戦国武将の生涯

丹羽長秀の武将年表
 - 刀剣ワールド

文字サイズ

丹羽長秀(にわながひで)は青年期から織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)と並ぶ織田家家臣団の双璧として織田信長が目指す天下統一の夢を支えました。織田信長とは年齢も近く、早くからその寵愛を受け「友であり、兄弟である」と言わしめるほどの関係にあったのです。また丹羽長秀は合戦における戦略以外でも造船、築城といった内政面で手腕を発揮し、武勇と智略に優れ、近江国の要衝・佐和山城(さわやまじょう:滋賀県彦根市)の城主を務めています。
織田信長亡きあとは、清洲会議(きよすかいぎ)を経て若狭(現在の福島県西部)一国と近江国高島(現在の滋賀県高島市)、及び滋賀(現在の滋賀県大津市)を領有。豊臣秀吉や柴田勝家らと共に織田家を支え、武田勝家を破った賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)でも武功を挙げ、北ノ庄城(きたのしょうじょう:福井県福井市)の城主となりました。
そんな丹羽長秀は、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)普請の際、その功績を織田信長より認められ、珠光茶碗(じゅこうちゃわん)を賜っています。しかし、理由は定かではありませんが珠光茶碗は後日、織田信長に召し上げられてしまったのです。その代わりに授かった刀が、鎌倉時代の刀工「長光」(ながみつ)による、鉋切長光(かんなぎりながみつ)と号する小太刀(こだち)でした。この刀は、近江国の守護大名であった六角義賢(ろっかくよしかた)が所有していましたが、1568年(永禄11年)、織田信長が六角義賢を降した(くだした)際に召し上げたと伝えられており、そのあと丹羽長秀のもとへ渡ったと考えられています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1535年(天文4年) 1
丹羽長政(にわながまさ)の次男として、尾張国・春日井郡(現在の愛知県名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は、代々尾張国(現在の愛知県西部)の守護・斯波氏(しばし)に仕えた豪族で、斯波氏に代わって台頭していた織田家に従属していた。
1551年(天文20年) 17
父の死後、小姓(こしょう)として、1歳年上であった織田信長に仕える。
1555年(天文24年/
弘治元年)
21
織田信長が敵対する織田信賢(おだのぶかた)の居城・岩倉城(いわくらじょう:愛知県岩倉市)攻めに従軍。包囲戦の末に勝利を収め、尾張国統一を果たす。
1560年(永禄3年) 26
駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)・今川義元(いまがわよしもと)が尾張へ侵攻。丹羽長秀は、迎え撃つ桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)における活躍により、織田信長から厚い信頼を得る。
1563年(永禄6年) 29
織田信長の仲立ちで、織田信長の養女・桂峯院(けいほういん:織田信長の兄にあたる織田信広[おだのぶひろ]の娘)と結婚。
1567年(永禄10年) 33
斎藤家の居城・稲葉山城(いなばやまじょう:岐阜県岐阜市)攻めに参戦。城主・斎藤龍興(さいとうたつおき)を敗走させ、織田信長は美濃国(現在の岐阜県南部)を平定し、稲葉山城を岐阜城と改名。丹羽長秀はこれら一連の戦いで武功を重ね、織田信長の重臣としての地位を確立。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
36
徳川家康の支援を得た織田軍と、近江国・浅井長政(あざいながまさ)と朝倉家の連合軍が、姉川の戦いで激突。
浅井家家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)が守る佐和山城を包囲した。
1571年(元亀2年) 37
8ヵ月に及ぶ佐和山城の戦いが、磯野員昌の投降により終決。磯野員昌の代わりに、丹羽長秀が同城の城主となる。
1573年(元亀4年/
天正元年)
39
朝倉義景(あさくらよしかげ)を討伐するために勃発した一乗谷の戦い(いちじょうだにのたたかい)において、織田信長の命令により、朝倉義景の母と世子・愛王丸を捜索して処刑。滅亡した朝倉家に代わり若狭一国を拝領し、一帯を支配することに。これにより丹羽長秀は、織田家家臣最初の国持大名となる。
織田信長の命を受け、佐和山城近くで巨大軍船を建造。織田信長はこれに乗り琵琶湖上から一気に上洛。室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が籠城した、二条城京都府京都市中京区)や槇島城(まきしまじょう:京都府宇治市)を陥落させ、室町幕府を崩壊させる。
1579年(天正7年) 45
但馬国(現在の兵庫県北部)の羽柴秀長(のちの豊臣秀長)と共に、丹波国(現在の京都府中部、及び兵庫県北東部)へ侵攻。氷上城(ひかみじょう:兵庫県丹波市)の城主であった波多野宗長(はたのむねなが)が、自ら城に放火し自刃した。
1581年(天正9年) 47
織田信長の命により、木舟城(きふねじょう:富山県高岡市)の城主・石黒成綱(いしぐろなりつな)を近江で謀殺。
願海寺城(がんかいじじょう:富山県富山市)の城主・寺崎盛永(てらさきもりなが)父子らを佐和山城に幽閉、切腹させる。京都で行われた織田信長の馬揃えでは、明智光秀柴田勝家といった重臣を差し置き、先頭で入場する厚遇を受ける。柴田勝家と並ぶ織田家家臣の双璧と呼ばれていた。
1582年(天正10年) 48
織田信長の命を受け、織田信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)が総大将を務める、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)討伐軍に加わる。四国へ向かう途上であった大坂にて、本能寺の変の勃発を知る。織田信孝を補佐し、明智光秀の娘婿・津田信澄(つだのぶずみ)を殺害。
山崎の戦いでは、織田信孝と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)軍に従い、明智光秀を討つ。清洲会議では、羽柴秀吉が織田信長の後継者に推す織田信長の嫡孫・三法師(さんぽうし)を支持。羽柴秀吉による織田家の事業継続を認める形となった。
1583年(天正11年) 49
羽柴秀吉が柴田勝家を討った賤ヶ岳の戦いでも、羽柴秀吉を援護。戦後、若狭国や越前国(現在の福井県北東部)、加賀国(現在の石川県南部)2郡を与えられ、約123万石を領する全国有数の大名となる。
1585年(天正13年) 51
4月16日、積寸白(せきすばく:サナダムシによる寄生虫病)のため死去。

丹羽長秀の武将年表

丹羽長秀の武将年表をSNSでシェアする

「戦国武将の生涯」の記事を読む


土岐頼芸の武将年表

土岐頼芸の武将年表
「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。最後は旧臣「稲葉一哲」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

土岐頼芸の武将年表

那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

那須与一の武将年表

朝倉義景の武将年表

朝倉義景の武将年表
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

朝倉義景の武将年表

結城秀康の武将年表

結城秀康の武将年表
結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の次男の立場にありながら、数奇な運命を辿った戦国武将です。元服を果たす前に、豊臣秀吉のもとへ養子に出されましたが、豊臣家の後継者が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に決まると、今度は下総国(千葉県北部、及び茨城県南西部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となります。天下人の家系に生まれながら、流転の境涯(きょうがい:この世で置かれている立場、身の上)にあったのです。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、権中納言(ごんちゅうなごん)にまで昇進しますが、34歳の若さで病没してしまいます。 結城秀康は名刀を数多く所有し、そのなかでも南北朝時代の名工・郷義弘(ごうよしひろ)による「稲葉郷」(いなばごう)は、上杉討伐の際、上杉軍の抑えとして、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に留まる結城秀康へ、徳川家康が秘蔵の采配(さいはい:戦場において、兵士達を指揮するために大将が手にして振っていた武具)と共に託した1振。結城秀康亡きあとも、代々、越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の家宝として受け継がれ、のちに作州松平家(さくしゅうまつだいらけ)へと伝えられています。この他にも結城秀康は、童子切安綱(どうじぎりやすつな)や石田正宗(いしだまさむね)など、名立たる日本刀を所有していました。

結城秀康の武将年表

石田三成の武将年表

石田三成の武将年表
近江国(現在の滋賀県)に生まれた石田三成は、幼い頃から天下人・豊臣秀吉の右腕として活躍したことで知られています。豊臣政権下では司法や行政を担当し、知将として貢献しました。豊臣秀吉の代名詞でもある「太閤検地」は、全国を駆けまわった石田三成の脚と頭で遂げた実績です。 不公平を嫌った、真面目な石田三成の人柄を示す逸話には事欠きません。猛将・島左近(しまさこん)を召し抱えるにあたっての禄高は、なんと自身と同じ額。豊臣秀吉が石田三成の心配りを評価して家来にすることを決めた「三献の茶」(さんこんのちゃ)や、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)との友情を物語る茶会など、数多くの逸話が挙げられます。 その優れた頭脳をもって、豊臣秀吉と共に天下統一の夢を追いかけた石田三成でしたが、天下の覇者となるべく、徳川家康が台頭してきた時勢には抗うことができませんでした。なお、石田三成の愛刀であった「石田正宗」は、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に贈られています。

石田三成の武将年表

高山右近の武将年表

高山右近の武将年表
高山右近(たかやまうこん)は、キリシタン大名として知られる戦国武将。家を守る当主の立場と、信仰との狹間で悩みながらも生涯に亘り深くキリスト教に傾倒しました。領民が亡くなれば自ら棺を担ぎ民衆に慕われ、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)城下に、セミナリヨ(イエズス会主宰の一般教育機関)を建設するため織田信長と交渉するなど、西洋文化や教育の普及にも尽力。蒲生氏郷(がもううじさと)や黒田官兵衛(くろだかんべえ)、牧村政治(まきむらまさはる)などの錚々たる武将達も、高山右近の影響により洗礼を受けています。 晩年は、江戸幕府が発した禁教令の弾圧から逃れるためフィリピンへ亡命。スペイン国王の名のもとに国賓待遇の歓待を受けますが、上陸から40日後熱病に冒され亡くなります。その装束は妻により整えられ、純白の鎧直垂、折烏帽子、枕元には愛用の太刀と兜、胸元には十字架という姿で聖アンナ教会において執り行われた葬儀では、10日間に亘り祈りが捧げられました。

高山右近の武将年表

佐々成政の武将年表

佐々成政の武将年表
佐々成政(さっさなりまさ)は10代の頃より織田信長に仕え、黒母衣衆(くろほろしゅう:織田信長の親衛隊)の筆頭として戦功を挙げます。特に鉄砲への造詣は深く、鉄砲部隊において1列目が銃弾を発射している最中に、2列目が銃弾を装填しておくことで交互に繰り出し連射する二段撃ちの戦法を編み出しました。長篠の戦い(ながしののたたかい)に象徴される織田信長軍の鉄砲隊による戦果は、大きな功績を残しています。 また佐々成政は、柴田勝家の与力(よりき:侍大将などの上級家臣に属していた武士)として越中国(現在の富山県)の大名となるも、本能寺の変をきっかけに豊臣秀吉と対立。そんななか織田信雄(おだのぶかつ)と共に豊臣秀吉と対峙していたはずの徳川家康が、豊臣秀吉と和睦を結んだことを知った佐々成政は、徳川家康に意見を申し出るため厳冬期の立山連峰を命懸けで越えることに。これが後世で「さらさら越え」と称される逸話です。しかし佐々成政は最終的に孤立し領地の多くを失ってしまいます。豊臣秀吉との確執はそのあとも続き、肥後国(現在の熊本県)の大名として行った性急な検地が、肥後国人一揆を誘発。同国における統治の失態を豊臣秀吉から責められ無念の最期を遂げました。

佐々成政の武将年表

織田信秀の武将年表

織田信秀の武将年表
「織田信秀」(おだのぶひで)は、天下人「織田信長」の父親であり、自身も「尾張の虎」(現在の愛知県西部)と称された戦国武将です。時代はまさに群雄割拠、下剋上の時代。 織田信秀は、父親の「織田弾正忠信定」(おだだんじょうのちゅうのぶさだ)から受け継いだ経済基盤と知略を武器に、勢力拡大を図ります。駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)や美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)と何度も交戦。 尾張国の完全支配は叶いませんでしたが、その夢は織田信長へと受け継がれていきました。

織田信秀の武将年表

注目ワード
注目ワード