歴史上の実力者

立花道雪 ~時には主君をも諌めた武将~

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キリシタン大名として知られ、最盛期には豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の九州6ヵ国にまで勢力を拡大した「大友宗麟」(おおともそうりん)。その活躍の影には有能なナンバー2、「立花道雪」(たちばなどうせつ)の存在がありました。戦では無敗を誇り、立花道雪の目の黒いうちは、島津氏や龍造寺氏も簡単に大友領へは侵攻できなかったほど。けっして主君を裏切ることなく戦に明け暮れ、死してなお義を貫き通した名参謀です。

大友宗麟をナンバー1の座に導いた立花道雪

  • 立花道雪
    立花道雪
  • 大友宗麟
    大友宗麟

大友宗麟」(おおともそうりん)のナンバー2となる「立花道雪」(たちばなどうせつ)は、1513年(永正10年)に大友氏の支流の戸次氏当主、「戸次親家」(べっきちかいえ)の嫡男として生まれました。

1526年(大永6年)に戸次親家が亡くなり家督を継ぐと、立花道雪は大友宗麟の父である「大友義鑑」(おおともよしあき)に仕えるようになります。「臼杵鑑速」(うすきあきはや)や「吉弘鑑理」(よしひろあきまさ)と並び、大友氏の全盛期を支えた家臣のなかでも特に優秀な家臣「豊州三老」(ほうしゅうさんろう)のひとりとして活躍しました。

もとの名前は「戸次鑑連」(べっきあきつら)と言い、1571年(元亀2年)に立花山城(現在の福岡県福岡市)の城主となったことから、没後、立花道雪と呼ばれるようになりました。

一方、ナンバー1の大友宗麟が生まれたのは、室町時代後期の1530年(享禄3年)のこと。大友義鑑の嫡男として生まれましたが、大友義鑑が側室の子である三男「大友塩市丸」(おおともしおいちまる)を後継にしたいと言い出したため、大友宗麟派の家臣らは大反発。

1550年(天文19年)に大友義鑑や大友塩市丸が大友館の2階で寝ているところを襲撃し、殺害してしまいます。この「二階崩れの変」(にかいくずれのへん)と呼ばれるお家騒動のあと、21代当主として大友宗麟に家督を継がせ、生涯サポートし続けたのが立花道雪です。

ちなみに、キリシタン大名としても知られている大友宗麟がキリスト教の洗礼を受けたのは、1577年(天正5年)、47歳の頃。洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗りました。

大友宗麟がキリスト教に傾倒したことが、のちに立花道雪を悩ませることになります。

毛利氏の九州進出を阻んだ百戦錬磨のナンバー2

弱冠14歳で志願した初陣で、2,000人の兵を率いて「馬ヶ岳城」(うまがだけじょう:現在の福岡県行橋市)を攻め、5,000人の兵で迎え討った「大内義隆」(おおうちよしたか)の軍から降伏同然の和睦を引出すなど、戦の天才ぶりを発揮した武勇の誉れ高き立花道雪。

九州進出を目論む毛利氏との約10年に及ぶ抗争や北九州の諸勢力との覇権争いを歴戦し、その出陣数は大戦37回、小戦は100余り。無敵の強さを誇り、立花道雪が大将を務めた戦は無敗だったと言います。

立花道雪の名は遠く東国まで轟き、「甲斐の虎」と呼ばれた名武将武田信玄」(たけだしんげん)も立花道雪との面会を楽しみにしていたと伝わります。

福岡県柳川市の「立花家史料館」には立花道雪が所有していたとみられる刀「雷切丸」(らいきりまる)が所蔵されており、このと立花道雪にまつわる逸話が語り継がれています。

雷切丸

雷切丸

立花道雪が35歳頃のある夏の日のこと、大きな木の下で昼寝をしていると急に天候が崩れてきました。雷が自分めがけて落ちてくるのを察した立花道雪は、素早くそばにあった愛刀「千鳥」を手に取り、雷に切りかかっていったのだとか。

このことで立花道雪は下半身不随になりますが物ともせず、戦では鉄砲と雷切丸を携え輿に乗って最前線で戦い、次々と武功を立ていきます。敵の中に身を投じるという立花道雪のすさまじい姿から、いつしか人々は「雷神」「鬼立花」と呼んで畏敬したと言います。

ときには主君も叱り付けるナンバー2

17歳年の離れた大友宗麟と立花道雪の関係は師弟にも似たものだったのかもしれません。立花道雪が大友宗麟を諌めるエピソードが数多く残されています。

大友宗麟がまだ若かりし頃のこと、酒と女に溺れて政治に身が入らない時期があったのだとか。立花道雪はこれを諫めようとしますが、叱られることを察した大友宗麟はなかなか立花道雪に寄り付こうとしません。そこで一計。立花道雪は京都から踊り子を招いて日夜宴会を催したのだとか。大友宗麟は女性好きとして有名。その噂を聞き付けると、まんまと姿を現しました。そして立花道雪が涙ながらにとうとうと説得すると、大友宗麟もこれに応えて政治に本腰をいれるようになったと言います。

このとき踊り子が踊っていたのが、大分県大分市鶴崎地区に伝わる「鶴崎おどり」。国の無形文化財に指定されています。

この他にも、家臣に悪戯をする大友宗麟が飼っていた凶暴な猿を鉄扇で叩き殺して説教したり、侵略地の神社仏閣を破壊してしまうほどの大友宗麟のキリスト教への耽溺っぷりを諌めたり、主君にとっては耳が痛いことも立花道雪は躊躇することなく諫言しました。

今日の歴史上で、大友宗麟はヨーロッパでは王と呼ばれ、「織田信長」よりも有名だったと言われています。南蛮貿易を積極的に行い、天正遣欧少年使節を派遣したり、日本初の総合病院や育児院、学校を建設したり、名君として語られることが多くありますが、それもナンバー2の立花道雪の存在あってこそだったのではないでしょうか。

最後まで主君のために戦ったナンバー2

1553年(天文22年)、立花道雪は41歳で家督を養子の「戸次鎮連」(べっきしげつら)に譲って隠居します。しかし、隠居と言っても形だけのようなもの。立花道雪の戦人生は終わることはありませんでした。翌年1554年(天文23年)には肥後(現在の熊本県)に侵攻し、「菊池義武」(きくちよしたけ)を滅ぼすと、そのあとも毛利氏との戦を続けました。

1578年(天正6年)になると、大友宗麟と薩摩国の「島津義久」(しまづよしひさ)が戦った「耳川の戦い」(みみかわのたたかい)が勃発。立花道雪は島津義久と戦うことに反対しましたが、大友宗麟はこれを強行。大敗を喫し、有力な家臣の多くを失ってしまいました。

この戦に従軍していなかった立花道雪は、主君の大友宗麟や軍監を務めていた「志賀親守」(しがちかもり)らを痛烈に批判しましたが、けっして離反することはありませんでした。このとき立花道雪は65歳。これ以降、1585年(天正13年)に72歳でなくなる直前まで島津氏とのギリギリの攻防は続きます。

ちなみに「道雪」という名前は、1562年(永禄5年)に大友宗麟とともに出家した際に得た法号。道に落ちた雪のように、武士は最後まで主君のために尽くし抜くという決意が込められています。

この法号を体現するかのように、立花道雪は「私が死んだら屍に甲冑を着せ、高良山の好奸己の岳[よしみのおか]に、柳川の方に向けて埋めよ。この命に背けばわが魂は必ず祟りをなすであろう」と遺言して死んでいったのだとか。陣中での病死でした。

立花宗茂

立花宗茂

死んでもなお主君のために戦い続けようとした立花道雪でしたが、立花道雪のひとり娘「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)の婿養子である「立花宗茂」(たちばなむねしげ)と家臣達は、「道雪様ひとりを敵地に残して帰るわけにはいかない。道雪様の祟りなら本望」と、遺体を携えて撤退します。

その間、対峙する島津・秋月両軍は、誰ひとりとして追撃することはなく、なかには死を悼む姿さえありました。

立花道雪は主君だけでなく家臣、さらには宿敵にまで信頼されるナンバー2だったのです。その証拠に、立花道雪亡きあと大友氏は衰退の一途をたどることになります。

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