支えた武将

徳川宗春

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尾張徳川家のなかで、最も象徴的な人物として知られるのが、「徳川宗春」(とくがわむねはる)です。「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県)7代藩主である徳川宗春は、当時、江戸で行われていた「質素倹約」(しっそけんやく:節約して生活すること)の政策に真っ向から反対し、尾張独自の斬新な開放政策を行ったことで知られています。徳川宗春自身も奇抜な衣装を好み、派手に遊ぶ傾奇者(かぶきもの)であったため、その人柄と藩政から尾張徳川家の異端者として語られてきた人物。徳川宗春は自由奔放な性格のため、一見暗君と思われがちですが、現代に続く名古屋文化の礎を築いた尾張藩の名君でもあります。江戸に対抗しながら尾張を繁栄させた、徳川宗春について見ていきましょう。

徳川宗春の誕生

徳川宗春

徳川宗春

「徳川宗春」(とくがわむねはる)は、「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県)の3代藩主「徳川綱誠」(とくがわつななり)の二十男として、1696年(元禄9年)に名古屋で誕生しました。

幼名は「萬五郎」と名付けられ、のちに実兄で尾張藩4代藩主「徳川吉通」(とくがわよしみち)の名から「通」を継承し、「通春」(みちはる)と改称。兄の徳川吉通は、歳の離れた末弟である徳川宗春を、特に可愛がっていたと言われています。

兄弟が多い家の二十男として生まれた徳川宗春は、1713年(正徳3年)に江戸へ渡り、青少年期を部屋住(へやずみ:家督相続前の嫡男。または、次男以下で分家・独立せず、親や兄の家に留まっていること)として過ごしました。この頃、徳川宗春は元服して「徳川求馬」(とくがわもとめ)と名乗っていたと言われています。

1729年(享保14年)に、支家である「陸奥国梁川藩」(むつのくにやながわはん:現在の福島県伊達市梁川町)松平家が藩主「松平吉真」(まつだいらよしざね)の死去により改易(かいえき:領地、家禄、屋敷などを没収されること。松平吉真には正室、跡取りがいなかった)となったため、宗家である「尾張徳川家」の徳川宗春が、梁川藩30,000石を与えられることに。徳川宗春は、「松平求馬」として梁川藩主となり、松平家を再興したのです。

尾張藩主を継いだ徳川宗春

一方で、尾張徳川家では不幸が続き、4代藩主・徳川吉通、5代藩主「徳川五郎太」(とくがわごろうた)が立て続けに急死してしまいます。

さらに、1730年(享保15年)に6代藩主となった兄「徳川継友」(とくがわつぐとも)も39歳で急逝すると、徳川継友は遺言で弟の徳川宗春を後継者に指名。こうして徳川宗春は宗家へ戻り、尾張藩7代藩主を継ぐこととなりました。

尾張藩主になる際、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)から名を授かり、徳川求馬から徳川宗春に改名。尾張藩主・徳川宗春として、初めて名古屋入りしたときには、派手な衣装の行列を引き連れ、徳川宗春自身も、鼈甲製(べっこうせい)の唐人傘(とうじんがさ)を被り、全身に足袋まで黒尽くめの衣装(金縁で内側は赤)をまとい、煙管(きせる:喫煙具)を咥え、漆黒の馬に乗るという奇抜な出で立ちで登場。領民達を驚かせました。

徳川宗春の前代で兄の6代藩主・徳川継友も、奇行癖のある人物だと言われていたため、徳川宗春も兄から受け継いでいたのでしょう。そして、この徳川宗春の特異な性格は、尾張藩にも影響を与えていくこととなります。

独自政策で名古屋を繁栄させる

徳川宗春の藩政は、当時、江戸幕府が打ち立てていた「享保の改革」(きょうほうのかいかく)による質素倹約(しっそけんやく:節約して生活すること)・規制強化(きせいきょうか:芝居小屋や遊郭といった、庶民の娯楽風俗に対して、縮小や廃止を命じる強い規制)の流れと正反対の方針でした。

徳川宗春は、藩士に配布した自著「温知政要」(おんちせいよう)で、「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめることになる」「規制を増やしても違反者を増やすだけ」と主張。幕府の緊縮財政による経済停滞を批判し、開放政策による規制緩和を促していったのです。

徳川宗春時代の華やかな名古屋

徳川宗春時代の華やかな名古屋

このような徳川宗春による尾張藩独自の政策によって、「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)下では縮小・廃止傾向にあった芝居小屋や遊郭などの遊興施設などが拡大することに。

商人達は活気を取り戻し、庶民の楽しみも増えたことで、名古屋の町は急激に賑わいを見せることとなりました。

当時の名古屋の繁栄ぶりは、「名古屋の繁華に[興]がさめた」と噂されるほどで、「名古屋は芸どころ」と呼ばれるようになったのも、このときの徳川宗春の政策がきっかけとなっているのです。

また、徳川宗春は「庶民と上級藩士の出会いの場」を設け、「犯罪者を死刑以外の方法で罰する」など、当時としては異例の政策を次々と実行していきました。例えば、徳川宗春は参勤交代で江戸に下っていた1732年(享保17年)5月、嫡男「國丸」の初節句の際、尾張藩祖「徳川義直」(とくがわよしなお)が「徳川家康」から拝領した幟旗(のぼりはた)と、國丸の武者飾りを多くの人に見てもらうために、自分が暮らしている江戸上屋敷市谷邸(東京都新宿区市谷本村町。現在の防衛省庁舎)を、江戸町民に開放して招き入れたのです。

またあるときは、遊女と心中をしようとした畳職人の男に対し、野ざらしにはしたが、そののち夫婦として普通に生活することを許しました。この当時、幕府は心中未遂も死罪としていたのです。犯罪の増加に対して、徳川宗春は見回りを強化して対策を採り、罪人も死刑ではなく、髪や眉を剃るなどの処分を行いました。

その結果、尾張藩では徳川宗春の治世の間にひとりも死刑は行われなかったのです。このような独自政策で、幕府の政策に真っ向から立ち向かっていった藩主は、江戸時代において徳川宗春ただひとりだったと言われています。

自由過ぎた徳川宗春の末路

庶民を楽しませるために独自路線を走ってきた徳川宗春ですが、次第にその藩政に陰りが見えてきます。規制緩和された名古屋城下では、町が繁栄する一方で度重なる浪費による深刻な藩財政の窮乏と、武芸や家業をおろそかにして争いを起こす者や、生活が困窮する者が増えるなど、風俗悪化を招くことに。

次第に藩内でも反発が広がり、家老達は徳川宗春の藩政を批判するようになりました。徳川宗春も家臣に対して、遊郭や芝居小屋への徘徊を禁じるなど対応をしましたが、それだけでは間に合わない状況になっていたのです。

本丸御殿と名古屋城天守

本丸御殿と名古屋城天守

不満を抱えた家老達は、幕府と結託して徳川宗春を失脚に追い込む計画を謀ります。

1738年(元文3年)6月、徳川宗春が参勤交代で江戸に赴いていた留守を狙い、尾張藩・御附家老(おつけがろう:将軍から直接命令され家老となった者)「竹腰正武」(たけのこしまさたけ)を中心とした家老達が、藩主徳川宗春の藩政実権すべてを奪ったのです。

そして、1739年(元文4年)に徳川宗春は、幕府から蟄居謹慎を命じられてしまうことに。

こうして、徳川宗春は家臣の反乱によって尾張藩を追放される形となり、家督を尾張藩2代藩主「徳川光友」(とくがわみつとも)の子「松平宗勝」(まつだいらむねかつ)に譲り隠居します。徳川宗春は名古屋城三の丸の屋敷で隠居生活を送り、1764年(明和元年)に亡くなりました。

名古屋で感じる徳川宗春の軌跡

徳川宗春の死後、遺体は尾張徳川家の菩提寺である「建中寺」(けんちゅうじ:愛知県名古屋市東区)で埋葬されました。そののち、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦による名古屋空襲で、徳川宗春の墓石に焼夷弾が直撃し、一部が破損。戦後、墓を「平和公園」(愛知県名古屋市千種区)へ移転し、時を経て、2010年(平成22年)に有志によって徳川宗春の墓碑が修復されました。現在も名古屋の平和公園では、徳川宗春の墓碑を拝むことができるのです。

からくり人形「宗春爛漫」

からくり人形「宗春爛漫」

また、現在の名古屋繁華街・大須にも、徳川宗春を感じられるスポットがあります。

日本三大観音のひとつに数えられる「大須観音」(愛知県名古屋市中区)の境内には、徳川宗春をモデルにしたからくり人形「宗春爛漫」が設置されているのです。

徳川宗春は、かつて、大須を繁華街として発展させたこと、そして、大須が現在も庶民から愛される町であることから、この地に建設されたと言われています。

派手な衣装と大きな煙管(きせる)を持った徳川宗春を模したからくり人形の登場は、1日に数回公演が行われているので、大須観音に参拝の際に見学してみてはいかがでしょうか。

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