戦国武将の生涯

高山右近の武将年表
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高山右近(たかやまうこん)は、キリシタン大名として知られる戦国武将。家を守る当主の立場と、信仰との狹間で悩みながらも生涯に亘り深くキリスト教に傾倒しました。領民が亡くなれば自ら棺を担ぎ民衆に慕われ、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)城下に、セミナリヨ(イエズス会主宰の一般教育機関)を建設するため織田信長と交渉するなど、西洋文化や教育の普及にも尽力。蒲生氏郷(がもううじさと)や黒田官兵衛(くろだかんべえ)、牧村政治(まきむらまさはる)などの錚々たる武将達も、高山右近の影響により洗礼を受けています。
晩年は、江戸幕府が発した禁教令の弾圧から逃れるためフィリピンへ亡命。スペイン国王の名のもとに国賓待遇の歓待を受けますが、上陸から40日後熱病に冒され亡くなります。その装束は妻により整えられ、純白の鎧直垂、折烏帽子、枕元には愛用の太刀と兜、胸元には十字架という姿で聖アンナ教会において執り行われた葬儀では、10日間に亘り祈りが捧げられました。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1552年(天文21年) 1
摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照(たかやまともてる)の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇(うだてんのう)を父に持つ敦実親王(あつみしんのう)の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
1564年(永禄7年) 13
父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎(ろれんそりょうさい)と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
1568年(永禄11年) 17
織田信長の強力な軍事力による庇護のもと、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の命により、高槻城(たかつきじょう:大阪府高槻市)に和田惟政(わだこれまさ)が派遣される。これに伴い、高山友照・高山右近親子は、和田氏に仕えることとなる。
1571年(元亀2年) 20
白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)において和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長(わだこれなが)による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/
天正元年)
22
荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1578年(天正6年) 27
主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)へと発展。
1579年(天正7年) 28
有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔(はりつけ)にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣(かみこ)一枚で、単身織田信長のもとへ投降。
その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡(あくたがわぐん)を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
1580年(天正8年) 29
織田信長が、安土城城下に諸将のための邸宅を建築。高山右近にも授与される。
1581年(天正9年) 30
織田信長の使者として、鳥取城鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年) 31
甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒(せんぽう)を務め、明智光秀軍を破る。
1583年(天正11年) 32
柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、豊臣家の勝利に貢献する。
1584年(天正12年) 33
徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と、豊臣軍が対峙した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。
1585年(天正13年) 34
歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城(ふなげじょう)を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
1587年(天正15年) 36
6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。
最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
1600年(慶長5年) 49
関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)では東軍に属し、丹羽長重(にわながしげ)を撃退する。
1609年(慶長14年) 58
高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当。
1614年(慶長19年) 63
キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
1615年(慶長20年/
元和元年)
64
前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
2016年(平成28年)
バチカン市国にあるローマ教皇庁から、福者(ふくしゃ:没後、その聖性と徳を認められた信者に与えられる称号)に認定される。

高山右近の武将年表

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土岐頼芸の武将年表

土岐頼芸の武将年表
「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。最後は旧臣「稲葉一哲」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

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那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

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朝倉義景の武将年表

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朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

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結城秀康の武将年表

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結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の次男の立場にありながら、数奇な運命を辿った戦国武将です。元服を果たす前に、豊臣秀吉のもとへ養子に出されましたが、豊臣家の後継者が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に決まると、今度は下総国(千葉県北部、及び茨城県南西部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となります。天下人の家系に生まれながら、流転の境涯(きょうがい:この世で置かれている立場、身の上)にあったのです。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、権中納言(ごんちゅうなごん)にまで昇進しますが、34歳の若さで病没してしまいます。 結城秀康は名刀を数多く所有し、そのなかでも南北朝時代の名工・郷義弘(ごうよしひろ)による「稲葉郷」(いなばごう)は、上杉討伐の際、上杉軍の抑えとして、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に留まる結城秀康へ、徳川家康が秘蔵の采配(さいはい:戦場において、兵士達を指揮するために大将が手にして振っていた武具)と共に託した1振。結城秀康亡きあとも、代々、越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の家宝として受け継がれ、のちに作州松平家(さくしゅうまつだいらけ)へと伝えられています。この他にも結城秀康は、童子切安綱(どうじぎりやすつな)や石田正宗(いしだまさむね)など、名立たる日本刀を所有していました。

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石田三成の武将年表

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近江国(現在の滋賀県)に生まれた石田三成は、幼い頃から天下人・豊臣秀吉の右腕として活躍したことで知られています。豊臣政権下では司法や行政を担当し、知将として貢献しました。豊臣秀吉の代名詞でもある「太閤検地」は、全国を駆けまわった石田三成の脚と頭で遂げた実績です。 不公平を嫌った、真面目な石田三成の人柄を示す逸話には事欠きません。猛将・島左近(しまさこん)を召し抱えるにあたっての禄高は、なんと自身と同じ額。豊臣秀吉が石田三成の心配りを評価して家来にすることを決めた「三献の茶」(さんこんのちゃ)や、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)との友情を物語る茶会など、数多くの逸話が挙げられます。 その優れた頭脳をもって、豊臣秀吉と共に天下統一の夢を追いかけた石田三成でしたが、天下の覇者となるべく、徳川家康が台頭してきた時勢には抗うことができませんでした。なお、石田三成の愛刀であった「石田正宗」は、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に贈られています。

石田三成の武将年表

丹羽長秀の武将年表

丹羽長秀の武将年表
丹羽長秀(にわながひで)は青年期から織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)と並ぶ織田家家臣団の双璧として織田信長が目指す天下統一の夢を支えました。織田信長とは年齢も近く、早くからその寵愛を受け「友であり、兄弟である」と言わしめるほどの関係にあったのです。また丹羽長秀は合戦における戦略以外でも造船、築城といった内政面で手腕を発揮し、武勇と智略に優れ、近江国の要衝・佐和山城(さわやまじょう:滋賀県彦根市)の城主を務めています。 織田信長亡きあとは、清洲会議(きよすかいぎ)を経て若狭(現在の福島県西部)一国と近江国高島(現在の滋賀県高島市)、及び滋賀(現在の滋賀県大津市)を領有。豊臣秀吉や柴田勝家らと共に織田家を支え、武田勝家を破った賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)でも武功を挙げ、北ノ庄城(きたのしょうじょう:福井県福井市)の城主となりました。 そんな丹羽長秀は、安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)普請の際、その功績を織田信長より認められ、珠光茶碗(じゅこうちゃわん)を賜っています。しかし、理由は定かではありませんが珠光茶碗は後日、織田信長に召し上げられてしまったのです。その代わりに授かった刀が、鎌倉時代の刀工「長光」(ながみつ)による、鉋切長光(かんなぎりながみつ)と号する小太刀(こだち)でした。この刀は、近江国の守護大名であった六角義賢(ろっかくよしかた)が所有していましたが、1568年(永禄11年)、織田信長が六角義賢を降した(くだした)際に召し上げたと伝えられており、そのあと丹羽長秀のもとへ渡ったと考えられています。

丹羽長秀の武将年表

佐々成政の武将年表

佐々成政の武将年表
佐々成政(さっさなりまさ)は10代の頃より織田信長に仕え、黒母衣衆(くろほろしゅう:織田信長の親衛隊)の筆頭として戦功を挙げます。特に鉄砲への造詣は深く、鉄砲部隊において1列目が銃弾を発射している最中に、2列目が銃弾を装填しておくことで交互に繰り出し連射する二段撃ちの戦法を編み出しました。長篠の戦い(ながしののたたかい)に象徴される織田信長軍の鉄砲隊による戦果は、大きな功績を残しています。 また佐々成政は、柴田勝家の与力(よりき:侍大将などの上級家臣に属していた武士)として越中国(現在の富山県)の大名となるも、本能寺の変をきっかけに豊臣秀吉と対立。そんななか織田信雄(おだのぶかつ)と共に豊臣秀吉と対峙していたはずの徳川家康が、豊臣秀吉と和睦を結んだことを知った佐々成政は、徳川家康に意見を申し出るため厳冬期の立山連峰を命懸けで越えることに。これが後世で「さらさら越え」と称される逸話です。しかし佐々成政は最終的に孤立し領地の多くを失ってしまいます。豊臣秀吉との確執はそのあとも続き、肥後国(現在の熊本県)の大名として行った性急な検地が、肥後国人一揆を誘発。同国における統治の失態を豊臣秀吉から責められ無念の最期を遂げました。

佐々成政の武将年表

織田信秀の武将年表

織田信秀の武将年表
「織田信秀」(おだのぶひで)は、天下人「織田信長」の父親であり、自身も「尾張の虎」(現在の愛知県西部)と称された戦国武将です。時代はまさに群雄割拠、下剋上の時代。 織田信秀は、父親の「織田弾正忠信定」(おだだんじょうのちゅうのぶさだ)から受け継いだ経済基盤と知略を武器に、勢力拡大を図ります。駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)や美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)と何度も交戦。 尾張国の完全支配は叶いませんでしたが、その夢は織田信長へと受け継がれていきました。

織田信秀の武将年表

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